美輪明宏の生い立ちに涙した——10歳で原爆を体験し兄弟10人を養った壮絶な人生

美輪明宏の生い立ちに涙した——10歳で原爆を体験し兄弟10人を養った壮絶な人生

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2歳で実母を亡くし、9歳で継母とも死別し、10歳のとき長崎に原爆が落ちた——美輪明宏さんの生い立ちは、一人の人間が背負える試練の限界をはるかに超えているように思えます。

それでも美輪さんは折れなかった。その秘密が、生い立ちのどこにあったのかを探っていきましょう。

この話を知ったら、きっと美輪明宏さんのことが以前より深く好きになると思います。

この記事を読むとわかること
・美輪明宏の幼少期の家族構成と2人の母との別れ
・10歳で体験した長崎原爆の壮絶な証言
・銀巴里デビューからヨイトマケの唄で再起するまでの道のり

美輪明宏の生い立ちを徹底解説!壮絶な幼少期から伝説の歌手へ

美輪明宏さんといえば黄色い髪と独特のオーラが印象的ですが、その背後には壮絶な幼少期と数々の苦難があります。幼少期の家族関係から原爆体験、そして伝説の歌手へと至る道のりを詳しく見ていきましょう。

父・作一の商才と裕福で芸術的な幼少期の環境

美輪明宏さんは、1935年(昭和10年)5月15日、長崎県長崎市で誕生しました。

出生名は「寺田臣吾」でしたが、母方の実家の跡継ぎとして養子に出され「丸山臣吾」に改姓しています。

実家は、長崎市内の「丸山遊廓」と呼ばれた遊廓の近くに位置しており、父・作一さんが「世界」(のちに「新世界」とも)という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めていました。

20人近くの女給さんやホステスさんが働く賑やかなカフェーで、幼い美輪さんはその女性たちから「お人形さんみたいにかわいい」とこぞって可愛がられて育ったそうです。

父親のプロフィール(カフェ「世界」・料亭・風呂屋経営)

父・作一さんはカフェーや料亭のほかに、風呂屋も経営するビジネスマンでした。

美輪さんは幼い頃、この風呂屋の番台に座っていたといいます。上等なコートを着た紳士淑女が服を脱いでみると、「さぞかし立派な体だろう」という予想に反して貧相な体をしていたり、逆にボロを纏った労働者の方が素晴らしい肉体を持っていたりする光景を目の当たりにしました。

「着るものってなんなの?インチキじゃん!」

幼心にそう感じた美輪さんは、外見や肩書ではなく「本質」を見る目を自然と養っていきました。これが後の美輪さんの鋭い人間洞察力の原点とも言えそうです。

また、実家の隣には「南座」という芝居小屋兼映画館があり、幼い頃から坂東妻三郎や長谷川一夫の舞台を食い入るように観て、役者たちに可愛がられながら演出・大道具・衣装・化粧まで間近に学びました。

さらに家の向かいには楽器屋兼レコード屋があり、世界中の音楽が窓を通じて流れ込んでくる環境で育っています。

戦前の長崎は400年の歴史を持つ国際都市で、オランダ・ポルトガル・スペイン・イギリス・中国・朝鮮など多様な人種が共存しており、人種差別がほぼ皆無だったといわれています。

美輪さんの独特の感性と芸術的素養は、まさにこの長崎という国際都市の懐と、芸術・音楽・人間模様に満ちた幼少期の環境が育んだものだったのです。

実母・継母との死別が育てた強い精神力

美輪明宏さんの幼少期には、2人の母との辛い別れが待っていました。

この経験が後の美輪さんの精神的な強さや、他者への深い共感力を形成したといわれています。

実母ヌメのプロフィールと死去(美輪2歳)

実母の丸山ヌメさんは、長崎出身の女性でした。

ヌメさんがポルトガル人が多い天草地方出身だったことから、「美輪さんはハーフなのでは?」という噂が生まれたともいわれています。しかし美輪さん自身は「ハーフではない」と明言しており、両親ともに日本人です。

ヌメさんは、美輪さんがわずか2歳のときに亡くなってしまいます。

幼すぎて実母の記憶はほとんどないはずですが、その後の人生で美輪さんは母親への想いを幾度も語っており、その不在が心の深いところに刻まれていたのかもしれません。

継母の深い愛情エピソード(最期まで義理の子の名を呼んだ)

父・作一さんが再婚した継母は、長崎市内の料品店の娘で、ハイカラな女性だったそうです。

しかし継母は病弱で、美輪さんは幼いながら夜泣きする幼い弟のために芋きんとんを作って食べさせたり、おんぶして河原を歩いたりと、兄のように世話を焼いていました。

そして継母は、3人目の弟を早産して亡くなってしまいます。

想像するだけで胸が締め付けられるエピソードがあります。亡くなる間際まで継母が呼び続けていたのは、自分の実子ではなく、美輪さんの兄「安坊ちゃん…安坊ちゃん…勉強よ…」という言葉だったのです。

義理の子のことを最後の最後まで心配し続けた継母の姿を、当時9歳の美輪さんは一生忘れられない記憶として胸に刻みました。

「たとえどんなことがあっても、この子達は僕が立派に育てなければならない。自分の生みの子でもないお兄ちゃんの名前を最後まで心配して呼び続けてくれたお継母ちゃんの立派な心への恩返しにも。」

美輪さんはこう心に誓い、後年、歌手として成功した後も10年間、兄弟たちへの仕送りを続けたといいます。

2人の母との別れは、美輪さんに「人の痛みがわかる心」と「守るべき者のためなら何でもする強さ」を与えたのかもしれません。

10歳で体験した長崎原爆の地獄絵図

1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、美輪さんの人生を大きく変える出来事が起きます。

当時10歳の美輪さんは、長崎市本石灰町の自宅2階で、夏休みの宿題の絵を描いていました。「我ながらよい出来だ」と自分の作品に満足していたその瞬間のことを、美輪さんはこう振り返っています。

「ピカッと百万ものマグネシウムをたいたような光に包まれました。」

その直後、「世界が壊れたような爆音」が響き渡り、ガラス窓が割れ、瓦が降ってきました。アメリカによる原子爆弾の投下でした。爆心地からの距離は約3.6キロメートルでした。

お手伝いさんと布団にもぐり込んだ美輪さんは、兄の安宏さんとお手伝いさんの3人で防空壕へ避難します。しかしそこへ向かう道中で目にした光景は、10歳の子どもが見るには余りにも凄惨なものでした。

「阿鼻叫喚の地獄絵図。服がぼろぼろになり、頭からつま先までやけどした人が大勢いました。」

終戦の日(8月15日)、美輪さんは爆心地近くにあった実母の実家へ祖父母を探しに行きます。そこには瀕死の被爆者たちが水を求めて押し寄せていました。

「水をほしいと女の人が来て、手がぐじゃぐじゃになって。口に水を入れてあげたら私を拝むんですよ。それで死んでいくんです。」(NHKアーカイブスより)

この体験は、美輪さんの体にも深刻な影響を与えました。後年、原爆症による吐血など体の不調に悩まされ、30代には一気に白髪になってしまったといいます。

幼くして地獄を目撃した美輪さんが、生涯にわたって戦争の悲惨さを語り続けてきた理由がここにあります。

原爆症と貧困を乗り越えた戦後の苦難

戦争が終わっても、美輪さんを取り巻く環境は厳しいままでした。

父・作一さんは太平洋戦争開始(1941年)とともに「敵国文化での商業はやめなさい」と当局に命じられ、カフェーを廃業させられていました。金融業に転業したものの、かつての豊かな生活は戻らず、家族の暮らしは一変します。

さらに美輪さん自身は、原爆の後遺症とも言える体の不調(吐血など)に長く苦しみました。

それでも美輪さんは前を向き、音楽への夢を抱き続けます。海星中学校では、フランス語が必修科目だったことからシャンソンと自然に出会い、ティノ・ロッシの「小雨降る径」のボーイソプラノに魅了されてシャンソン歌手になることを決意しました。

そして1951年春、15歳で上京し、国立音楽大学附属高校に進学します。

しかし帰省の際に父親の態度を見て怒った美輪さんは父と大喧嘩し、高校を中退してしまいます。東京での生活は一時ホームレス状態になるほど追い詰められたといわれています。それでも美輪さんは「自分の力でやっていく」という意志を折らず、銀座の音楽シーンへ飛び込んでいきました。

戦争・被爆・貧困という三重の苦難が、美輪さんを壊すどころかより強くたくましくしていったのです。

15歳で上京し銀巴里デビューへ至る道

上京してシャンソン喫茶で働き始めた美輪さんですが、その転機となったのが銀座7丁目にあったシャンソン喫茶「銀巴里」との出会いです。

1952年、17歳の美輪さんは新聞に掲載された「美少年募集!」という広告に目を留めます。これは銀巴里が出した歌手(ボーイ)募集の広告でした。

美輪さんは応募し、見事に専属契約を勝ち取りました。こうして「丸山明宏」として銀座のステージに立ち始めた美輪さんは、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛するほどの美貌と、磨き込まれた歌声で瞬く間に文化人たちの注目を集めます。

銀巴里は当時の日本の文壇・芸術界の人々が集まるサロン的な場でもありました。三島由紀夫、江戸川乱歩、川端康成、澁澤龍彦、寺山修司……そうそうたる文豪や芸術家たちが、美輪さんの歌と存在に魅了されていったのです。

16歳のとき、三島由紀夫が「なにか飲むか」と誘いかけたとき、美輪さんがとっさに返した言葉は機知に富んでいたといいます。その言いぐさに三島も唖然としたとのエピソードは有名です。

1957年、22歳のとき「メケ・メケ」をリリースして大ブレイク。マスメディアから「神武以来の美少年」「シスターボーイ」と評され一世を風靡しました。

しかしその後、週刊誌で自身が同性愛者であることを公表したことや、旧来のシャンソンのイメージとは異なる生々しい内容の歌を歌ったことへの反発から、人気は急落してしまいます。

デビューの華やかさとその後の苦境は、美輪さんの人生の「正負の法則」そのものでした。

ヨイトマケの唄が証明した不屈の再起

人気急落後、美輪さんは業界から干されながらも創作活動を続け、「うす紫」「金色の星」「ふるさとの空の下」など、今も語り継がれる楽曲を次々と作詞・作曲していきました。しかし当時の聴衆にも歌謡界にも理解されず、レコード化すらできなかったといいます。

それでも仕送りをやめるわけにはいかなかった。継母との約束で、異母兄弟たちを育てる使命を担っていたからです。

そしてある幼なじみとの記憶が、転機をもたらします。その幼なじみの母親は建築作業員(ヨイトマケ)として働いていた女性で、子どもはそのせいでいじめにあっていました。しかしそのお母さんは我が子に言いました。

「けんかが強いこと、勉強ができること、お金を持っていることが偉いんじゃない。お天道さまの前で胸張って、正直で真っ当に働いて、陰ひなたなく誰にも指を差されず、そういう人間が一番偉い。だからお前は一番偉いんだ。」

このエピソードをもとに美輪さんが書いたのが「ヨイトマケの唄」です。

1965年に発売された「ヨイトマケの唄」は、テレビのワイドショーで披露された途端に大反響を呼び、差別を受けている人々や貧困のなかで働く人々から2万通もの手紙が届いたといいます。

曲中の「ヨイトマケ」「土方」という言葉が差別語として民放連に自主規制されるという理不尽な仕打ちも受けましたが、美輪さんは毅然と歌い続けました。

そして発売から47年が経った2012年、77歳でNHK紅白歌合戦に初出場。黒髪に黒い衣装で6分以上の曲を情感たっぷりに歌い上げ、日本中を感動の渦に巻き込みました。

「ヨイトマケの唄」は美輪明宏さんの生い立ちそのものを映した鏡であり、47年越しに届いた、最高の答え合わせだったのです。

美輪明宏の生い立ちを調べる人向けの関連情報

美輪明宏さんの生い立ちを調べると、名前・出身・出会い・家族構成など気になる点がたくさん出てきます。ここでは関連情報をまとめてお伝えします。

本名「丸山明宏」から「美輪明宏」への改名と意味

美輪明宏さんの本名は、正確に言えば「丸山明宏(まるやま あきひろ)」です。

幼名は「丸山臣吾(しんご)」で、出生名は「寺田臣吾」。母方の実家に養子に出されたことで「丸山」の姓を名乗るようになりました。

芸能活動を始めた際には「丸山明宏」の名で活動を開始し、「メケ・メケ」の大ヒットもこの名義でした。

改名が行われたのは1971年のことです。「丸山明宏」から「美輪明宏」へと芸名を変えました。

「美輪(みわ)」という名前には、仏教や神道における神聖さを感じさせる響きがあります。美輪さんが長年にわたって信仰してきた「法華経」との関わりも指摘されることがあります。また、自身の美意識や個性をより強く表現できる名前として選んだとも考えられます。

改名後も「マルさん」という愛称で親しまれ続けており、今では「美輪明宏」の名が完全に定着しています。

ハーフ疑惑の真相と美貌の秘密

美輪明宏さんの若い頃の写真を見ると、大きな二重まぶた、高い鼻筋、彫りの深い顔立ちに、「ハーフなのでは?」と思う方が多いそうです。

しかし美輪さんご本人が「ハーフではない」と明言しています。両親はともに日本人です。

ただし、噂の根源には多少の根拠があります。実母・ヌメさんが、かつてポルトガル人が多く住んでいたとされる天草地方の出身だったことから、「ポルトガルの血が混じっているのでは?」という憶測が広まったといわれています。

長崎という街が400年以上にわたる国際交流の歴史を持ち、多様な人種・文化が混ざり合ってきた土地であることも、このような噂が生まれやすい背景にあったでしょう。

美輪さんの「ハーフのような美貌」の正体は、外国の血ではなく、長崎という国際都市が育んだ独特の文化的素養と、天性の美的感覚の賜物だったと言えそうです。

三島由紀夫との伝説的な出会いと交流

美輪明宏さんと三島由紀夫の出会いは、美輪さんがまだ16歳で銀巴里に立ち始めた頃だったといわれています。

三島由紀夫は美輪さんの美貌を「天上界の美」と絶賛し、そこから始まった交流は文学・演劇を超えた深いつながりへと発展していきます。

三島由紀夫が美輪さんのために書き下ろした舞台作品『黒蜥蜴』(江戸川乱歩原作・三島脚本)に美輪さんが主演したのは1967年のこと。この舞台は今も伝説的な作品として語り継がれています。

また三島は1967年、美輪さんのために寺山修司が立ち上げた劇団「天井桟敷」の旗揚げ公演にも関わりを持ちます。美輪さんは寺山修司の書き下ろし作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演しました。

銀巴里時代から美輪さんの周囲には三島由紀夫のほか、川端康成、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、江戸川乱歩など、昭和を代表する文豪・芸術家が集まりました。これは美輪さんが単なる「美しい歌手」ではなく、知性と芸術性を兼ね備えた存在として認められていた証拠です。

兄弟は10人!複雑な家族構成の背景

美輪明宏さんは5人兄弟の次男として生まれましたが、最終的には10人兄弟になったといわれています。

父・作一さんは3度結婚し、それぞれの結婚で子供をもうけたため、美輪さんには多くの異母兄弟・異母姉妹がいます。実母ヌメさんとの間に兄と美輪さんの2人、継母(2番目の妻)との間に3人の弟、さらに3番目の妻との間にも子供がいたとされています。

継母が亡くなった時点で、9歳の美輪さんはこの弟たちを「自分が育てる」と心に誓いました。後年、歌手として銀巴里でデビューしてから約10年間、美輪さんは実家への仕送りを続け、弟たちの生活を支えたといいます。

自分の生みの子でもない弟たちへの責任感を9歳の子どもが持つきっかけとなったのが、継母の最期の言葉でした。血よりも絆を大切にした美輪さんの人間性が、この家族秘話からも伝わってきます。

生い立ちに宿る人生哲学と名言

波乱万丈な生い立ちを持つ美輪明宏さんは、その経験から生み出された独自の人生哲学で多くの人を励ましてきました。

もっとも有名なのが「正負の法則」です。人生において良いことがあれば必ず悪いことも起こり、悪いことが起これば必ず良いことが待っている——この考え方は、被爆・貧困・差別という「負」を経験しながらも不屈に生き続けた美輪さん自身の人生から生まれたものです。

また美輪さんはこんな言葉を残しています。

「人生はロマン。自分は不幸だと悩むのではなく、試練を与えられた物語の主人公だと思えば、人生をエンジョイできる。」

「恋は自分本位、愛は相手本位。」

「歩けるでしょう、見えるでしょう、聞こえるでしょう、喋れるでしょう、動けるじゃありませんか。それを数えるとね。結構トントンになる場合があるんですよ。」

2歳で実母を亡くし、9歳で継母を亡くし、10歳で原爆を体験し、極貧のなかでも兄弟を養い続けた美輪さんの言葉は、「きれいごと」ではなく実体験に根ざした本物の言葉です。

美輪明宏さんが「生きる伝説」と呼ばれる所以は、その美貌や才能だけでなく、壮絶な生い立ちを経てなお愛と美を信じ続けてきた姿にあります。

美輪明宏の生い立ちのまとめ

  • 1935年5月15日、長崎県長崎市生まれ。出生名は寺田臣吾で、養子縁組により丸山姓に改姓した
  • 父・作一はカフェー「世界」・料亭・風呂屋を経営する実業家で、当時の長崎では豊かな生活を送っていた
  • 実母ヌメは美輪2歳のときに死去し、継母も3人目の弟を早産して9歳のときに亡くなった
  • 継母は最期まで義理の子「安坊ちゃん」の名を呼び続け、9歳の美輪さんは弟たちを自ら育てると心に誓った
  • 実家の隣に芝居小屋・映画館「南座」、向かいに楽器屋兼レコード屋があり、幼少期から芸術的に恵まれた環境だった
  • 戦前の長崎は400年の歴史を持つ国際都市で、多様な人種が共存しており人種差別がほぼなかった
  • 1945年8月9日、10歳のとき爆心地から3.6kmの自宅で長崎原爆を体験した
  • 原爆後の惨状(全身やけどの人々、水を求めて死んでいく女性)を目撃し、生涯にわたって証言し続けた
  • 1952年、17歳で銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」に専属歌手としてデビューした
  • 三島由紀夫に「天上界の美」と絶賛され、川端康成・江戸川乱歩ら文豪たちと深い交流を持った
  • 1957年「メケ・メケ」で大ブレイクするも、同性愛者公表後に人気急落し、業界から干される苦難を経験した
  • 幼なじみの母のエピソードをもとに作った「ヨイトマケの唄」(1965年)が大ヒットし、見事に再起を果たした
  • 2012年、77歳でNHK紅白歌合戦に初出場し、「ヨイトマケの唄」を歌って日本中を感動させた
  • 1971年に芸名を「丸山明宏」から「美輪明宏」に改名した
  • 「正負の法則」などの人生哲学は、被爆・貧困・差別という実体験から生まれた本物の言葉である

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