秦基博さんの父親について調べても、名前も職業もぴたりと出てこなくて、ちょっともやっとしませんでしたか。
実は公式プロフィールに残っている父親の記述は、たった一行だけなんです。
その一行が、のちの秦基博さんの音楽人生を大きく動かしていたと知ったら、少し見え方が変わるかもしれません。
・秦基博の父親がどこまで公表されているのか(氏名・職業・年齢の扱い)
・小2の夏に一家で宮崎から横浜へ移った転居の経緯と、その後のキャリアへのつながり
・今も続くクリスマスの家族行事など、父親との現在の関係が分かる本人発言
秦基博の父親の人物像と家族のエピソード
秦基博さんの父親について検索すると、名前も顔写真もなかなか出てきません。
ここでは公表されている範囲の事実だけを拾いながら、父親がどんな存在だったのかを整理していきますね。
父親は一般人で名前も職業も非公表
まず結論からお伝えします。
秦基博さんの父親は芸能活動をしていない一般の方で、氏名・年齢・顔写真・勤務先のいずれも公表されていません。
これは事務所オフィスオーガスタの公式プロフィールでも、ソニーミュージックのオフィシャルサイトでも同じです。
公式に書かれている父親関連の記述は、実質的にたった一行しかありません。
「小2の夏に父親の仕事の都合で横浜に引越し」という一文です。
つまり公式が読者に渡しているのは、父親には転居をともなう仕事があった、という事実だけなんですよね。
ネット上には父親の年齢を推定している記事もありますが、これは秦基博さん本人の年齢から逆算した推測にすぎません。
当サイトでは、公表されていない一般の方の年齢や勤務先を推定して書くことはしていません。
「仕事の都合で引越し」から分かることと分からないこと
ここは慎重に見ておきたいところです。
小学2年生の夏に宮崎から神奈川へ家族ごと移っているので、少なくとも勤務地が変わりうる働き方だったことは読み取れます。
ただし、そこから「父親は転勤のある大企業の会社員だった」と言い切るのは行き過ぎです。
自営業の移転、親族の事情、家業の都合など、勤務地が変わる理由は会社の辞令だけではありません。
公式が書いているのは「仕事の都合」までで、業種も勤務先も一切明かされていないというのが正確な現在地です。
小2の夏に父の仕事の都合で横浜へ転居
秦基博さんの人生の地図を大きく描き替えたのが、この引っ越しです。
Wikipediaでは1988年7月、小学2年の夏に神奈川県横浜市青葉区(当時は同市緑区)へ転居と記載されています。
公式プロフィールの「小2の夏」という記述とも一致していますよ。
生まれは宮崎県日南市ですから、九州から関東へ、それも小学校低学年での移動です。
方言も気候も友達関係も、まるごと入れ替わるタイミングだったはずです。
……これ、8歳の子どもにとってはけっこう大きな出来事ですよね。
なお、ネット上の一部には「小学6年生のときに父親の仕事の都合で引っ越した」と書いている情報源もあります。
ただ、事務所公式・レコード会社公式・Wikipediaの3つが「小2の夏」で一致しているため、当記事では小学2年生説を採用しています。
引っ越し先の横浜が、その後の活動拠点になった
面白いのは、この転居がそのまま音楽キャリアの土台になっている点です。
秦基博さんは横浜市立つつじが丘小学校、横浜市立谷本中学校、法政大学第二高等学校と進み、その後も横浜のライブハウスで活動を積み上げていきます。
1999年にはライブハウス「F.A.D.yokohama」の弾き語りイベントに出演しています。
そして2005年末、ライブハウス出演時にたまたま居合わせたオフィスオーガスタのスタッフに声をかけられ、翌2006年3月に所属が決まりました。
父親の仕事の都合による横浜への転居がなければ、あのスカウトの場面そのものが存在しなかった可能性は十分にあります。
もちろんこれは断定できる話ではなく、時系列を並べたときにそう読める、という程度の話です。
それでも、家族の引っ越しが一人の音楽家の出発点につながっていると考えると、ちょっと不思議な気持ちになりませんか。
生まれ故郷の宮崎県日南市と父の転勤
秦基博さんが生まれたのは1980年10月11日、宮崎県日南市です。
公式プロフィールには「秦家の三男坊として生まれる」と書かれています。
日南市で過ごしたのは小学2年生の夏までなので、期間としては8年足らずということになりますね。
それでも故郷への思いは今も残っているようです。
日南市の合併10周年をきっかけに、飫肥城下町で「HATA EXPO」という野外ライブイベントが企画されました。
そのときのことを、秦基博さんは「生まれた場所でライブするのは少し不思議な気分でした」と語っています。
さらに「ソロでも良かったけど、せっかくなら音楽の楽しさを故郷の人たちにも味わって欲しかった」とも話していました。
……なんか、いいですよね。
8歳で離れた町に、大人になってから音楽を持って帰ってきたわけです。
父親の仕事の都合という、本人には選べなかった事情で離れた土地。
そこへ自分の意思で戻る形になったと考えると、この一言の重さが少し変わって聞こえてきます。
親が歌っていた曲が音楽の原体験
父親の職業は分かりませんが、家庭の空気が伝わる本人の発言はひとつ残っています。
秦基博さんはインタビューでこう語っています。
「小さい時から童謡とかみんなのうたとか音楽の時間に歌うような歌とかも常に口ずさんでいたり、親が歌ってた曲を覚えて歌っていたりとか」
ここで注目したいのは「親が歌ってた曲を覚えて歌っていた」という部分です。
楽器を習わせたとか、音楽教室に通わせたという話ではありません。
親が日常的に口ずさんでいた歌を、子どもがそのまま覚えていた、という距離感なんですよね。
これ、けっこう特別なことだと思います。
歌が特別なイベントではなく、生活の音として家の中にあったということですから。
まとめサイトの中には、ここから発展させて「両親は音楽好きで家庭にはいつも音楽が流れていた」と書いているものもあります。
ただ、本人の発言として確認できるのは「親が歌ってた曲を覚えて歌っていた」というところまでです。
父親が音楽関係の仕事をしていたという情報はどこにもなく、家庭に歌があったという以上のことは語られていません。
音楽の入口は父ではなく兄の3000円のギター
親の影響という切り口で見たとき、実は決定打になったのは父親ではなく兄でした。
秦基博さん本人がこう語っています。
「兄がある日ギターをもらってきたというか、ボロボロのフォークギターを友だちから3000円ぐらいで買ってきたんです。それを兄が弾きだして、自分もちょっとやってみたいなと思って借りて弾き始めたのが最初です」
公式プロフィールにも「中1の時、兄が友人から3000円でゆずってもらったギターを弾き始める」と書かれています。
Wikipediaでは「12歳ぐらいの時、6歳上の長兄が3,000円ほどで譲り受けてきたギターを初めて弾かせてもらったのがきっかけ」とされていて、小6から中1あたりという点で大きなズレはありません。
つまり秦基博さんの音楽人生は、親が買い与えた楽器ではなく、兄が友達から3000円で譲り受けた中古のフォークギターから始まっているんです。
え、そうだったの、と思いませんか。
しかも借り物です。
自分専用の一本ではなく、兄のギターを貸してもらうところからのスタートでした。
少年時代の主役は音楽ではなく野球だった
もうひとつ意外なのが、ギターに出会う前の秦基博さんです。
公式プロフィールには「少年野球大好きキャッチャータイプ」と書かれています。
幼児期は「丸々と太っていて玉のような」体型だったとも紹介されていて、ポジションもキャッチャーでした。
高校時代も放課後にカラーバットとカラーボールで日が暮れるまで野球をしていたそうです。
大学時代には、草野球の前日にボウリングを6ゲーム投げ、当日ピッチャーをしたら投げた腕の骨が折れる、という出来事まで起こしています。
……いや、それはやりすぎでは。
ちなみに中学の部活はバスケットボール部で、部活が終わってから家でギターを弾き歌いまくる毎日だったと公式に記されています。
音楽一色の少年時代ではなかった、というのは知っておくと面白いところです。
今もクリスマスに父と母と兄が集まる
父親との現在の関係が分かる、はっきりした本人発言があります。
2019年12月21日に放送されたラジオ関西「田代さや佳のMirache Music Triangle」での発言です。
「大人になるとなかなか家族が集まる機会がないので、クリスマスは父とか母とか兄が集まって大人のプレゼント交換を毎年やっています」
そう語ったうえで、こう付け加えています。
「何年もやっていて、もうネタ切れですけど」
……いい話じゃないですか、これ。
大人になった兄弟と両親が、毎年クリスマスにプレゼントを交換し合う。
しかもネタ切れになるくらい長く続いている、というところに家族の距離感がよく出ていますよね。
父親の職業も名前も公表されていませんが、少なくとも今も年に一度、家族が顔を合わせる関係が続いていることは本人の口から語られています。
芸能人の家族の話というと、疎遠や確執の話題になることも少なくありません。
そんな中で毎年集まってプレゼント交換というエピソードが出てくるのは、読んでいてこちらまで温かくなります。
家族構成は父と母と兄2人の5人家族
秦基博さんの実家の家族構成を整理しておきますね。
| 続柄 | 分かっていること |
|---|---|
| 父親 | 一般人。氏名・職業・年齢・顔写真すべて非公表。仕事の都合で横浜へ転居 |
| 母親 | 一般人。氏名・職業とも非公表 |
| 長兄 | 一般人。友人から3000円で譲り受けたギターが本人の音楽の入口に |
| 次兄 | 一般人。氏名・職業とも非公表 |
| 秦基博 | 1980年10月11日生まれ。三男(3人兄弟の末っ子) |
公式プロフィールの「秦家の三男坊として生まれる」という記述と、Wikipediaの「3人兄弟の末っ子」という記述は一致しています。
父・母・兄2人・本人の5人家族という形ですね。
なお、長兄については6歳上とする情報がありますが、これはWikipediaにのみ記載されている情報です。
家族はいずれも一般の方であるため、当記事では氏名・勤務先・居住地といった個人を特定できる情報は扱いません。
秦基博の父親を調べる人向けの関連情報
父親のことを調べていると、母親や実家、兄の噂まで気になってきますよね。
ここからは一緒に検索されやすいテーマを、確認できた事実ベースで整理していきます。
母親も一般人で情報は公開されていない
母親についても、公表されている情報は父親と同じくらい少ないです。
氏名・年齢・職業・顔写真のいずれも公開されておらず、一般の方であるという点だけが分かっています。
唯一、家庭の雰囲気に触れているのが、先ほど紹介した「親が歌ってた曲を覚えて歌っていた」という本人の発言です。
ここでの「親」は父と母の両方を指す言い方なので、母親の歌声も原体験に含まれている可能性はあります。
ただ、母親が具体的にどんな曲を歌っていたのか、音楽経験があったのかといった話は語られていません。
ちなみに、クリスマスのプレゼント交換には母親も参加しています。
「父とか母とか兄が集まって」という言い方なので、家族ぐるみの恒例行事ということですね。
実家は横浜市青葉区で地元も横浜
実家の場所についても整理しておきます。
生まれは宮崎県日南市ですが、1988年7月に横浜市青葉区(当時は緑区)へ転居して以降、生活の拠点はずっと横浜です。
そのため秦基博さんの地元はどこかと聞かれると、出身地は宮崎、育ちは横浜、という二段構えの答えになります。
実家の詳しい住所や建物については公表されていません。
家族が一般の方なので、当然といえば当然ですね。
自宅についても同様で、現在の住まいの場所は明かされていません。
分かっているのは、青葉区へ引っ越し、その後も横浜で活動を続けているというところまでです。
兄が教師という噂に公式の裏づけはない
検索候補にも出てくるのが、秦基博の兄は教師なのかという組み合わせです。
これ、気になりますよね。
結論から言うと、兄が教師をしているという噂に、公式な裏づけは一切ありません。
この噂を紹介している複数のサイトも、そろって真相は不明、確実な情報ではない、と書いています。
噂の広がり方を見ると、根拠として持ち出されているのは、秦基博さんが法政大学を卒業しているから兄も学のある職業ではないか、という推測です。
……正直に言って、これは根拠としてかなり弱いと思います。
本人の学歴から兄の職業を当てにいくのは、飛躍が大きすぎますよね。
兄について確認できている事実は、次の2点だけです。
ひとつは、友人から3000円ほどでフォークギターを譲り受け、それを弟である秦基博さんが借りて弾き始めたということ。
もうひとつは、大人になった今もクリスマスに集まる関係が続いているということです。
兄2人はいずれも一般人で、氏名・顔写真・職業とも公表されていません。
韓国人説の出どころは珍しい秦という名字
もうひとつ根強いのが、秦基博さんは韓国人なのではという説です。
こちらも複数のメディアが検証していますが、本人が韓国籍であることを示す根拠は見つかっておらず、噂の域を出ていません。
では、なぜこの説が生まれたのか。
指摘されているのは、秦という名字が日本ではあまり見かけないタイプの姓であることです。
珍しい名字が目に留まり、そこから出自の話に結びついた、という流れですね。
本人は宮崎県日南市生まれで、小学2年生から横浜育ち。
学歴も横浜市立つつじが丘小学校から法政大学まで、すべて国内の学校です。
両親についても国籍が公表された事実はありません。
つまり、名字の珍しさ以外に材料がないまま広がっている話、というのが実際のところです。
高校は法政二高で大学は法政大学経営学部
最後に学歴を整理しておきます。
| 区分 | 学校名 |
|---|---|
| 小学校 | 横浜市立つつじが丘小学校 |
| 中学校 | 横浜市立谷本中学校 |
| 高校 | 法政大学第二高等学校 |
| 大学 | 法政大学 経営学部 |
高校は法政大学第二高等学校、大学は法政大学経営学部を卒業しています。
高校では軽音楽部に入部し、コピーバンドを経てオリジナル曲の制作を始めました。
そして公式プロフィールには、大学時代について「テスト前以外は学校にほとんど行かないという生活を4年間続ける」と書かれています。
それでも無事に卒業しているあたりが、なんだかこの人らしい気もします。
2004年にはインディーズでミニアルバムを発売し、2006年11月8日にメジャーデビュー。
父親の仕事の都合で横浜に来た8歳の少年が、同じ街のライブハウスからプロになった、という流れですね。
秦基博の父親のまとめ
- 秦基博の父親は一般人で、氏名・年齢・職業・顔写真のいずれも非公表
- 公式プロフィールに残る父親の記述は「小2の夏に父親の仕事の都合で横浜に引越し」の一行のみ
- 転居は1988年7月、宮崎県日南市から神奈川県横浜市青葉区(当時は緑区)へ
- 仕事の都合とだけ書かれており、業種・勤務先は明かされていない
- 父親の年齢を推定している記事もあるが、本人の年齢からの逆算にすぎない
- 秦基博は1980年10月11日、宮崎県日南市に秦家の三男坊として誕生
- 実家の家族構成は父・母・兄2人・本人の5人家族
- 兄が教師という噂があるが、公式の裏づけはなく真相は不明とされる
- 音楽の入口は父ではなく、兄が友人から3000円で譲り受けたフォークギター
- 本人は親が歌ってた曲を覚えて歌っていたと家庭の音楽環境に触れている
- 少年時代は少年野球に熱中したキャッチャータイプで、中学の部活はバスケ部
- 大人になった今も、毎年クリスマスに父・母・兄が集まりプレゼント交換をしている
- 何年もやっていてもうネタ切れ、と本人がラジオ関西の番組で語っている
- 生まれ故郷の日南市ではHATA EXPOを開催し、故郷への思いを語っている
- 韓国人説は珍しい名字が出どころとされ、裏づけとなる根拠は確認されていない

