力道山の家系図は三代でリングへ!孫・百田力と朝鮮に残された娘

力道山の家系図は三代でリングへ!孫・百田力と朝鮮に残された娘

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力道山さんの家系図って、調べ始めると意外なほど入り組んでいるんですよね。

本名は金信洛(キム・シルラク)、日本では百田光浩。妻は4人いたとされ、子どもたちは母親がそれぞれ違います。しかも朝鮮半島に残された娘の系譜が、いまも北朝鮮で続いていると報じられているんです。

この記事では、力道山さんの家系図を戸籍と血縁の両面から整理して、息子・娘・孫・ひ孫の世代まで順番にたどっていきます。

この記事を読むとわかること
・力道山の本名と、血縁の家系と戸籍の家系が分かれた経緯
・4人の妻と、息子・百田義浩/百田光雄、娘たちの続柄
・孫・百田力と田村圭、そしてひ孫と報じられた人物までの系譜

力道山の家系図|本名から孫世代まで

力道山の家系図は、朝鮮半島で生まれた一人の少年が日本の戸籍に入り、そこから三代にわたってリングへ続いていくという、かなり特殊な形をしています。

ここでは本名や出自の話から、4人の妻、息子・娘、そして孫・ひ孫の世代まで、判明している範囲で順番に整理していきますね。

本名は金信洛、百田光浩として戸籍に入るまで

力道山の家系図をたどるうえで、最初に押さえておきたいのが名前の変遷です。

出生名は金信洛(キム・シルラク)で、生まれは日本統治下だった朝鮮の咸鏡南道洪原郡新豊里。

朝鮮人の両親のもとに生まれ、1924年11月14日生まれとされています。

ただしここ、実はけっこう曖昧なんですよ。

Wikipediaにも、当時の朝鮮半島では出生から時間をおいて役所へ届け出ることが珍しくなく、実際には1年から2年早く生まれていた可能性がある、という趣旨の記述があります。

つまり生年月日からしてすでに確定していない、というのが力道山の出発点なんですね。

名前が変わったのは1942年、相撲入門の交渉をしていたときのことです。

「国技の力士が朝鮮出身ではまずかろう」という理由で、本名を百田光浩(ももた みつひろ)、出身地を長崎県大村町とすることになりました。

そして相撲を廃業する際に、長崎県の百田己之助の戸籍へ長男として入籍しています。

養父の名前は資料によって「百田己之助」「百田巳之助」と表記が揺れているので、そこは頭の片隅に置いておいてください。

引退後は自ら「長崎県大村市出身」と名乗るようになりました。

家系図としてみると、ここで血縁上の家系(金家)と、戸籍上の家系(百田家)が分岐していることになります。

そして日本での子や孫はすべて百田姓のほうに連なっていく。

この二重構造こそが、力道山の家系図がややこしく見える一番の理由だと思います。

妻は4人、結婚の順番を整理

力道山は生涯で4人の女性と婚姻関係にあったとされています。

これがまた、家系図を複雑にしている要因なんですよね。

順番に並べると次のようになります。

順番時期・背景生まれた子
1人目朴信峰朝鮮半島時代の妻。のちに病死したと伝えられる娘(金英淑/朴英淑)
2人目京都の芸妓・綾力士時代からプロレス転向期百田義浩・百田光雄
3人目日本橋の芸者百田兄弟の養母にあたる
4人目田中敬子元日本航空の客室乗務員。1963年6月5日に結婚娘(1964年3月生まれ)

こうして並べてみると、力道山の子どもたちは母親がそれぞれ違うということが見えてきます。

日本での家庭と、朝鮮に残してきた家庭が完全に切り離されたまま進んでいるんですよね。

最後の妻となった田中敬子さんと結婚したときには、それまでの関係をすべて整理してから臨んだと伝えられています。

ただ、その結婚生活は10か月ほどで終わってしまいました。

妻は何人いたのかで情報が割れる理由

「妻は何人?」と検索する人が多いのは、資料によって数え方が違うからです。

正式な婚姻関係だけを数えるか、内縁関係も含めるか、朝鮮半島時代の結婚を含めるかで、3人にも4人にも見えてしまう。

現在は4人とする資料が多いのですが、朝鮮半島時代の記録は本人が生前ほとんど語っていないため、確定情報として扱うのは難しいところがあります。

最初の妻・朴信峰と朝鮮に残された娘

家系図のなかで、日本ではあまり知られてこなかったのがこの系統です。

ジャーナリストの伊藤孝司さんによる現代ビジネスの記事によると、1943年2月2日、妻・朴信峰さんとの間に娘が誕生しています。

娘の名前は金英淑(キム・ヨンスク)と記されていますが、Wikipediaでは朴英淑という表記になっており、資料によって姓が異なります。

力道山が娘と初めて会ったのは1945年春、巡業で朝鮮に戻ったときのこと。

このとき娘はまだ2歳でした。

そして父娘が再会するのは、それから16年後の1961年11月です。

帰国船で新潟に着いた娘を迎えに行った力道山は、「娘は自分をアボジ(お父さん)と呼んでくれるだろうか」と語っていたと伝えられています。

……これ、想像するとちょっと胸に来ませんか。

日本では戦後最大のヒーローとして持ち上げられていた人が、実の娘に父と呼んでもらえるかどうかを気にしていたわけですから。

なお、長兄の金恒洛(キム・ハンラク)さんから届いた手紙によって、妻・朴信峰さんがすでに病死していたことを知ったとされています。

この系統はその後、北朝鮮でつながっていくことになります。

娘婿にあたる朴明哲(パク・ミョンチョル)さんは2010年に北朝鮮の体育相に就任したと報じられており、アントニオ猪木さんが北朝鮮を訪れる際の縁になったとも言われています。

ただし、この一帯の情報は北朝鮮側の発表や関係者の証言に基づくものが多く、独立して裏を取るのが難しい領域です。

断定的に語られている話ほど、慎重に受け止めておいたほうがいい部分だと思っておいてください。

息子は百田義浩と百田光雄の兄弟レスラー

日本側の家系図で中心に来るのが、この兄弟です。

長男が百田義浩さん、次男が百田光雄さん。

2人とも東京都港区の生まれで、のちにそろってプロレスラーになりました。

続柄名前生没年主な経歴
長男百田義浩1946年3月15日-2000年11月22日(54歳没)慶應義塾高校・慶應義塾大学法学部卒。リキ・ボクシングジムのオーナーを経て1980年にレスラー転向
次男百田光雄1948年9月21日生1968年に日本プロレス入門、1970年デビュー。全日本プロレス旗揚げ、のちにノアへ

興味深いのは、兄の義浩さんがすぐにレスラーにならなかったことです。

父の死後、力道山が運営していたリキ・ボクシングジムのオーナーとなり、経営側の立場から父の遺したものを引き継いでいます。

リングに上がったのは1980年、弟・光雄さんとの初の兄弟タッグでした。

慶應義塾大学法学部を出てからプロレス界へという経歴は、当時としてもかなり異色だったはずです。

一方の光雄さんは、1968年に日本プロレスへ入門して1970年11月17日にデビュー。

1972年の全日本プロレス旗揚げに参加し、のちにプロレスリング・ノアへ移りました。

兄弟はノアの旗揚げにもそろって加わっています。

日刊ゲンダイに掲載された秘蔵写真では、昭和30年ごろの日本プロレス道場で、力道山と幼い兄弟が並んでいる姿が確認できます。

光雄さんが兄にヘッドロックをかけ、義浩さんがかけられている側なのだそうです。

兄弟の母は京都の芸妓・綾

百田兄弟の実母は、力道山の2人目の妻にあたる京都の芸妓・綾さんです。

つまり最後の妻である田中敬子さんは、義浩さん・光雄さんの実母ではありません

ここ、かなり誤解されているポイントなんですよね。

さらにややこしいことに、3人目の妻である日本橋の芸者が兄弟の養母にあたるとされています。

実母・養母・継母がそれぞれ別にいる状態で、兄弟は育っていったわけです。

父の教育は「厳しくて怖い」ものだった

孫にあたる百田力さんが日刊ゲンダイで語ったところによると、父・光雄さんから聞いた力道山は「厳しくて怖い父」だったそうです。

勉強・運動・マナーができなければ殴られた、という話が残っています。

Wikipediaにも、水泳の練習と称して水深2メートルのプールに放り込まれた、スキーで最上級コースを滑らされて大怪我をした、といったエピソードが記されています。

ただ力さんは、その理由を「強くて頭がよくてマナーもよくて人前に出ても恥ずかしくない男になってほしかった」からだと受け止めていました。

厳しさの裏に何を置いていたのか、孫の世代になってようやく言葉にされている感じがして、個人的にはここがこの家系のいちばん人間くさい部分だと思っています。

最後の妻・田中敬子と没後に生まれた娘

家系図の最後の枝が、田中敬子さんとその娘です。

田中敬子さんは1941年6月6日生まれ、神奈川県横浜市の出身。

高校卒業後の1960年に日本航空へ客室乗務員として入社し、主に国際線を担当していました。

出会いは機内だったと語られています。

ファーストクラスであいさつをしたら「あなた、田中敬子さんですか?」と声をかけられて驚いた、というエピソードが本人の口から語られているんですよ。

そして1963年6月5日、21歳で力道山と結婚します。

ところが、その半年後の12月8日に力道山が刺され、15日に息を引き取ってしまう。

このとき敬子さんのお腹には子どもがいました。

翌1964年3月、力道山の顔を知らない娘が生まれます

父親が亡くなってから生まれた子どもが、家系図のいちばん新しい枝として加わったことになりますね。

なお敬子さんは、力道山の13回忌を境に百田姓から旧姓の田中姓に戻しています。

現在は講演家・社会貢献家として活動し、新日本プロレスのショップ店長を務めた時期もありました。

80歳を越えた今も、亡き夫の思い出を語り歩いていると伝えられています。

22歳で5社の社長と30億円の負債

小学館から出た『力道山未亡人』の紹介文には、敬子さんが22歳にして5つの会社の社長に就任し、30億円もの負債を背負い、4人の子の母親になったと記されています。

21歳で結婚して、22歳で夫を失い、そのまま経営者になったわけです。

しかも4人の子の母、というのは自分の産んだ娘だけの話ではありません。

血のつながらない子どもたちも含めて、家として引き受けたということですよね。

……正直、これはちょっと想像を絶します。

娘・田村浩美と広告代理店勤務の夫

日本側の家系図には、もう一人の娘として田村浩美さんの名前が出てきます。

昭和ガイドの子孫紹介ページによると、浩美さんは大手広告代理店の社員と結婚したとされています。

芸能界やプロレス界ではなく、一般企業へ嫁いだ形ですね。

この浩美さんの系統からは、後述するように高校野球の世界へ進んだ孫が出ています。

ちなみに力道山の子どもの人数については、Wikipediaが息子2人・娘3人としているのに対し、息子3人・娘2人と記す資料もあり、実は総数すら一致していません

朝鮮半島側の家庭の記録が十分に残っていないことに加え、内縁関係をどう数えるかで変わってくるためだと考えられます。

家系図としてきれいに一本化できないところに、この人の生き方がそのまま出ているような気もします。

孫はプロレスラーの百田力

孫の世代でいちばん名前が知られているのが、百田光雄さんの息子・百田力さんです。

1981年10月24日生まれで、リングネームは「力」

祖父が亡くなったのは自分が生まれる18年も前ですから、力さんは力道山と一度も会っていません。

祖父が力道山だと認識したのも小学生になってからだったそうです。

デビューまでの道のりは、決して順調ではありませんでした。

2004年にプロレスリング・ノアの練習生としてプロテストを受けたものの、不合格。

そこから群馬のメビウスジムで約1年半トレーニングを積み直し、2013年12月16日、後楽園ホールの「プロレスの力」でようやくデビューを果たします

しかもデビュー戦は父・百田光雄さんとのタッグで、相手は折原昌夫&NOSAWA論外組。

祖父・父・自分と三代がひとつの線でつながった瞬間だったと言っていいと思います。

父の光雄さんは息子について「怒ったら顔を真っ赤にして向かっていくようなタイプ」「単純でわかりやすいというか、ファンの方が食いつきやすい存在」と評していました。

一方の力さん本人は「おじいちゃんはすごいけれど、僕はお父さんを見てプロレスをやりたいと思った」と語っています。

……なんか、いいですよね、これ。

伝説の祖父ではなく、目の前の父を見て決めたという言い方に、この家の空気が出ている気がします。

もう一人の孫は甲子園のマウンドへ

孫はもう一人います。

娘・田村浩美さんの息子である田村圭さんで、慶應義塾高校の野球部で投手を務めました。

2008年の夏には甲子園でベスト8まで進んでいます。

プロレスではなく野球、それも慶應というルートに進んだあたり、伯父の百田義浩さんが慶應義塾大学法学部卒であることとどこか重なって見えます。

ひ孫とされる北朝鮮の柔道選手

家系図の四代目にあたる話も、実は報じられています。

朝鮮日報が2014年に伝えたところによると、北朝鮮軍直轄の「4・25体育団」に所属する柔道選手の柳日薫(リュ・イルフン)さんが、力道山のひ孫にあたるとされています。

続柄としては、朝鮮半島時代の娘・金英淑さんの孫で、母は朴ヘジョンさん。

当時14歳で、平壌を訪れたアントニオ猪木さんと交流し「力道山のように頑張りたい」と語ったと報じられました。

ただ、ここは慎重に読む必要があります。

記事自体が「ひ孫」と直接明言する形にはなっておらず、続柄の裏付けを外部から取ることも難しいのが実情です。

北朝鮮国内から発信される情報である以上、そのまま事実として受け取るのではなく、「そう報じられている」という段階の情報として押さえておくのが安全だと思います。

とはいえ、朝鮮半島に残された系統が今も続いていること自体は、複数の報道で触れられています。

日本のリングと北朝鮮の道場に、同じ人の血が流れている。

そう考えると、力道山の家系図というのは戦後史そのものの縮図みたいだなと感じます。

力道山の家系図を調べる人向けの関連情報

家系図を追っていくと、どうしても気になってくるのが国籍や事件、そして本人の素顔の話ですよね。

ここからは、家系図とセットで検索されることの多いテーマをまとめて見ていきます。

国籍は日本、出自を伏せ続けた理由

まず前提として、力道山が生まれた1924年当時の朝鮮半島は日本統治下にありました。

そのため生まれたときから日本国籍を有していたことになります。

その後、力士を引退した1951年に後見人を頼って日本国籍を得たとされ、長崎県の百田巳之助さんと養子縁組して百田光浩となった、と伝えられています。

ただしこの「帰化」については、確認できる一次資料が乏しいという指摘があり、Wikipediaでも国籍欄から帰化の表記が外された経緯がありました。

つまり国籍の扱いについては、いまだにすっきり確定していないのが正直なところです。

では、なぜ出自を伏せ続けたのか。

当時の空気を考えると、日本人が大柄な外国人選手を打ち負かすというわかりやすい構図でヒーローになっていた人が、朝鮮半島出身だと知られることのリスクは相当大きかったはずです。

「日本のヒーロー」という看板から転落することを恐れた、という見方が一般的にはされています。

ただ、これは本人が明確に語り残しているわけではないので、周囲の証言や時代背景から推し量られている話だと理解しておくのがいいでしょうね。

刺した男・村田勝志のその後と最期

力道山の死につながった刺傷事件についても整理しておきます。

1963年12月8日午後10時30分ごろ、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で事件は起きました。

相手は住吉一家傘下・大日本興業の構成員だった村田勝志。

足を踏んだ踏まないという口論から、力道山が馬乗りになって殴打したところ、下から登山ナイフで腹部を刺されています。

驚くのはこのあとで、力道山はその場では警察沙汰にせず、応急処置を受けて帰宅しているんですよ。

翌日に体調が悪化して山王病院へ入院し、腹部を十数針縫う手術を受けました。

そして12月15日、化膿性腹膜炎により39歳で亡くなります。

刺されてから7日後のことでした。

村田勝志は1939年に茨城県土浦市の生まれ。

中学時代から不良グループの番格で、カミソリを拳に挟んで殴る喧嘩スタイルから「カミソリ村田」と呼ばれていたと伝えられています。

事件後は傷害致死で懲役7年の刑に服し、出所後は村田組組長として活動。

その後は住吉会小林会で幹事長・理事長を歴任しました。

加害者は刑期を終えたあと、渡世人として長い後半生を送ったことになります。

やばいと言われる素顔のエピソード

検索すると「やばい」というワードが出てくるのは、リング外での逸話がかなり強烈だからです。

同時代の証言として、「とにかく乱暴者で、酒を飲むと手がつけられない」という評が残っています。

弟子への指導も現在の感覚では到底通らないもので、未成年だったアントニオ猪木さんに一升瓶を飲ませた、番犬の練習台にした、理由もなくゴルフクラブでこめかみを殴った、といった話が伝わっています。

猪木さん自身が「本気で殺意を抱いた」と語ったとされるほどですから、相当なものだったのでしょう。

ジャイアント馬場さんの側にも、チョップを鍛えるために手をハンマーで叩かせたという回想が残っています。

ただ、こうしたエピソードの多くは弟子や関係者の後年の証言をもとにしたもので、一つひとつの真偽を確かめる手立てはほとんど残っていません

同時に、その馬場さんが力道山を人間的に尊敬していたと語っていたという話もあり、評価は単純に割り切れないんですよね。

家系図の話に引き寄せて言うと、この気性の激しさは息子たちへのスパルタ教育とも地続きです。

そこだけは、孫の世代の証言とも矛盾なくつながっています。

後継者となったジャイアント馬場とアントニオ猪木

最後に「後継者は誰か」という疑問についてです。

力道山は1953年に日本プロレス協会を設立し、日本のプロレス人気の土台を築きました。

しかし39歳での急死だったため、息子たちはまだ子どもです。

義浩さんは17歳、光雄さんは15歳でした。

血縁が家業を継ぐには早すぎたわけですね。

実際に力道山の遺したものを引き継いだのは、彼が育てた弟子たちでした。

1960年9月30日に同日デビューしたジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんが、1972年にそれぞれ全日本プロレスと新日本プロレスを旗揚げします。

つまり力道山の後継者は、血縁ではなく弟子の系譜として枝分かれしたということです。

そして息子の百田兄弟は、後年その全日本プロレスやプロレスリング・ノアの中で活動し、孫の力さんがリングに上がりました。

血の家系図と、プロレスの家系図。

この2本が並走しているところが、力道山という人の遺したものの面白さだと思います。

力道山の家系図のまとめ

  • 出生名は金信洛(キム・シルラク)、日本での本名は百田光浩
  • 生まれは日本統治下朝鮮の咸鏡南道洪原郡新豊里
  • 生年は1924年11月14日とされるが1〜2年早い可能性も指摘される
  • 1942年に本名と出身地を変え、廃業時に百田家の戸籍へ長男として入籍
  • 血縁の家系(金家)と戸籍の家系(百田家)が分岐しているのが特徴
  • 妻は生涯で4人とされるが、数え方によって割れる
  • 1人目の妻は朴信峰で、朝鮮に娘(金英淑/朴英淑)を残した
  • 2人目の妻は京都の芸妓・綾で、百田兄弟の実母
  • 3人目の妻は日本橋の芸者で、百田兄弟の養母にあたるとされる
  • 4人目の妻は元日航CAの田中敬子で、結婚生活は約10か月
  • 長男・百田義浩と次男・百田光雄はいずれもプロレスラー
  • 田中敬子との娘は力道山の死後、1964年3月に誕生
  • 娘・田村浩美の系統からは甲子園に出た田村圭が出ている
  • 孫の百田力は2013年に父とのタッグでデビューし三代目となった
  • 北朝鮮の柔道選手・柳日薫がひ孫にあたると報じられている
  • 後継者はジャイアント馬場とアントニオ猪木という弟子の系譜

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