多岐川舞子さんの実家がどこにあるのか、気になって検索された方は多いのではないでしょうか。
実家があるのは京都府南丹市の八木町で、その家には歌手になる夢をあきらめて職人の道を選んだお父さんの人生がありました。
そして多岐川さんは18歳の春、お母さんに「行ってきます」と言えないまま、その家を出ています。
・多岐川舞子の実家がある京都府南丹市八木町がどんな場所か
・実家の父が就いていた染色職人という仕事と、歌をあきらめた理由
・母を高校3年で亡くしてから18歳で実家を出るまでに何があったか
多岐川舞子の実家は京都府南丹市八木町
まずは多岐川舞子さんの実家がある場所から、そこで暮らしていたご家族の話まで順番に見ていきますね。
実家の父・母・兄妹それぞれのエピソードをたどると、多岐川さんの歌の土台がどこにあるのかが見えてきますよ。
実家があるのは京都・南丹市の八木町
多岐川舞子さんの実家は、京都府南丹市八木町にあります。
所属レコード会社である日本コロムビアの公式プロフィールには出身地が「京都府南丹市」と記載されていて、南丹市の公式サイトでは町名まで踏み込んで「八木町」と紹介されているんですよ。
つまり多岐川舞子さんの実家は京都府南丹市八木町にあり、これは市の公式サイトで確認できる情報です。
南丹市は京都府のほぼ中央に位置する市で、2006年に旧・園部町、八木町、日吉町、美山町の4つの町が合併して誕生しました。
八木町はそのうちのひとつで、大堰川(下流では桂川と呼ばれます)に沿って田園地帯が広がる、緑の多いエリアです。
京都市内から見ると北西方向にあたり、いわゆる「京都の街なか」のイメージとはずいぶん雰囲気が違います。
多岐川さんご本人も、故郷についてインタビューで「空気がおいしく緑豊かな故郷の風土は、たしかに私の歌手としての土台」と語っていました。
小さいころに野山を駆けまわって見た四季折々の景色が、いまの歌につながっているという趣旨の発言もされているんですよ。
演歌歌手の原風景としては、これ以上ないくらいしっくりくる場所ですよね。
なお、番地までの詳しい住所は公表されていませんし、ご家族が現在も暮らしている一般のお宅ですので、この記事でも町名までにとどめています。
八木町はどんな町なのか
八木町は、JR山陰本線(嵯峨野線)の八木駅を中心とした町で、京都駅からは電車で40分ほどの距離にあります。
町の中央を大堰川が流れ、周囲を里山が囲む、典型的な丹波地方の農村風景が残るエリアです。
気球のイベントで知られる時期があったり、丹波の食材が豊富だったりと、観光の顔も持っています。
京都市内への通勤圏でもあるので「田舎すぎて何もない」というより、山と田んぼと生活が近い距離にある町、という表現がしっくりきますね。
実家の父は京都で働く染色職人だった
実家のお父さんの職業について、多岐川さん自身がメディアで語っています。
お父さんは京都で染色の仕事に就いていた職人でした。
京都といえば京友禅に代表される染物の一大産地で、分業化された工程それぞれに専門の職人がいる世界です。
その一角を担う仕事を、多岐川さんのお父さんは長く続けてこられたわけですね。
ここで少し切ない事実があって、お父さんはもともと歌手志望だったんです。
若いころは京都の音楽学校に通って本気で歌手を目指していたものの、家族を守るために夢を手放し、職人の道を選んだと伝えられています。
つまり多岐川舞子さんの実家は、歌手になる夢をあきらめた父が職人として支えた家庭だったということになります。
……これ、知ったときにちょっと胸がつまりませんでしたか。
自分がつかめなかった夢を、娘が代わりにつかんでいく。
そんな親子の構図が、実家という言葉のうしろに静かに横たわっているんですよね。
しかもお父さんは、その夢を娘に押しつけたわけではありませんでした。
後述するように、多岐川さんが歌手を志すきっかけをつくったのもお父さんですが、それは「継がせるため」ではなく、単純に自分の好きな歌の世界を見せた結果だったように見えます。
父は五木ひろしと同じ音楽学院に通っていた
実家の話でいちばん驚かれるのが、この一点だと思います。
多岐川さんのお父さんが通っていたのは関西音楽学院で、そこには後の五木ひろしさん、当時の名前で松山数夫さんがいました。
多岐川さん本人がラジオで「父と五木さんは京都の音楽学校で一緒に勉強していた仲」だと明かしています。
つまり多岐川舞子さんの父と五木ひろしさんは、京都の音楽学院で机を並べた同期にあたります。
そして話はここで終わりません。
多岐川さんが歌手を志したきっかけそのものが、小学4年生のときにお父さんに連れられて行った五木ひろしさんのコンサートだったんです。
「とても感動したのが歌手になるきっかけでした」と本人が振り返っていて、そのときに撮った父との写真は、いまも宝物だと語っています。
夢をあきらめた父が、同期だった人のステージへ娘を連れていく。
その席で娘が「歌手になりたい」と思う。
……なんというか、できすぎた話のようですが、ご本人が話していることなので事実です。
さらに続きがあって、デビュー8年目に五木ひろしさんと再会した際、五木さんから「お、丸山(本名)の娘か!」と驚かれたそうです。
20年以上を経て、父の名前で娘が認識される。
実家と芸能界が一本の線でつながった瞬間ですよね。
母は高校3年のときに46歳で他界
実家の話をするうえで避けて通れないのが、お母さんのことです。
多岐川さんが高校3年生のときに、母は46歳の若さで亡くなっています。
命日は8月16日、誕生日は2月16日と伝えられていますが、この日付については情報源が限られるため、参考情報として受け止めておくのがよさそうです。
一方で「上京する半年前に母が亡くなっていた」という点は、多岐川さん自身がインタビューで語っている内容なので確度が高い情報になります。
46歳という年齢を聞いて、正直、言葉に詰まりました。
高校3年生といえば進路を決める時期で、しかも多岐川さんの場合は歌手になるという、家族の支えが何より必要な進路を選ぼうとしていたタイミングです。
そのいちばん心細い時期に、母がいなくなる。
きついなんて言葉では足りないですよね。
つまり多岐川舞子さんの実家は、彼女が上京する直前に母を失っている家庭でもありました。
後年、多岐川さんは『京都…発』というシングルについて、嫁ぐ日の思いを母に向けて歌った歌だと説明しています。
現実には言えなかった言葉を、歌のなかで母に届けている。
そう考えると、この曲の聴こえ方がまるっきり変わってきます。
実家は兄と妹がいる3人きょうだい
多岐川さんの実家は、兄・多岐川さん・妹の3人きょうだいです。
お兄さんは一般の方で、公表されている情報はほとんどありません。
ネット上では職業に関する話も出回っていますが、確かな裏づけが取れる情報ではないので、ここでは触れないでおきますね。
一方の妹さんについては、多岐川さん自身が何度も語っています。
お母さんが亡くなったとき、妹さんは中学3年生でした。
そして翌年、多岐川さんが歌手になるために上京したことで、姉妹は離れ離れになってしまいます。
中学3年で母を失い、その1年後には姉も家からいなくなる。
残された側の心細さを想像すると、これはかなりこたえたはずです。
多岐川さんも、妹さんの結婚式や出産のときにそばにいられなかったことを「申し訳なかった」と振り返っています。
転機になったのはコロナ禍でした。
仕事が止まって帰省できる時間ができ、妹さんと台所で一緒に過ごすうちに関係が深まったと語っています。
つまり母の死と上京で離れた姉妹の距離は、30年以上を経てコロナ禍の帰省で縮まりました。
……なんか、じんわりしますよね。
失った時間は戻らないけれど、取り戻せる関係もある、ということなんだと思います。
実家で待つ姪と愛犬
実家には、多岐川さんの姪っ子さんたちもよく登場します。
ひとりは中学3年生でアルトサックスを吹いていて、多岐川さんいわく自分より上手なのだそうです。
多岐川さんはステージでサックスを吹くことでも知られていますから、これは血筋なんでしょうか。
ダンスも習っていて、振付づくりに協力してもらったこともあると語られています。
もうひとりの姪っ子さんは看護師で、実家で誰かが体調を崩すたびに活躍しているようです。
多岐川さんのオフィシャルブログには、妹さんがぎっくり腰で動けなくなり実家が大わらわになった日の投稿があり、その横で愛犬が毎日熟睡している様子もつづられていました。
夢のなかで走っていたらしい、なんて書かれていて、実家の空気の柔らかさが伝わってきます。
| 関係 | わかっていること |
|---|---|
| 父 | 京都で染色の仕事に就いた職人。若いころは関西音楽学院に通う歌手志望だった |
| 母 | 多岐川舞子が高校3年のときに46歳で他界。上京の約半年前 |
| 兄 | 一般の方。公表情報はほとんどない |
| 妹 | 母の死去当時は中学3年。コロナ禍の帰省で関係が深まったと本人が語る |
| 姪 | 中学3年でアルトサックスを演奏。もうひとりは看護師 |
18歳の春に実家を出た日の後悔
多岐川さんが実家を出たのは18歳のとき、1988年でした。
京都府立園部高校を卒業し、歌手になるために単身で上京しています。
このとき、お母さんが亡くなってからまだ半年ほどしか経っていませんでした。
インタビューで語られた言葉が、とにかく重いです。
「『行ってきます』と言えませんでした」。
旅立ちの日に、いちばん聞いてほしい人がもういない。
……これは、想像するだけで胸が締めつけられます。
つまり多岐川舞子さんにとって実家を出た日は、夢のスタートであると同時に、母への言葉を飲み込んだ日でもありました。
上京の翌年、1989年5月21日に『男灘』でレコードデビューを果たします。
デビュー年には新宿音楽祭銅賞と横浜音楽祭新人奨励賞を受賞し、スタートとしては上々の滑り出しでした。
そこから現在まで歌い続けているわけですが、その原点に八木町の家と、言えなかった一言があると考えると、彼女の歌の湿度の理由がわかる気がします。
実家のある南丹市で文化観光大使に就任
実家との関係は、いまも続いています。
多岐川さんは令和4年(2022年)4月1日に南丹市文化観光大使に就任しました。
生まれ育った市から公式に「うちの出身者です」と紹介される立場になったわけですね。
さらに2023年5月28日には、南丹市のアスエル園部でデビュー35周年記念のふるさとコンサートを開催しています。
会場には約400人が集まったと報じられました。
本人は、歌手になってからも故郷にはたびたび帰っていて、帰るたびに心が洗われるという趣旨のコメントを残しています。
つまり実家のある南丹市とのつながりは、いまも大使という公式な形で続いています。
18歳で「行ってきます」を言えないまま出ていった町に、35年後にコンサートで戻ってくる。
この時間の流れ方、個人的にすごく好きなんですよね。
多岐川舞子の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家や家族と合わせて調べられることの多いプロフィールや現在の活動をまとめます。
本名や出身校、結婚の有無まで、気になるところを一気に確認できますよ。
本名は丸山静美で1969年11月24日生まれ
多岐川舞子さんの本名は丸山静美(まるやま しずみ)さんです。
五木ひろしさんが再会したときに「丸山の娘か!」と言ったのは、この本名を指しています。
基本的なプロフィールは次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 丸山静美 |
| 生年月日 | 1969年11月24日 |
| 出身地 | 京都府南丹市(八木町) |
| 身長 | 168.8cm |
| 血液型 | O型 |
| 特技 | 楽器演奏(ピアノ・サックス) |
| 趣味 | 食べ歩き、知らない土地を歩く |
| 所属 | 日本コロムビア |
公式プロフィールでは長所として「明るく挫けない・プラス思考」が挙げられています。
母を早くに亡くし、単身で上京してから歌い続けてきた経歴を知ったあとにこの一文を読むと、ずいぶん重みが違って感じられますよね。
出身高校は京都府立園部高校
多岐川さんの出身校は京都府立園部高等学校で、1988年に卒業しています。
実家のある八木町から見て隣接する園部エリアにある高校で、南丹市の地元校にあたります。
在学中の1985年、16歳のときにNHK『勝ち抜き歌謡天国』の奈良大会でチャンピオンになりました。
この結果がきっかけとなり、作曲家の市川昭介さんに師事することになります。
市川昭介さんといえば都はるみさんや畠山みどりさんを手がけた演歌界の大御所で、そこに高校生のうちからつながったわけですから、実力は本物だったということですね。
つまり歌手への道は、実家を出る前の高校時代にすでに開き始めていました。
デビュー曲は1989年の男灘
デビューは1989年(平成元年)5月21日、シングル『男灘』です。
平成の始まりとほぼ同時にデビューした歌手ということになりますね。
デビュー年に新宿音楽祭銅賞と横浜音楽祭新人奨励賞を受賞し、1997年にはオリコン誌の演歌TOP DISK賞も受けています。
代表曲としては、カラオケでヒットした『あなたの女』のほか、『あんたの海峡』『幻海峡』『出雲雨情』などが挙げられます。
2024年時点で48枚目のシングルをリリースしていて、コンスタントに新曲を出し続けている歌手です。
そして前述のとおり、故郷を歌った『京都…発』は、嫁ぐ日の思いを母に向けた曲として本人が語っています。
結婚や子供に関する現在の状況
多岐川さんについては、結婚の事実も子供の情報も確認できません。
取材やイベントで結婚に意欲をのぞかせる場面はあるものの、公式に発表された結婚歴はないというのが実際のところです。
つまり現時点で多岐川舞子さんは独身で、子供がいるという情報もありません。
実家の話とつなげると、興味深い点がひとつあります。
お父さんもまた、お母さんが亡くなったあと独身を通しているんです。
多岐川さんによると、お父さんは「俺はモテるけど、お母さんの眠るお墓にほかの女の人を入れられないからな」と話しているそうです。
……こういう言い方をする人、いいですよね。
照れ隠しの軽口のようでいて、いちばん大事なことを言っています。
現在は歌手活動38年目を迎えている
現在も多岐川さんは現役の演歌歌手として活動を続けています。
2025年10月には新曲『お別れメランコリー』をリリースしました。
そして2026年5月26日には、東京・新宿PIT INNで恒例のアニバーサリーライブを開催し、デビュー曲『男灘』を含む18曲を歌っています。
デビュー月である5月にライブを開くのが恒例になっていて、ファンへの感謝を直接伝える場にしているそうです。
この時点で歌手活動は38年目に入っています。
近年は伍代夏子さん主催の「美魔女艶歌卓球部」に参加するなど、歌以外の場でも顔を見せる機会が増えました。
ステージではサックスを吹く場面もあり、演歌歌手としてはかなり珍しいスタイルを持つ人でもあります。
つまり実家を出てから38年目のいまも、多岐川舞子さんは第一線で歌い続けています。
実家の話がファンの心に響く理由
多岐川さんの実家にまつわる話が語られるたびに反響が大きいのは、そこに「よくある家族の物語」がそのまま入っているからだと思います。
夢をあきらめて働いた父。
早くに亡くなった母。
離れて暮らすことになった妹。
どれも特別な芸能ニュースではなく、多くの人が自分の家に重ねられる話なんですよね。
しかも多岐川さんは、それを悲劇として売るような語り方をしていません。
コロナ禍で妹さんと台所に立った話も、姪っ子さんにサックスで負ける話も、あくまで日常の延長として語られます。
ふるさとコンサートに約400人が集まったことや、南丹市が文化観光大使という形で迎え入れたことも、地元がこの人をどう見ているかを素直に表しています。
つまり実家の物語が響くのは、多岐川舞子さんがそれを飾らずに語り続けているからです。
実家の話を知ったうえで歌を聴くと、同じ曲が少し違って聴こえてくるはずですよ。
多岐川舞子の実家のまとめ
- 多岐川舞子の実家は京都府南丹市八木町にある
- 南丹市は2006年に園部・八木・日吉・美山の4町が合併して誕生した市
- 番地までの詳しい住所は公表されておらず、家族が暮らす一般の住宅
- 実家の父は京都で染色の仕事に就いた職人
- 父は若いころ関西音楽学院に通った歌手志望だった
- 父の同期に、のちの五木ひろし(当時は松山数夫)がいた
- 歌手を志したきっかけは小学4年で父と行った五木ひろしのコンサート
- デビュー8年目に再会した五木ひろしから「丸山の娘か」と驚かれた
- 母は多岐川舞子が高校3年のときに46歳で他界したとされる
- 上京はその約半年後で「行ってきます」と言えなかったと本人が語る
- きょうだいは兄と妹の3人で、兄は一般人のため公表情報が少ない
- 妹は母の死去当時中学3年で、コロナ禍の帰省を機に関係が深まった
- 実家には看護師の姪とアルトサックスを吹く姪、そして愛犬がいる
- 2022年4月1日に南丹市文化観光大使へ就任した
- 2023年5月28日にアスエル園部で35周年記念ふるさとコンサートを開催し約400人を集めた
- 本名は丸山静美で1969年11月24日生まれ、出身校は京都府立園部高校

