テレビのニュース解説でおなじみの国際政治学者、廣瀬陽子さん。
その実家は東京・原宿にある母方の家で、祖父母と母との4人暮らしだったんです。
しかも実家の片付けをしていたら、旧ソ連研究の意外なルーツまで出てきたというから驚きですよね。
・廣瀬陽子さんの実家の場所と、祖父母・母との4人暮らしの様子
・実家の家族(祖父・祖母・母・父)の職業やエピソード
・実家じまいで見つかった祖父のソ連の領収書と研究の原点
廣瀬陽子の実家は渋谷区原宿にある母方の家
国際政治学者としてテレビでもおなじみの廣瀬陽子さんの実家は、東京・原宿にある母方の家です。祖父母と母との4人暮らし、ソ連帰りの祖父、100歳まで生きた祖母と、研究者・廣瀬陽子さんの原点が詰まった家について見ていきましょう。
実家の場所は東京都渋谷区の原宿
廣瀬陽子さんの実家は、東京都渋谷区の原宿エリアにあります。
1972年8月11日に東京都渋谷区で生まれ、そのまま原宿で育ったことがプロフィールでも紹介されています。
小学校は地元の渋谷区立神宮前小学校で、1985年に卒業しています。
神宮前といえば、表参道や竹下通りがすぐそばにある、まさに流行の発信地ですよね。
そんな華やかな街の真ん中で育ったと聞くと、ちょっと意外に感じる方も多いのではないでしょうか。
というのも、廣瀬陽子さん本人は小学生のころを「100%インドア派」と振り返っているんです。
学校や区の図書館にある歴史や伝記の本を、小学2年生くらいで全部読んでしまったという記憶があるそうで、本が友達という少女時代でした。
原宿の喧騒とは真逆の、静かに本を読みふける女の子……なんか、いいですよね。
住所の番地までは公表されていませんが、生まれも育ちも渋谷区で、原宿の母方の家こそが廣瀬陽子さんにとっての実家ということになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1972年8月11日 |
| 出身地 | 東京都渋谷区 |
| 育った場所 | 原宿(母方の実家) |
| 小学校 | 渋谷区立神宮前小学校(1985年卒業) |
| 血液型 | A型 |
実家は母方の祖父母の家で4人暮らし
廣瀬陽子さんが育った実家は、お母さんの実家、つまり母方の祖父母の家です。
本人がインタビューで語ったところによると、家族は祖父・祖母・母・本人の4人暮らしでした。
お母さんは仕事で朝早く出かけて深夜に帰ってくる生活だったため、家で母親と顔を合わせることはめったになかったそうです。
そのため、日常の世話をしてくれたのは主に祖父母でした。
廣瀬陽子さんはこの関係を「祖母が母、母が父という位置づけだった」と表現しています。
家の中の役割がそんなふうに入れ替わっていたというのは、読んでいてちょっと胸にくるものがありますね。
ただ、寂しい家だったのかというと、そうではなさそうです。
祖母からは「人のために尽くしなさい」「お友達を大事にしなさい」と繰り返し教えられ、祖父からは旧ソ連で働いた話をたくさん聞かされて育ちました。
原宿の実家は、祖父母が親代わりになって孫を育てた3世代の家だったということがわかります。
実家には母の私物と研究者の私物が眠っていた
のちに廣瀬陽子さんが実家の片付けに向かった際には、段ボールや紙袋に入った本人の私物が山積みになっていたそうです。
写真や手紙、書類など、子どもの頃から大学時代までの思い出が実家にそのまま残されていたことがうかがえます。
両親は1歳のころに離婚していた
廣瀬陽子さんのご両親は、廣瀬陽子さんが1歳くらいのときに離婚しています。
母方の実家で暮らすようになったのは、この離婚がきっかけと考えるのが自然でしょう。
1歳という年齢ですから、父親と一緒に暮らした記憶はほとんどなかったはずです。
父親の名前や職業、その後については、本人から語られたことはなく、情報は出ていません。
一方で、廣瀬陽子さんの語り口からは、父親不在をことさらに悲観する様子は感じられないんですよね。
母が父親の役割を担い、祖母が母親の役割を担う——その形の中で、廣瀬陽子さんはしっかりと愛情を受けて育ったのだと思います。
父親の情報は公表されておらず、実家での暮らしは母方の家族だけで成り立っていたというのが実際のところです。
母はグラフィックデザイナーとして働いていた
廣瀬陽子さんのお母さんの職業はグラフィックデザイナーです。
朝早くに家を出て、帰りは深夜という多忙な毎日を送っていました。
シングルマザーとして一家を支える立場だったことを考えると、その忙しさも納得ですよね。
ただ、忙しいなかでも、娘の進路には驚くほど真剣に向き合っていたようです。
中学受験で「桐朋にしか行かせません」と宣言
中学受験の際、お母さんは塾の先生に「教育方針が気に入ったから娘は桐朋にしか行かせません」と宣言したそうです。
当時の桐朋女子は入試が3日間にわたっていたこともあり、受験したのは1校だけでした。
廣瀬陽子さんは自由な校風のなかで中高時代を過ごし、「教育方針で学校を選んでくれた母に感謝」と振り返っています。
東大志望に「何をしたいの?」と突っ込んだ
大学受験では、模試で東大法学部もA判定が出ていたため、本人も東大に行く気になっていました。
ところがお母さんに話すと「あなたは東大でいったい何をしたいの?言ってごらんなさい」と突っ込まれ、ぐうの音も出なかったそうです。
これ、なかなか言えない一言ですよね。
この問いをきっかけに「大学で何をしたいのか」を真剣に考え、国際社会を総合的に学べる慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)をAO入試で選びました。
さらに、中学2年生のときに韓国での1か月弱のホームステイに参加したのも、お母さんのすすめで通っていた語学スクールのプログラムでした。
仕事で家にいない時間が長くても、進路の要所ではお母さんが大きな役割を果たしていたことがわかります。
祖母は世界一尊敬できる人で100歳で他界
実家で「母親役」だった祖母は、廣瀬陽子さんにとって世界一尊敬できる人です。
祖母は「利他の精神」しかない人だったそうで、「人のために尽くしなさい」「お友達を大事にしなさい」とよく言われていたと語っています。
慶應を首席で卒業することが決まったときも、大学からの連絡を受けたのは実家にいた祖母でした。
卒業旅行から帰った廣瀬陽子さんに「大学から連絡があったからすぐに電話しなさい」と伝えたのが祖母だった、というエピソードは、実家の空気が伝わってきて個人的にすごく好きです。
そんな祖母は2022年2月に100歳で亡くなりました。
東京都などから賞状を受け取るほどの長寿で、長く患うことなく自宅で看取ることができたそうです。
「幸せだったのではないかと思います」という本人の言葉には、じんわりきますね。
アゼルバイジャン留学時代には、祖母と母がそろって写った写真も残っています。
廣瀬陽子さんの人柄の土台をつくったのは、実家で母親代わりを務めた祖母だったと言ってよさそうです。
祖父はソ連でプラント建設を監修していた
実家のもう一人の親代わりである祖父は、実は旧ソ連とつながりのある人物でした。
廣瀬陽子さんが慶應SFCのコラムに書いたところによると、祖父は1972〜73年にソ連でプラント建設の監修をしていたそうです。
ちょうど廣瀬陽子さんが生まれた年ですね。
モスクワでは外国人用の「ウクライナホテル」に長期滞在し、朝はじゃがいもとヨーグルトしかなく牛乳すら飲めなかった、常にKGBに監視されていた、など、祖父から聞くソ連の話は大変なものばかりだったといいます。
レニングラードに行きたいと言っても許されず、土日はいつもモスクワ動物園で時間をつぶしていたという話まであります。
留学前に「あんな国に行くな!」と止められた
2000年に廣瀬陽子さんがアゼルバイジャンへの留学を伝えたとき、祖父は「あんな、じゃがいもとヨーグルトしか食べられない国に行くな!」と言ったそうです。
アゼルバイジャンとロシアは別の国ですが、祖父は旧ソ連の国はどこも同じだと思っていたのだろう、と本人は振り返っています。
心配する祖父の顔が浮かぶようで、ちょっと笑ってしまうエピソードですよね。
実家にはソ連のお土産物や、祖父のロシア語教本がたくさんあったそうです。
旧ソ連研究の第一人者の実家には、もともとソ連の空気が漂っていたというわけです。
2022年から始まった実家じまいと旧ソ連研究の原点
祖母が亡くなったことで、廣瀬陽子さんの実家は「実家じまい」をすることになりました。
本人の私物が大量に残っていたため、捨てるものと引き取るものを確認しに来るよう言われ、実家に行ったそうです。
ところが、段ボールや紙袋から写真や手紙、書類が次々と出てきて、いちいち読んでは思い出にふけってしまい、作業は一向に進まなかったといいます。
分かります、実家の片付けってそうなりますよね。
出てきたのは50年前のソ連の領収書
そのなかに、見覚えのない古い藁半紙の束がありました。
ロシア語が書かれていたので、お母さんは廣瀬陽子さんの私物だと思ったようですが、実はすべて1973年のソ連の外貨ショップ「ベリョースカ」の領収書だったそうです。
ブローチやマトリョーシカなどの品名が手書きで並んでいて、祖父が帰国前にお土産をまとめ買いしたときのものと見られます。
研究の原点は実家で聞いた祖父の話だった
廣瀬陽子さんはこれまで、旧ソ連研究を始めた理由を、高校時代にペレストロイカに感銘を受けたことや、1991年4月のゴルバチョフ初来日の際に本人と直接会った衝撃だと説明してきました。
しかし、この領収書を見て、祖父から聞いていたソ連の話こそが研究の方向性に大きな影響を与えていたのではないか、と思うようになったそうです。
実家じまいは全く終わりそうにないけれど、研究の原点を思いがけず見つけられた——と本人はつづっています。
実家じまいで見つかったのは、祖父の思い出と、旧ソ連研究のもう一つのルーツだったということです。
廣瀬陽子の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、廣瀬陽子さんの実家と一緒によく調べられている家族構成や高校、若い頃のエピソードなどをまとめました。
家族構成は夫と息子の3人家族
廣瀬陽子さんは結婚していて、一児の母です。
現在の家族構成は、廣瀬陽子さん・夫・息子の3人家族ということになります。
2022年のインタビューでは「夫は今春から札幌の大学に単身赴任、息子は中学に入学」と語っていました。
夫も大学に勤めていて、2022年の春からは東京と札幌で離れて暮らしていたことになります。
同じ年にロシアのウクライナ侵攻が始まり、廣瀬陽子さんのメディア出演が激増したため、「家族の生活は一変、大激変です」とも話しています。
夫の名前や勤務先の大学名は公表されていません。
息子さんは2022年に中学に入学しているので、2026年時点では高校生の年代です。
生まれ育った実家と、今の家族を並べると次のようになります。
| 区分 | 家族 | わかっていること |
|---|---|---|
| 実家(原宿) | 祖父 | 1972〜73年にソ連でプラント建設を監修 |
| 実家(原宿) | 祖母 | 2022年2月に100歳で他界 |
| 実家(原宿) | 母 | グラフィックデザイナー |
| 実家(原宿) | 父 | 1歳ごろに両親が離婚・情報なし |
| 現在の家族 | 夫 | 大学勤務、2022年春から札幌に単身赴任 |
| 現在の家族 | 息子 | 2022年に中学入学 |
実家は母方の4人家族、現在は夫と息子との3人家族です。
高校は桐朋女子高等学校
廣瀬陽子さんの高校は、桐朋女子中学校・高等学校です。
中学受験でお母さんが「桐朋にしか行かせません」と決めた学校に、中高一貫で6年間通い、1991年に卒業しました。
とても自由な校風で、中学では生徒会長にあたる「中央委員長」、高校では仲の良い友達が務めるトップの「執行長」を支える副執行長を務めています。
運動は苦手だと思っていたそうですが、友達にすすめられて少し遅れて卓球部に入部しました。
本番で緊張しないタイプで、コーチから「本番でありえない力を出す」と言われ、地元の大会でいくつか賞も取ったそうです。
この「本番に強い」性格は、のちに東大大学院の研究者養成コースに一発合格したときにも発揮されました。
桐朋女子での6年間が、リーダー役も本番の強さも育てたと言えそうです。
若い頃はカルトQに地元の渋谷をテーマに出場
廣瀬陽子さんは若い頃、大学生時代にクイズ番組『カルトQ』に出場しています。
選んだテーマは、生まれ育った地元の「渋谷」でした。
原宿育ちとしては負けられないところですが、結果は50点で5人中4位だったそうです。
地元愛で挑んで4位、というのが妙に人間味があっていいですよね。
大学時代はほかにも、入学初日に掲示板で見つけた「ゴルバチョフ氏来日!」の募集に翌日締め切りの論文を書いて応募し、実際にゴルバチョフ氏と会うという経験もしています。
そして1995年、学年約500人の総合政策学部で首席となり、「表彰 慶應義塾 1995 廣瀬陽子君」と刻印された金時計を受け取りました。
若い頃の廣瀬陽子さんは、地元・渋谷のクイズに挑むほどの好奇心と、首席卒業の実力を併せ持っていたということです。
鶴岡との関係は共著に名を連ねる研究者仲間
廣瀬陽子さんと一緒に検索される「鶴岡」は、同じく国際政治を専門とする研究者の鶴岡路人さんのことと考えられます。
2人はニュース番組などで国際情勢を解説する専門家として知られています。
2025年に東洋経済新報社から出た共著『ウクライナ危機以後: 国際社会の選択と日本』では、森聡さん、渡辺将人さん、土屋大洋さんらとともに、廣瀬陽子さんと鶴岡路人さんが名を連ねています。
廣瀬陽子さんと鶴岡路人さんは、親族ではなく共著に名を連ねる研究者仲間です。
廣瀬陽子の実家のまとめ
- 廣瀬陽子の実家は東京都渋谷区の原宿にある母方の家
- 1972年8月11日に渋谷区で生まれ、原宿で育った
- 小学校は渋谷区立神宮前小学校で1985年に卒業
- 両親は本人が1歳くらいのときに離婚している
- 父親の名前や職業は公表されていない
- 実家では祖父・祖母・母・本人の4人で暮らしていた
- 本人いわく「祖母が母、母が父」という位置づけだった
- 母の職業はグラフィックデザイナーで朝早く出て深夜に帰る生活
- 母は中学受験で桐朋女子一択を決め、東大志望には「何をしたいの」と問いかけた
- 祖母は「世界一尊敬できる人」で2022年2月に100歳で他界
- 祖父は1972〜73年にソ連でプラント建設を監修していた
- 祖母の死去を受けて実家じまいが始まった
- 実家じまいで1973年のソ連の外貨ショップの領収書が見つかった
- 祖父のソ連話が研究の原点だったのではと本人が振り返っている
- 現在の家族は夫と息子の3人で、夫は2022年春から札幌に単身赴任
- 高校は桐朋女子高等学校で副執行長や卓球部を経験
- 大学時代にカルトQの渋谷テーマに出場し5人中4位

