詩画作家・星野富弘さんの人生を支えたのは、何よりも家族の愛でした。
首から下の自由を失った息子のために「わが身を切り刻んででも」と言ったお母さん。熱を出した夜、病室には入らず窓明かりを遠くから見つめながら祈り続けた妻・昌子さん。そして弟が手作りした画台……。
そんな家族たちとの深い絆が、日本中を感動させた詩画を生んだのかもしれません。今回は星野富弘さんの家族構成について、感動のエピソードとともに詳しくご紹介します。
・星野富弘の両親・兄弟・妻などの家族構成
・妻・渡辺昌子さんとの馴れ初めと結婚のエピソード
・子供がいなかった理由と「作品たちがわたしたちの子供」という言葉の意味
星野富弘の家族構成:両親・妻・兄弟たちとの絆
星野富弘さんを語るとき、家族の存在を抜きにはできません。
手足の自由を失うという絶望的な状況の中で、家族の愛があってこそ、あの美しい詩画が生まれたといっても過言ではないでしょう。
星野富弘の出身家族:9人大家族で育った生い立ち
星野富弘さんは1946年4月24日、群馬県勢多郡東村(現在のみどり市東町)に生まれました。
渡良瀬川の上流域にある、山と緑に囲まれた自然豊かな村です。
両親と兄弟7人の計9人という、今ではなかなか見かけない大家族の中で育ちました。
しかも、7人兄妹の5番目という真ん中っ子。たくさんの兄や弟、姉や妹に囲まれて育ったんですね。
一家は農業を営んでいました。
もともと星野さんが生まれた土地は、お父さんの故郷でした。第二次世界大戦で東京が焼け野原になった後、一家で父の故郷である東村に戻ってきたそうです。
戦後の物資が乏しかった時代にあっても、大自然の中で家族に囲まれ、心豊かな幼少期を過ごしたことが、後の星野さんの詩画の感性を育んだのかもしれません。
登山や器械体操に熱中した活発な少年は、群馬大学教育学部保健体育科を卒業後、中学校の体育教師になりました。
その後の事故については多くの方がご存知でしょう。1970年6月17日、クラブ活動で器械体操を指導中に頭部から転落し、頸髄を損傷。手足の自由を失うことになりました。
その辛い時代を支えたのが、まさに家族でした。
父への想いが詰まった詩「別れ」
星野富弘さんのお父さんについて、具体的なお名前などは公表されていません。
ただ、星野さんがお父さんへの深い想いを込めた詩を残しています。
「別れ(サンカクソウ)」という作品です。
あなたが 最後に見た季節が
また巡って来ました
あれから私は 幽霊というものが
いてもいいと思うようになりました
できることなら あなたに幽霊に
なってもらってでも もう一度 逢いたいのです
父ちゃん
気付くのが少し遅かったけれど 分かりました
詫びることも お礼をいうことも
出来なくなる別れがあるということを
……読むだけで、胸がぎゅっとなりませんか。
「詫びることも お礼をいうことも 出来なくなる別れ」という言葉が、深く心に刺さります。
お父さんが突然逝ってしまった、あるいは言葉を交わす間もなく別れることになった悲しみが、静かに、しかし力強く伝わってきます。
もともとお父さんは、富弘さんが先生になったことを誰よりも喜んでいたといいます。
そして、息子が事故に遭ったとき、田植えで泥のついた長靴のまま病院に駆け付けたというエピソードが残っています。
農作業の途中でも、我が子のことなら何もかも放り出して飛んでいく。そのお父さんの姿が目に浮かぶようで、じんわりと温かくなりますよね。
母・知野さんの献身的な介護と支え
星野富弘さんのお母さんの名前は知野(ともの)さん。
これがまた、本当に強い母親なんです。
息子が事故に遭い、首から下が動かなくなったとき、知野さんは「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」と思ったそうです。
……これ、親になった方なら特にわかると思うんですけど、本当に胸が痛くなる言葉ですよね。自分が代わってやりたいという気持ちが、こんなにも強く伝わってくる。
知野さんは入院中の息子のために、毎日3度の食事の介助をし、様々な介護を続けました。
積もりに積もったいらだちが爆発したような時も、じっとそばでそれを受け止めてくれたといいます。
そして、星野さんが絵を描き始めるようになると、スケッチブックや絵の具の準備など制作のサポートも行いました。
最初の制作活動は、まさに母と息子の二人三脚で始まったんですね。
1981年に富弘さんが昌子さんと結婚するまでの約11年間、食事の補助から身の回りのあらゆる介護まで、知野さんがつきっきりで対応していました。
知野さんが後にキリスト教の洗礼を受けたこと
息子・富弘さんは1974年に病室でキリスト教の洗礼を受けていますが、その後、お母さんの知野さんも洗礼を受けたといいます。
長年、息子の創作活動とキリスト教への信仰を傍で見ていた知野さんが、自らも信仰の道に入ったというのは、どこか感動的なエピソードですよね。
知野さんは2018年7月、97歳で永眠されました。
親孝行な長寿でもあり、息子と共に創作の歴史を歩んだ知野さんの人生は、星野富弘さんの詩の中に永遠に生き続けています。
弟が手作りした「画台」というサポート
星野富弘さんには7人の兄妹がいましたが、家族の中でも特に印象的なエピソードとして残っているのが、弟さんの話です。
当時、鉄工所に勤めていた弟さんが、富弘さんのために特別な画台を手作りしたのです。
横向きに寝た姿勢でも絵や字が書きやすいよう、専用に設計されたもの。弟さんの職業スキルが、兄の創作活動を直接支えることになりました。
こういう話、素直にいいな、と思いませんか?
鉄工所で働く弟が、兄のために金属を加工して画台を作る。その画台があったからこそ、あの美しい花の詩画たちが生まれたとも言えるわけです。
家族みんなが、それぞれの形で富弘さんの創作を支えていたんですね。
妻・渡辺昌子さんのプロフィールと馴れ初め
富弘さんを語るとき、妻・渡辺昌子さんの存在は絶対に欠かせません。
渡辺昌子さんと富弘さんが出会ったのは、1973年1月頃のこと。富弘さんが事故に遭ってから約2年半が経った頃でした。
昌子さんはキリスト教徒で、前橋キリスト教会に所属していました。教会の舟喜牧師から紹介され、病室を訪れたのがきっかけです。
初めて病室を訪れた日、母親が外出していて留守だったため、昌子さんは富弘さんに蜜柑を食べさせてくれてから帰っていったといいます。
そしてその日から、土曜日ごとに毎週欠かさず来るようになり、それがいつの間にか週2度、週3度になっていったのです。
富弘さんが熱を出した時には、会社の帰り道に毎日立ち寄り、病室には入らず窓明かりを遠くから見つめながら祈ってくれていたそうです。
……なんか、この場面、すごく映画的ですよね。病室の光に向かって、一人で静かに祈り続ける昌子さんの姿。言葉よりも深い思いが伝わってきます。
昌子さんの宗教的背景・教会との縁
昌子さんは前橋キリスト教会の信者でした。牧師の舟喜先生を通して、まだ出会っていない頃から星野富弘さんのことを知っていたといいます。
キリスト教という共通の信仰が、二人を結びつけた大きな縁だったことは間違いありません。
富弘さん自身も、昌子さんとの出会いから約2年後の1974年12月にキリスト教の洗礼を受けています。
昌子さんとの結婚と2人の絆
2人の結婚は、1981年4月29日のことでした。
昌子さんが初めて病室を訪れてから、実に8年が経っていました。
場所は前橋キリスト教会の礼拝堂。家族や友人たちに見守られながら、2人は永遠の誓いを立てました。
富弘さんがその時の気持ちを詩に込めています。有名な「結婚ゆびわ」という作品です。
結婚ゆび輪は いらないと いった
朝、顔を洗うとき
私の顔を きずつけないように
体を持ち上げるとき
私が痛くないように
結婚ゆび輪は いらないと いった
今、レースのカーテンをつきぬけてくる
朝陽の中で
私の許に来たあなたが
洗面器から冷たい水をすくっている
その十本の指先から
金よりも 銀よりも
美しい雫が 落ちている。
これほど美しい詩が書けるのか、と思わず涙が出そうになるエピソードです。
指輪をつけると介護の邪魔になるから要らないと言った昌子さん。その10本の指から落ちる水の雫を「金よりも銀よりも美しい」と表現した富弘さん。
2人の間にある愛の深さが、言葉の一つひとつから伝わってきますよね。
結婚後は、それまでお母さんが担っていた介護や創作サポートを昌子さんが引き継ぎました。43年間、常に富弘さんのそばに寄り添い続けた昌子さん。
著書『ことばの雫』(2008年)では、昌子さん自身も写真撮影担当として参加し、夫婦二人三脚で一冊の本を作り上げました。
2024年に富弘さんが亡くなった後、みどり市から名誉市民称号を授与された際、昌子さんは「富弘さんも喜んでいると思う」と言葉を残しました。
夫を失った後も、その喜びを富弘さんへの報告として語ったその姿に、43年間の2人の絆を感じます。
子供はいないが「作品たちがわたしたちの子供」
富弘さんと昌子さんの間には、子供はいませんでした。
首から下の自由を失った体でのご夫婦だったことを考えると、様々な事情があったことは想像に難くないですよね。
それでも富弘さんは、そのことを嘆くのではなく、こんな言葉を残しています。
「作品たちは、わたしたちの子供」
……これ、すごく好きな言葉なんですよ。
2人で丁寧に育てた作品たちが子供のようなものだという考え方。体では授かれなかったものを、心と言葉と絵の具で表現して世に送り出した。その作品たちは今も世界中で愛されています。
富弘さんには子供への深い愛情もあって、コロナ禍には「子どものための花の詩画展」も開催していました。
こんな詩も残しています。
「花がお母さん / つぼみは 子供たち / 我家の庭の 芙蓉家族です / 私は 神様の扶養家族です」(芙蓉家族・酔芙蓉)
神様の”扶養家族”として、大きな愛に包まれているという感覚。そこには子供への憧れと、それを超えた大きな愛の形が感じられます。
星野富弘の家族構成を調べる人向けの関連情報
星野富弘さんの家族について調べている方が、合わせて気になっているテーマをまとめました。
星野富弘の死去と昌子さんの現在
星野富弘さんは2024年4月28日午後6時32分、呼吸不全のため78歳で亡くなりました。
1946年生まれで2024年没。その生涯のほとんどを、首から下の自由を失った状態で生きていたことになります。
お別れ会では「作品は後世に語り続ける」という言葉が語られました。
昌子さんは現在、故人の遺志を受け継ぎながら生活されていると思われます。
前述の通り、みどり市からは名誉市民称号が贈られ、昌子さんが受け取りました。富弘さんが愛した故郷・群馬県みどり市の富弘美術館は、今も多くの来場者を迎え続けています。
詩画集をはじめとする多くの著作も、今後も読み継がれていくことでしょう。
7人兄弟の中の星野富弘の位置づけ
星野富弘さんは7人兄妹の5番目でした。
上に4人、下に2人という兄妹構成です。
詳細な兄妹の名前や職業などは公表されていませんが、弟さんが鉄工所で働いていたことはわかっています。その弟さんが手作りしてくれた画台が、富弘さんの創作を支えました。
家族全員が農業を手伝いながら育った時代背景の中、富弘さんは唯一大学に進学し、先生になったといいます。
ご両親が誰よりも息子の教師就任を喜んでいたという記録が残っているのも、そうした家族の背景があるからこそでしょうか。
その喜びに水を差すような形で起きた事故。しかし家族全員が富弘さんを支え続けました。
星野富弘の詩画と家族への感謝
星野富弘さんの詩画には、家族への感謝が随所に込められています。
母への感謝は「ぺんぺん草のうた」という詩に表れており、この詩にはミュージシャンの岩渕まことさんが曲をつけています。
父への想いは「別れ(サンカクソウ)」に。
妻への愛は「結婚ゆびわ」をはじめとする多くの詩に。
富弘さんの詩画集は、1986年刊行の『花の詩画集 鈴の鳴る道』が205万部、同年の『かぎりなくやさしい花々』が106万部、1999年刊行の『花の詩画集 あなたの手のひら』が60万部と、ベストセラーを連発しています。
これほどの数の人が共感したのは、詩画の美しさだけでなく、その言葉の裏に流れる家族への愛と感謝が、読む人の心を打ったからではないでしょうか。
富弘美術館には2021年12月の時点で700万人以上が訪れています。これは単なる美術館の数字ではなく、星野富弘さんの生き方と言葉に触れた人の数でもあります。
世間からの声も多く、高校生が星野さんの作品に出会って「背中を押された」と語ったエピソードも残っています。「ここ、私も同じように感じたことがある」という共感の声が、今もSNSに絶えません。
星野富弘の家族構成のまとめ
- 1946年4月24日、群馬県勢多郡東村(現みどり市東町)生まれ
- 7人兄妹の5番目、両親含め9人の大家族で育つ
- 一家は農業を営んでいた
- 父は星野さんの教師就任を誰よりも喜んでいた
- 父が突然亡くなったことへの後悔を詩「別れ」に込めた
- 母・知野さんは怪我後、約11年間にわたって献身的な介護を担った
- 知野さんの言葉「わが身を切り刻んででも生きる力を送り込みたい」
- 知野さんは後にキリスト教の洗礼を受け、2018年7月に97歳で逝去
- 弟は鉄工所勤務で、創作活動を支える画台を手作りした
- 妻・渡辺昌子さんとは1973年1月頃、病室で出会う
- 昌子さんは前橋キリスト教会の信者で、牧師の紹介で病室を訪問
- 出会いから8年後の1981年4月29日に前橋キリスト教会で結婚式
- 子供はいなかったが「作品たちがわたしたちの子供」と語った
- 昌子さんは43年間、創作活動を支え続けた
- 2024年4月28日、78歳で呼吸不全により逝去
- 富弘美術館の入館者は700万人を超える

