ラッパーのRed Eyeさんの父親について、どんな人なのか気になっている方は多いのではないでしょうか。
実はRed Eyeさん、物心ついた頃には父親が家におらず、その父に会うために不良の道へ進んだと語っているんです。
この記事では、本人がインタビューで明かした父親の人物像から、武道館を目指すきっかけになった親子関係まで詳しくまとめました。
・Red Eyeの父親がどんな人なのか(本人が語った人物像)
・父に会うために不良の道へ進み、ラップで父を超えようとした経緯
・父親の名前・職業やジャンボマーチ説など、よく検索される疑問への答え
Red Eyeの父親はどんな人?本人が語った親子関係
Red Eyeさんの父親は、本人の言葉を借りるとその道ではしっかり名前のある人だったそうです。
ここでは、Red Eyeさんがインタビューなどで語ってきた父親の姿を、時系列で見ていきます。
父親はその道で名の知れた不良だった
Red Eyeさんは、父親についてのインタビューで「環境のせいにはしたくない」と前置きしたうえで、父親のことを語っています。
その内容をまとめると、父親は地元で30年ほど、いわゆる不良として生きてきた人で、女性のところを渡り歩くような生活をしていたとのこと。
それでもその世界ではしっかりと名前の通った人物だったと話しています。
正直、息子の口からここまで率直に父親を語るのは、なかなかできることではないですよね。
Red Eyeさんが不良の道を進めば進むほど、周りから父親の名前を聞く機会が増え、父がかなりの不良だったことを知っていったそうです。
- 30年ほど地元で不良として生きてきた
- 家庭に落ち着かず、女性のところを渡り歩いていた
- その道ではしっかり名前の知られた存在だった
つまりRed Eyeさんの父親は、息子にとって「身近にいない、でも有名な人」だったということです。
父親が家を出たのは2〜3歳の頃
Red Eyeさんは2002年2月23日、大阪市住之江区で生まれました。
家族は父・母・3歳上の兄の4人家族です。
ただ、父親が家を出ていったのはRed Eyeさんが2〜3歳の頃。
そのため、物心ついたときにはもう父親は家にいなかったといいます。
幼い頃の遊び相手は兄で、兄に憧れて野球に打ち込んでいたそうです。
負けず嫌いな性格もあって、野球にはかなり本気だったとのこと。
父親がいない家庭で、兄の背中を追いかけていた少年時代だったんですね。
4年に1度だけ帰ってくる父の記憶
家を出たあとの父親は、4年に1度くらいのペースで家に帰ってきて、少し住んではまた出ていくという生活だったそうです。
Red Eyeさんにとって父親は、たまにふらっと現れてはいなくなる存在でした。
そんな父親の思い出について、Red Eyeさんは「匂い」で覚えていると話しています。
父親のことを思い出すのは、父がつけていたブルガリの香水の香りなのだとか。
……なんだか、胸がきゅっとなりますよね。
顔を合わせる時間が短かったからこそ、香りのような断片が強く残っているのかもしれません。
Red Eyeさんにとって父親は、長く一緒に暮らした記憶のない「たまに帰ってくる人」でした。
父に会うために不良の道へ進んだ理由
Red Eyeさんが中学に入って不良の道へ進んだのは、父親の存在が大きかったと本人が語っています。
父親はRed Eyeさん本人には比較的やさしかったそうですが、母親との間にはいろいろなことがあり、Red Eyeさんはそれがどうしても許せなかったそうです。
そこでRed Eyeさんが考えたのが、自分も不良になれば父親に会える、そして父親を超えて、母親に謝らせたいということでした。
普通の反抗期とはまったく違う動機ですよね。
不良になった理由が「父に会うため」というのは、読んでいて切なくなりました。
中学に入ると野球をやめ、格闘技やケンカに明け暮れるようになったといいます。
一方で、不良として父親の名前を耳にするうちに、父への憧れや「超えたい」という気持ちも芽生えていったそうです。
反発と憧れが入り混じった気持ちが、Red Eyeさんを不良の道へ向かわせたということです。
再会した父は「悪い先輩」に近い存在だった
不良の道を進んだRed Eyeさんは、やがて実際に父親と再会します。
ただ、再会した父親はRed Eyeさんにとって父親というより「悪い先輩」に近い存在だったそうです。
父親からは「商売とはこうやるんだ」というような、いわばアウトローな生き方を教わったと話しています。
一般的な親子関係とはかなり違う形ですが、それがRed Eyeさんと父親の距離感だったのでしょうね。
再会後も「父と息子」というより、裏社会の先輩と後輩のような関係だったことがわかります。
父を超えるために選んだのがラップだった
そんなRed Eyeさんの人生を変えたのが、12歳の頃に先輩から教わったD.Oさんの「悪党の詩」でした。
きれいごとではない過激な経験を、大衆に届く音楽として歌っていいのかと衝撃を受けたそうです。
ここでRed Eyeさんは、音楽なら全国に自分の名前を届けられると感じたといいます。
地元で名の知れた父親を超えるには、音楽しかない――そう考えてラップにのめり込んでいったと語られています。
その後、2017年に15歳で第12回高校生ラップ選手権に出場してベスト4、2019年の第16回大会で優勝。
不良か音楽か、どちらの道を選ぶかを考えた末に、音楽を選んだそうです。
父を超えるための手段が、ケンカからラップに変わった瞬間ですね。
Red Eyeさんがラッパーになった背景には、父親を超えたいという強い思いがありました。
武道館を目指すきっかけは父だった
Red Eyeさんは2025年2月5日、日本武道館でワンマンライブ「少年A」を開催しました。
日本人ヒップホップアーティストとして史上最年少での武道館ワンマンです。
この公演を独占生中継したABEMAの告知映像には、「武道館を目指すきっかけは父だった」という言葉が掲げられていました。
映像はYouTube・TikTok・Instagramなどで広く拡散され、TikTokでは350万回以上再生されています。
「red eye 父親」と検索する人が増えたのも、この映像がきっかけになった部分が大きいと考えられます。
不良として父を追いかけた少年が、最後は音楽で武道館という大舞台に立った。
……これ、なかなかグッとくる流れじゃないですか。
父親の存在は、Red Eyeさんにとって不良になる理由であり、武道館を目指す原動力でもあったということです。
父の代わりに家庭を支えた母親と兄
父親が不在がちだった家庭を支えていたのは母親でした。
Red Eyeさんは母親について、自分を犠牲にしてでも愛情を持って育ててくれた人だと語っています。
不良になった動機のひとつが「父に母へ謝らせたい」だったことからも、母親への思いの強さが伝わってきます。
また、3歳上の兄はRed Eyeさんが幼い頃に憧れた存在で、一緒に野球をして過ごしていたそうです。
なお、母親や兄は一般の方のため、名前や職業などは公表されていません。
Red Eyeの父親を調べる人向けの関連情報
ここからは、Red Eyeさんの父親について検索されることが多い疑問や、あわせて知っておきたい情報をまとめました。
父親の名前や職業は公表されている?
Red Eyeさんの本名は宮本大地(みやもと だいち)です。
そのため「red eye 父親 宮本」と検索する方もいるようですね。
ただ、父親の名前や職業について、Red Eyeさん本人や事務所が公式に明かしたことはありません。
本人が語っているのは「その道では名の知れた人だった」「女性のところを渡り歩いていた」といった人物像までで、具体的にどんな仕事をしていたかは語られていません。
SNSでは父親の呼び名が話題になったこともありますが、公式な情報ではないため、この記事では取り上げません。
父親は一般の方とみられ、名前・職業ともに公表されていないのが現状です。
父親はジャンボマーチという噂の真相
「レッドアイ 父親 ジャンボマーチ」という検索も見られます。
ジャンボマーチ(JUMBO MAATCH)さんは、レゲエのアーティストとして知られる人物です。
Red Eyeさんがレゲエとヒップホップを融合させたスタイルであることもあって、TikTokのコメント欄などで「父親はジャンボマーチでは」という声が出ていたようです。
しかしX(旧Twitter)では、この話が広まっていることに驚く投稿や、別人なので間違えないようにと注意を促す投稿も見られました。
Red Eyeさん本人やABEMAが、父親をジャンボマーチさんだと紹介した事実はありません。
父親がジャンボマーチさんだという話は、SNS上の誤解と考えてよさそうです。
Red Eyeの生い立ちと出身の住之江区
Red Eyeさんの出身は大阪市住之江区の加賀屋です。
学歴は加賀屋中学校卒業で、音楽で生きていくと決めて高校には進学しませんでした。
住之江区は大阪市の南部、大阪湾に面した地域で、競艇場があることでも知られています。
Red Eyeさん自身は、地元について「西成の隣」の地区だと説明しています。
中学時代は不良として荒れた日々を送り、自分の少年期を「少年A」と表現することも多いです。
デビュー曲とも言える楽曲「少年A」は、iTunesのヒップホップジャンルで1位を獲得しました。
| 年 | 主なできごと |
|---|---|
| 2002年 | 大阪市住之江区で生まれる |
| 2014年ごろ | D.Oの「悪党の詩」に衝撃を受けラップを始める |
| 2017年 | 第12回高校生ラップ選手権でベスト4 |
| 2019年 | 第16回高校生ラップ選手権で優勝/「少年A」リリース |
| 2021年 | アルバム「LIVING」「LEGEND」をリリース |
| 2023年 | アルバム「MOTHER EARTH」をリリース |
| 2025年2月 | 日本武道館ワンマン「少年A」を開催 |
憧れのD.Oとの関係
父親とは別に、Red Eyeさんが「憧れ」として名前を挙げ続けているのがラッパーのD.Oさんです。
中学時代には、通っていた中学の正門にスプレーで「D.O」と書いたこともあるほどだったとか。
その後、楽曲「POCKET」のリミックスでD.Oさんとの共演が実現し、MV撮影で初めて本人と対面しました。
さらに「悪党の詩 REMIX」ではD.Oさん本人と同じ曲を歌っています。
D.Oさんからは「この歳でこれだけのストリートマナーを身につけている子も珍しい」と評価されたそうです。
自分をラップの道へ導いた曲の本人と共演するなんて、まさにヒップホップドリームですよね。
Red Eyeが武道館に立ったのは何歳のとき?
Red Eyeさんが日本武道館でワンマンライブを開催したのは2025年2月5日で、当時22歳でした。
Red Eyeさんは以前から「22歳で武道館に立つ」と公言しており、その目標をそのまま実現した形です。
公演名は、自身の少年期を表した楽曲と同じ「少年A」。
告知は日本最大級のヒップホップフェス「POP YOURS」のステージ上で行われ、大きな盛り上がりを見せました。
今後は海外での活躍も視野に入れていると語っています。
Red Eyeの父親のまとめ
- Red Eyeは2002年2月23日生まれ、大阪市住之江区出身のラッパーで本名は宮本大地
- 家族は父・母・3歳上の兄の4人家族
- 父親は本人いわく「その道ではしっかり名前のある人」
- 父親は地元で30年ほど不良として生き、女性のところを渡り歩いていたと本人が語っている
- 父親が家を出たのはRed Eyeが2〜3歳の頃
- その後は4年に1度ほど帰ってきては、また出ていく生活だった
- 父の思い出はブルガリの香水の香りだと話している
- 父は本人にはやさしかったが、母親との間の出来事が許せなかった
- 不良になれば父に会える、父を超えて母に謝らせたいと考え不良の道へ進んだ
- 再会した父は「父親というより悪い先輩」に近い存在だった
- 12歳でD.Oの「悪党の詩」に出会い、父を超える手段として音楽を選んだ
- 2025年2月5日、22歳で史上最年少の日本武道館ワンマンを開催
- ABEMAの告知映像では「武道館を目指すきっかけは父だった」と紹介された
- 父親の名前・職業は公表されていない
- 父親がジャンボマーチだという話はSNS上の誤解とみられる

