明石家さんまさんといえば、あの爆発的な笑顔と底抜けの明るさが印象的ですよね。
でも実は、その笑顔の裏に「3歳での母との死別」「継母からの無視」「最愛の弟の死」「日航機事故での奇跡的な生還」という、想像を絶する生い立ちがあったんです。
壮絶な体験を笑いに変え続けてきたさんまさんの原点を、くわしく紐解いていきます。
・継母に無視された幼少期がさんまの笑いの原点になった理由
・最愛の弟「チビ」の死とJAL123便を逃れた奇跡のエピソード
・「生きてるだけで丸もうけ」と「IMALU」という名前の本当の由来
明石家さんまの生い立ちと笑いの原点
「笑いのBIG3」と呼ばれるさんまさんですが、その笑顔の裏には想像を超えるほど壮絶な生い立ちがありました。幼少期から青年期に経験した数々の出来事が、どのように「明石家さんま」を生み出したのかを詳しく見ていきましょう。
本名・出身・学歴のプロフィール概要
明石家さんまさんといえば、お笑い界のBIG3のひとりとして知られる国民的スターですが、そのプロフィールをきちんと整理したことがある人は意外と少ないかもしれません。
本名は杉本高文(すぎもと たかふみ)。生年月日は1955年7月1日で、2025年7月に古希(70歳)を迎えました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 杉本高文(すぎもと たかふみ) |
| 生年月日 | 1955年7月1日 |
| 出生地 | 和歌山県東牟婁郡串本町 |
| 育ち | 奈良県奈良市 |
| 血液型 | B型 |
| 身長 | 172cm |
| 最終学歴 | 奈良県立奈良商業高等学校 |
| 師匠 | 2代目笑福亭松之助 |
| 事務所 | 吉本興業(マネジメント) |
| 活動時期 | 1974年〜 |
出身地については「奈良県出身」と言われることが多いですが、実際には和歌山県東牟婁郡串本町生まれ、奈良県奈良市育ちという少し複雑な経緯があります。
これは幼少期の家庭環境に深く関係していて、「生い立ち」を語る上で欠かせないポイントでもあります。
学歴は奈良市立鼓阪小学校、奈良市立三笠中学校を経て、奈良県立奈良商業高等学校に進学。大学には進まず、高校3年在学中に笑福亭松之助師匠への弟子入りを果たしています。
本名・杉本高文として生まれ、和歌山から奈良へ、そして芸名・明石家さんまとして全国区のスターへと駆け上がっていくわけです。
3歳で母を失った幼少期と父の再婚
知っていましたか?さんまさんの生い立ちは、多くの人が驚くほど波乱に満ちているんです。
さんまさんが3歳のとき、実のお母さんが病気で亡くなりました。その年齢から、お母さんの顔をほとんど覚えていないとさんまさん本人も語っています。
同じ年、一家は和歌山県串本町から奈良県奈良市へ引っ越し。父・杉本恒さんが営む水産加工業の工場と自宅が一体となった建物で、さんまさんはお兄さんの正樹さんと兄弟2人で暮らすことになります。
小学校時代は奈良市立鼓阪小学校に通い、ムササビを捕まえて学校に展示するほどの元気な少年でした。水泳に打ち込み、水彩画の全国コンクールで入賞したこともあるといいますから、勉強や運動、芸術と多方面に活躍していたんですね。
そして小学校高学年の頃、父が再婚。継母には連れ子がいて、さんまさんに年の離れた弟ができます。さんまさんは「弟ができる!」とはしゃいで喜んだそうで、その純粋な喜びがあとで大きな悲しみに変わっていくことを、当時の彼は知る由もありませんでした。
3歳での母の死と父の再婚——このふたつの出来事が、後の「明石家さんま」を形づくる原点になっていきます。
継母に無視され続けた少年時代のエピソード
これは、読んでいてちょっと胸が痛くなるエピソードです。
父の再婚後、継母とさんまさんの関係は決して良好ではありませんでした。継母は自分の連れ子(弟)だけをかわいがり、さんまさんとお兄さんのことはまるでそこに存在していないかのように扱ったと言われています。
あからさまな無視が続く中、特にさんまさんの心に刺さったのが、壁越しに聞こえてきた継母の言葉でした。
隣の部屋で酒を飲んでいた継母が「うちの子はこの子(弟)だけや……」とつぶやくのを、さんまさんとお兄さんの正樹さんは壁伝いに耳にしてしまったのです。
兄・正樹との二段ベッドで泣いたエピソード
お兄さんの正樹さんが後にこの出来事を証言しています。
「そのお母さんが隣の部屋で酒を飲みながら『うちの子はこの子(弟)だけや……』って言うのが壁伝いに聞こえてきたんですよ。二人でよう二段ベッドで泣きましたわ」
2人で二段ベッドに入り、声を押し殺しながら泣いた夜——想像するだけで胸が締め付けられますね。
お酒が苦手になった理由
この体験がきっかけで、さんまさんはお酒を飲む女性が苦手になったと言われています。
継母が酒を飲みながら放った言葉が深く心に刻まれたためで、芸能界に入るまでほとんど酒を飲まなかったとも。本質的にお酒が好きではないのも、この幼少期の体験が関係しているとさんまさん自身が語っています。
誰もが知るあの笑顔の裏に、こんな少年時代があったとは……改めて思うと、笑うことへのさんまさんの執念みたいなものが少し分かる気がします。
笑わせる習慣が生まれた継母との日々
では、さんまさんはその状況をどう乗り越えたのでしょうか。
継母から無視され続けたさんまさんは、「なんとか継母に自分を認めてもらいたい」「笑ってもらいたい」と毎日必死になって面白いことを考えるようになりました。
これ、すごくないですか?普通なら塞ぎ込んでしまいそうなものなのに、さんまさんは「笑わせること」で壁を突き破ろうとしたんです。
そのうちに学校でも同じノリで振る舞うようになり、気がついたらクラスの人気者に。「笑わせること」がさんまさんのアイデンティティになっていったわけです。
親戚が集まる場でも、いちばん目立てるのは誰かを笑わせたときだと気づいていたといいます。人に笑ってもらうことで自分の存在を確かめていた、という感覚だったかもしれません。
こうして継母との辛い日常が、逆に「笑いのエネルギー源」になっていったのだとしたら……なんとも複雑で、そして深いですよね。
明石家さんまの笑いの原点は、継母に「存在を認めてほしい」という切実な願いから生まれたものだったんです。
高校時代に「自分の頂点は17歳」と語った理由
中学時代は奈良市立三笠中学校に進学。同級生2人と「アーアーズ」というイタズラグループを結成し遊びに興じながら、植木等のモノマネも披露していました。奈良県中学生相撲大会で2位になった実績もあるほどの運動神経の持ち主でもあります。
さんまさんが通っていたのは奈良県立奈良商業高等学校。真面目な校風の商業高校でしたが、さんまさんは真面目とは程遠い学生生活を送っていました(笑)。
サッカー部に所属しながらも、授業を抜け出してパチンコで稼ぎ、その収入を仲間に分配するというフトッパラぶり。運動会では徒競走で逆走して怒られるなど、学校中の話題をさらい続けました。
クラスで桂三枝(現・文枝)の落語のコピーや自作の漫談を披露するのが日常で、ある英語の先生が授業を止めてでも「ちょっとやってみろ」と黙認するほどだったとか。知ったときびっくりしませんでしたか、この話。
そして高校3年生になったとき、英語の授業中に「杉本、おまえ、吉本入れ」と言った先生がいたそうです。これが、さんまさんが本格的に芸能界を意識するきっかけになりました。
文化祭では2時間の独演会を開催して大爆笑を取るなど、高校時代に人生最大の笑いを経験したことで、さんまさんは「自分の頂点は17歳だった」と後に語っています。
この時代がさんまさんの笑いの土台をつくり上げたといっても過言ではないでしょう。
最愛の弟「チビ」を火事で失った悲劇
ここからは、さんまさんの人生の中で最も重い話になります。
継母の連れ子として家族になった弟。最初は継母との関係で複雑な思いもあった弟でしたが、さんまさんは「チビ」と呼んで深くかわいがっていました。
弟はサッカーの才能に恵まれた青年で、高校のサッカー部のキャプテンを務め、インターハイ・国体にも出場したほどの実力の持ち主。さんまさんも「ぼくもサッカーやったけど、チビのほうがすごいんですよ」と語るほど、認めていた存在でした。
弟のサッカーでの活躍
弟はさんまさんをひたすら尊敬していて、「さんまが言うことはすべて正しい」と信じていたといいます。自分にも他人にも素直に自分をさらけ出せる、そんな人物だったとさんまさんは振り返っています。
そんな弟が19歳のとき、実家の火災で亡くなります。さんまさんは当時28歳でした。
1階が工場、2階が自宅という実家の構造で、火の手が上がったのは1階の工場からだったといいます。弟の遺体は工場の中央付近で発見されました。
オール巨人の言葉で芸人を続けた話
弟を失ったさんまさんは、仕事を辞めることを考えたほどのショックを受けます。
そんなとき、オール巨人さんがさんまさんを笑わせたことで、さんまさんは涙の中から笑いを取り戻すことができたと言われています。
笑えた瞬間、さんまさんはオール巨人さんに「ありがとう。これで芸人やめんで済むわ」と声をかけたそうです。
最愛の弟の死——それでも笑いを手放さなかったさんまさんの姿に、芸人としての強さと、生きることへの覚悟を感じます。
JAL123便を逃れた奇跡と座右の銘の誕生
さんまさんの人生には、もうひとつの「死の瀬戸際」があります。
1985年8月12日。毎週月曜日はフジテレビの「オレたちひょうきん族」を収録し、その後MBSラジオ「ヤングタウン」の生放送に出演するため、東京から大阪へ移動するのがさんまさんの定番スケジュールでした。
この日も普段通り東京から大阪へ向かうはずだったさんまさん。しかし収録が早く終わったため、予定していたJAL(日本航空)123便より1便早い全日空機に乗り換えました。
そのJAL123便が、群馬県上野村の山中に墜落したのです。
乗客乗員524名のうち520名が犠牲になったこの事故は、単独機による航空事故としては世界史上最悪の死者数を記録しています。
ラジオ番組の冒頭で墜落事故を知ったさんまさんは、体の震えが止まらず、トークもできずにずっと音楽を流し続けたといいます。
この出来事を経て、さんまさんは心に誓います。「バカなことでも何でもやって、みんなに笑ってもらおう。生きてるだけで儲けものなんだから」と。
座右の銘「生きてるだけで丸もうけ」は、弟の死とこのJAL事故という二つの体験から生まれた言葉なんです。
以降、さんまさんは新幹線で行けるところは必ず新幹線を使うようになったといいます。
「生きてるだけで丸もうけ」——この言葉の重みは、さんまさんの生い立ちを知ってこそ、より深く胸に刺さります。
笑福亭松之助への弟子入りと芸名の由来
1974年2月、高校3年生のさんまさんは、吉本興業所属の落語家・2代目笑福亭松之助師匠に弟子入りします。
入門のきっかけは、花月劇場で観た松之助師匠の新作落語があまりにも面白かったから。初対面で「なぜ私を選んだのか」と問われたさんまさんは「センセが一番好きやから」と答えたと言われています。
最初に与えられた高座名は「笑福亭さんま」。
「さんま」という名前は、実家が水産加工業でさんまを多く扱っていたことに由来しています。ちなみに実家の水産加工業では、さんまの干物などを中心に製造していました。
その後、松之助師匠の思いやりから芸名が変わります。「笑福亭」という屋号が自分たちの勢力範囲を示すような意味合いを持ち、さんまさんに不自由さを感じさせていると思った師匠が、自身の本名「明石光彦」の「明石」をさんまさんに贈ったのです。
こうして「明石家さんま」という芸名が誕生しました。
弟子入り後は内弟子修行を経てタレントへ転向。1976年大晦日の「小川宏ショー」が東京での初仕事となり、1977年にはコントユニット「ビールス7」を結成して桂三枝(文枝)師匠の目に留まり「ヤングおー!おー!」に出演するなど、お笑い界での躍進が始まっていきます。
師匠・松之助が弟子に自身の姓を贈るという粋な計らいが、「明石家さんま」という唯一無二の芸名を生み出したんですね。
明石家さんまの生い立ちを調べる人向けの関連情報
生い立ちを調べると、さんまさんに関する様々な「なぜ?」の答えが見えてきます。出身地や家族構成、あの有名な座右の銘の由来まで、さんまさんについて知りたい関連情報をまとめました。
出身地は奈良?和歌山?生まれと育ちの違い
さんまさんのプロフィールを調べると「奈良県出身」と書かれていることが多いですが、実は生まれは和歌山県東牟婁郡串本町、育ちは奈良県奈良市という「生まれと育ちが別」の経歴があります。
「さんまさんって奈良出身なの?和歌山じゃないの?」と思った方もいるかもしれませんね。
整理すると、さんまさんが和歌山で生まれたのは父の実家が和歌山県にあり、そこで水産加工業を営んでいたためです。しかし3歳のときにお母さんを亡くし、同じ年に一家は奈良県奈良市へ転居。
以降はずっと奈良で育ったため、さんまさん自身が「奈良育ち」という意識が強く、奈良弁をそのまま使い続けているのも納得できます。
奈良商業高校(現・奈良朱雀高等学校)も奈良市内の学校で、笑福亭松之助師匠への弟子入りも奈良でのご縁がきっかけでした。
「和歌山生まれ、奈良育ち」——この複雑な背景が、さんまさんのルーツを象徴しているといえますね。
父親と実家の水産加工業について
さんまさんの父・杉本恒さんは、水産加工業を営んでいた実業家です。
実家では1階が工場、2階が自宅という構造で、さんまの干物などを中心に水産物を製造・加工していました。この「サンマの加工業」という家業が、さんまさんの芸名「さんま」の由来になったのは有名な話ですよね。
父は後に再婚し、継母との間にできた家庭環境がさんまさんの生い立ちに大きな影響を与えました。継母から無視され続けた体験を経ながらも、さんまさんはずっと父を慕っていたといいます。
弟が19歳のとき、実家の工場から出火した火災で命を落としており、この事故はさんまさんにとって最も辛い出来事のひとつとなりました。
さんまさんのお兄さん・正樹さんは現在も奈良でカラオケ店を経営しており、父が晩年に営んでいた「カラオケ喫茶さんま」を引き継いでいると言われています。
水産加工業を営んだ実家の家業と父の存在が、さんまさんの芸名の原点であり、生い立ちの根幹にある背景なんです。
大竹しのぶとの結婚・離婚と娘IMALUの誕生
さんまさんの家族といえば、元妻の大竹しのぶさんと娘のIMALUさんが有名ですよね。
1988年に大竹しのぶさんと結婚し、1989年9月19日に長女・IMALUさん(本名:大竹いまる)が誕生。しかし1992年に離婚という、短い結婚生活でした。
大竹さんには前の結婚で生まれた連れ子・二千翔(にちか)さんがいましたが、さんまさんはこのニチカさんをIMALUさん以上にかわいがっていたと言われています。
これは自分自身が継母に冷たくされた体験があったから。「継母に傷つけられた」という気持ちを、連れ子の立場であるニチカさんには絶対に味わわせたくないという親心から、家に帰ると必ずIMALUさんより先にニチカさんに触れるよう気をつけていたといいます。
連れ子・二千翔への継母体験からの気遣い
さらに、子供たちに自分のことを「パパ」「父さん」ではなく「ボス」と呼ばせているのも、ニチカさんへの気遣いからだとされています。
「ボス」という呼び名なら、さんまさんの実の子でなくても同じ立場で呼べる——そんな配慮があったのかもしれません。
またIMALUという名前には「生きてるだけで丸もうけ(=いまる)」という意味が込められており、JAL123便を逃れた体験と弟の死という壮絶な生い立ちが、娘の名前にまで刻まれているんです。
離婚後も毎年の合同誕生会で家族としての絆を保ち続けている、さんまさんと大竹さん。子供たちへの愛情深さには、壮絶な生い立ちを経たさんまさんならではの「家族への思い」が詰まっているように感じます。
明石家さんまの生い立ちのまとめ
- 本名は杉本高文で1955年7月1日、和歌山県東牟婁郡串本町生まれ
- 3歳で母が病死し、同年に奈良県奈良市へ転居した
- 実家は1階が工場・2階が自宅の水産加工業を営む自宅兼工場
- 小学校高学年の頃、父が再婚し継母の連れ子として年の離れた弟「チビ」ができた
- 継母はさんまを無視し連れ子だけをかわいがり、「うちの子はこの子だけや」という言葉を壁越しに聞いた
- 兄・正樹と二段ベッドで涙した体験が、笑わせることでの承認欲求につながった
- 継母に認めてもらおうと毎日面白いことを考えた習慣が笑いの原点になったとされる
- 奈良商業高校時代は自他ともに認める学校の人気者で「自分の頂点は17歳」と語った
- 弟「チビ」は19歳のとき実家の火災で亡くなり、さんまは芸人を辞めようとした
- オール巨人の言葉で笑えた瞬間に「ありがとう。これで芸人やめんで済むわ」と感謝した
- 1985年のJAL123便墜落事故を1便早い飛行機に乗り換えたことで奇跡的に難を逃れた
- 弟の死とJAL事故の体験から座右の銘「生きてるだけで丸もうけ」が生まれた
- 1974年に笑福亭松之助師匠に弟子入りし「笑福亭さんま」としてデビューした
- 師匠の本名「明石」をもらい「明石家さんま」に改名した
- 娘・IMALUの名前は「生きてるだけで丸もうけ(いまる)」の略に由来する

