麻原彰晃の生い立ちが壮絶すぎる!6歳で施設送り・親に13年間会えなかった極貧の幼少期

麻原彰晃の生い立ちが壮絶すぎる!6歳で施設送り・親に13年間会えなかった極貧の幼少期

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麻原彰晃さんの生い立ちを調べると、ひとつの問いが浮かび上がってきます。

「これほどの凶悪さは、どこから来たのか」——その答えが、生後まもなく始まる孤独と極貧の物語の中に埋もれているのです。

実は、6歳から20歳まで親に会えなかったという事実を知ったとき、正直かなり衝撃を受けました。

この記事を読むとわかること
・麻原彰晃の幼少期の家族環境と盲学校時代の実態
・東大受験から結婚、オウム真理教設立までの軌跡
・妻や6人の子供たちの現在と娘たちの確執

麻原彰晃の生い立ち:極貧と放棄が生んだ怪物の軌跡

麻原彰晃さんがなぜあれほどの凶悪なテロリストになったのか、その答えの多くは幼少期の生い立ちにあると言われています。

極貧の家庭、両親からの放棄、閉鎖的な盲学校での13年間——これらが積み重なり、「麻原彰晃」という怪物を生み出したとも言えるでしょう。

出生の背景と家族構成——朝鮮引き揚げの畳職人一家

麻原彰晃さんこと松本智津夫氏は、1955年(昭和30年)3月2日、熊本県八代市高植本町に生まれました。

本名は「松本智津夫(まつもと ちづお)」。のちにオウム真理教の教祖として「麻原彰晃」という名前を名乗ることになりますが、その出生は日本の戦後史とも深く絡み合っています。

父親は、朝鮮半島(現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面)で生まれました。

祖父はかつて朝鮮半島で警察署長を務めていたという記録があります。

そして終戦後、父は朝鮮から引き揚げ、叔父を頼って熊本県八代市に移り住みます。当時の八代の地場産業であった畳職人として働き始めたのが「松本畳店」のはじまりです。

ただ、時代は畳の需要が急速に落ちていく時代でもありました。

子供が7人もいる大家族に、収入は減るばかり。盲学校の教諭がそれまでに見たことがないほどの貧しさだったと証言しているほど、生活は逼迫していたのです。

智津夫さんは兄弟9人(男6人・女3人)の第七子・四男として生まれました。

両親は朝から晩まで働きづめで、幼い智津夫さんを育てる余裕はほとんどなかったようです。兄や姉を親代わりにして育った智津夫さんは、いたずらっ子として知られ、農機具を盗んだり壊したりするたびに兄姉から叱られていました。

……なんか切ない話ですよね。愛情を十分に受けられなかった子どもが、やがて何万人もの信者を操り、テロを指揮する人物になっていくわけですから。

先天性緑内障と視力障害——なぜ盲学校に入れられたのか

智津夫さんには生まれつき重大な障害がありました。

先天性緑内障のため、左目はほぼ視力がなく、右目は視力1.0程度という状態でした。

完全に見えないわけではありませんでしたが、それでも視覚障害者として扱われることになります。なお12歳年上の長兄は完全な全盲であり、五男も弱視を抱えていました。

兄弟3人が視覚に問題を抱えているという事実に対し、作家・藤原新也さんは「麻原兄弟の視覚障害は水俣病の影響ではないか」という仮説を提唱しています。長兄も同様の疑いを持ち、役所に水俣病患者として申請したことがあるそうですが、却下されたといいます。

なぜ右目が見えるのに盲学校に入れられたのか——。

これには家庭の経済的な事情が大きく絡んでいます。

盲学校に通えば、学費・寄宿舎代・食費が無料になる制度がありました。極貧だった松本家にとって、これは大きな助かりだったのです。

近所の人たちの間では「口減らしではないか」という噂が流れたといいます。

智津夫さん自身も、転校の際に泣いて嫌がったといいます。「親に捨てられた」という感覚は、その後の彼の人格形成に深く影を落としたと考えられています。

6歳で始まった盲学校生活と親への憎しみ

1961年(昭和36年)秋、6歳の智津夫さんは熊本市内の熊本県立盲学校に転校し、寄宿舎での生活が始まります。

この寄宿舎生活が20歳で卒業するまでの13年間続きました。

その13年間、両親が盲学校を訪ねてくることは一度もなかったといいます。衣服や食料が送られてくることもありませんでした。

他の子供たちは週末になると家に帰りましたが、智津夫さんを含む松本3兄弟は毎週寮に残るだけでした。

口減らし目的の噂と13年間無訪問の事実

親に捨てられたという感覚は、年を重ねるごとに確信へと変わっていったことでしょう。

全盲の子供たちが大半を占める盲学校において、右目が見えていた智津夫さんの存在は異質でした。「なんで自分だけここにいるんだ」という疑問と怒りが、彼の内側でじわじわと積み重なっていったのだと思います。

……正直、読んでいてなんとも言えない気持ちになりました。でも同時に、それがそのままの形で解放されていったら、どうなるかも少し想像できてしまう気がして。

閉鎖空間で芽生えた支配欲——全盲の同級生を恐喝・支配した13年間

盲学校という閉鎖的な環境が、智津夫さんの中の支配欲を急速に育てていきます。

目が見えるという優位性を武器に、全盲の同級生たちを「外へ連れて行ってやる代わりに金をよこせ」と言って支配するようになりました。

食事をおごらせる、窃盗を命じる、落とし穴を仕掛ける、リンチをさせる——これほどの行為をしていながら、それが制度的に見過ごされていた面もあったようです。「凶暴なので退学させろ」という声も出ていたといいます。

卒業までに恐喝などで蓄えた金額は300万円にのぼるとも言われています。

金への執着と支配の快感

金への執着は凄まじいものがあったようです。

生徒会長や寮長に立候補した際には、菓子を使った買収行為も行っていたといいます。それでも落選してしまうのですが……。

「先生の陰謀だ」と言い出したこともあったそうで、この頃からすでに、自分に都合の悪いことを他者のせいにする思考パターンが現れていたのかもしれません。

寮母に部屋の明かりを消すよう注意された際には、「宿舎を焼いて明るくするぐらいのことをやってやるぞ」「撃ち殺すぞ」と言ったという記録も残っています。

……これは10代の話ですよ。10代で「撃ち殺す」という言葉が出てくる、その背景には、何年もかけて蓄積された憎しみや怒りがあったのでしょうね。

なお一方で、高等部の担任教師は「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやっていた」と証言しており、二面性があった人物だったことも確かなようです。

盲学校では演劇「みにくいアヒルの子」の主演を務めたこともあり、演劇が好きになったといいます。自作自演もしていたとのことで、この「演じる力」が後のカリスマ的教祖像の形成に影響した可能性も指摘されています。

20歳で卒業後の放浪——東大受験の挫折と上京

1975年(昭和50年)3月、20歳で熊本県立盲学校を卒業した智津夫さんは、東京大学文科1類への合格を夢見て上京します。

この頃から、「東大法学部を卒業して自民党の政治家になり、いずれは内閣総理大臣になる」という夢を描いていたといいます。毛沢東や田中角栄への傾倒も、この時期から見られていました。

しかし現実はそう甘くありませんでした。

上京→転居→実家に戻る→再び熊本→再上京という放浪を繰り返し、1977年春(22歳)にようやく代々木ゼミナールへ入学します。ただし東大受験は3度失敗。結局、東大への道を諦めることになりました。

なお、東大受験の失敗を「挫折」として捉えていたかどうかは不明で、側近の広瀬健一さんは「麻原さんは受験時代の思い出を楽しそうに語っていた」と証言しています。

この時期から「弁護士か宗教家になりたい」と周囲に語り始めていたといいます。

なお、1976年7月には長兄の元従業員が兄を侮辱したことに怒り、相手の頭部を殴打して負傷させるという事件も起こしています。同年9月、八代簡易裁判所で罰金1万5千円の刑を受けました。暴力で問題を解決しようとする行動様式は、この時期からすでに現れていたと言えるでしょう。

石井知子との結婚と宗教への目覚め

東大合格を目指して通っていた代々木ゼミナールで、智津夫さんは一人の女性と出会います。

石井知子さん——のちの松本知子さんです。

千葉県木更津高校を卒業し、浪人して代々木ゼミナールに通っていた知子さんと、智津夫さんは隣の席になったことがきっかけで交際に発展。

1978年1月7日、2人は結婚し、千葉県船橋市に新居を構えました。

同年、鍼灸院「松本鍼灸院」を開院し、その後「亜細亜堂」という漢方薬局も開業します。

しかしこの頃から、智津夫さんは「病気の人を完治させることができない」という無常感を抱くようになります。鍼灸師としての限界を感じた彼は、四柱推命・気学・漢方・仙道と次々に探求するようになり、最終的に宗教へとたどり着きます。

鍼灸→漢方→阿含宗への流れ

1980年8月、25歳のとき根本仏教系の新宗教「阿含宗」に入信します。

この時期、同時に保険料の不正請求が発覚し670万円の返還を求められるというトラブルも起きていました。

さらに1982年には、無許可の医薬品を販売して4千万円を稼ぐものの、「効き目がないどころか下痢をした」と告発され薬事法違反で逮捕。罰金20万円の刑を受けます。

妻の知子さんは、この逮捕と宗教へののめり込みによって精神的に追い詰められていきます。対人恐怖症、外出恐怖症、強迫神経症——三女の松本麗華さんの証言によると、知子さんは家出しようとしても経済力がなく、結局は玄関と部屋の間を何往復もするだけで戻ってきたといいます。

知ったときは、なんだか胸が痛くなりました。

薬事法違反逮捕からオウム真理教設立へ

1983年夏、麻原さんは阿含宗を脱会します。「阿含宗の教義が阿含経典の教えとかけ離れている」と気づいたためです。

同年、経営塾を主宰していた西山祥雲という人物に弟子入りし、「彰晃」という名を与えられます。これが後の「麻原彰晃」という名前の由来のひとつです。

その後、仙道・ヨーガ・東洋医学を組み合わせた能力開発塾「鳳凰慶林館」を設立し、「麻原彰晃」と名乗り始めます。

なお「麻原彰晃」という名には「阿修羅(アシュラ)・釈迦(シャカ)」という、真逆の性質を持つ神の意味が込められているとされています。まるでこの人物の矛盾した本質を表しているかのようですね。

1984年、鳳凰慶林館は「オウムの会」と改名。そして1987年7月、「オウム神仙の会」から「オウム真理教」へと改称します。税制面での優遇を目的とした宗教法人化の動きでした。

1989年8月25日、東京都から宗教法人として正式に認証。

ここから先は、日本犯罪史上最悪のテロ集団へと変貌していく歴史です。

宗教化後は多額の献金を要求するようになり、会員の3分の1が脱会したといいます。それでもなお、東大や京大出身の高学歴の信者たちが集まり続けた……というのが、この事件のひとつの謎でもあります。

麻原彰晃の生い立ちを調べる人向けの関連情報

麻原彰晃さんの生い立ちには、まだまだ知られていない側面がたくさんあります。

ここでは、関連するキーワードで検索する方向けに、より詳しい情報をまとめていきます。

両親はどんな人物だったのか

麻原さんの父親は、朝鮮半島で生まれた引き揚げ者でした。

祖父が朝鮮で警察署長を務めていたという記録があり、戦後に朝鮮から日本へ引き揚げた際に熊本県八代市に定住しています。

畳職人として生計を立てていましたが、時代とともに畳の需要は減少し、7人の子供を抱えながら生活は逼迫していきました。盲学校の教諭が「見たことがない」というほどの極貧状態だったとされています。

母親についての詳細な記録は少ないのですが、両親ともに働きづめで、智津夫さんをほとんど育てられなかったことは事実のようです。

盲学校に入れてから20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてきたことは一度もなかったという事実は、その後の麻原さんの人格形成に深刻な影響を与えたと考えられています。

兄弟9人の家族構成と長兄の全盲

松本家は男6人・女3人の9人兄弟という大家族でした。

智津夫さんはその第七子・四男です。

注目すべきは長兄の存在です。12歳年上の長兄は完全な全盲でした。そして五男も弱視を抱えていたといいます。兄弟に視覚障害者が複数いるという事実は、作家・藤原新也さんに「水俣病の影響では」という仮説を抱かせることになりました。

長兄自身もその疑いを持ち、役所に申請したことがあるとのことですが、却下されています。

盲学校では智津夫さんと長兄、そして別の兄弟の合わせて3兄弟が在籍していたとも言われています。週末に他の生徒たちが里帰りするなか、松本3兄弟だけが寮に残っていたというエピソードは、その孤独の深さを物語っています。

若い頃に「天才」と呼ばれたのはなぜか

麻原彰晃さんは若い頃、「天才」と呼ばれることがあったといいます。

その理由のひとつが、閉鎖的な盲学校という環境における突出した知性と交渉力です。

全盲の生徒が大半を占める中で「目が見える」という圧倒的な優位性を持ちながら、巧みに人を操り、お金を集め、権力を構築していきました。

また、柔道では盲学校生徒としては異例の柔道二段(講道館)を1975年1月に取得しています。

英語や中国語を独学で学んでいたという記録もあります。

後に鍼灸師として、また漢方薬の調合者として一定の評価を得ていたことも、「天才」と呼ばれた背景にはあるようです。ただし、その「天才性」は人を操ることへと完全に向かっていきました。

嫁・松本知子との出会いと神経症

麻原さんの妻・松本知子さん(旧姓:石井知子)は、1958年に千葉県で生まれました。

千葉県立木更津高校を卒業後、浪人して代々木ゼミナールに入学。そこで麻原さんと隣の席になったことが出会いのきっかけです。

1978年1月7日に結婚し、千葉県船橋市に新居を構えました。

しかし結婚後の生活は、徐々に過酷なものへと変わっていきます。

麻原さんが薬事法違反で逮捕されたこと、そして宗教にのめり込んで家に帰らなくなったことが積み重なり、知子さんは精神的に限界を超えてしまいます。対人恐怖症・外出恐怖症を発症し、強迫神経症もひどくなっていったとのことです。

三女の松本麗華さんは、母親が家出しようとしては玄関と部屋の間を何往復もして結局戻ってくる——そんな様子を幼い頃から目撃していたと語っています。

現在、知子さんは「松本明香里(まつもと・あかり)」と改名し、表舞台からは距離を置いているとされています。

子供6人の現在——娘たちの証言と確執

麻原さんと松本知子さんの間には、6人の子供(娘4人・息子2人)がいます。

名前 生年 備考
長女 松本美和 1978年
次女 松本宇未 1981年 遺骨を引き取った
三女 松本麗華 1983年 「アーチャリー」として活動・手記出版
四女 松本聡香 1989年 父母への相続廃除申請
長男・次男

四女の相続廃除申請

四女の松本聡香さんは、実父・麻原彰晃さんと実母・松本知子さんに対し、相続廃除を申請。2017年10月、横浜家庭裁判所がこれを認める審判を下しました。

また、2010年には「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」(徳間書店)を出版し、自身の経験を世に発信しています。

三女の松本麗華さんとは、父親への評価をめぐって対立する場面もあったとされており、娘たちの間でも「どんな父親だったのか」の認識は大きく分かれています。

三女・松本麗華さんは手記「止まった時計」を出版し、現在はクリニックに勤務しているとされています。

オウム真理教はなぜ高学歴者を引き寄せたのか

麻原彰晃さんが構築したオウム真理教には、東大・京大出身者をはじめとする高学歴の信者が多数いたことが知られています。

なぜ高い知性を持つ人々が、麻原さんという人物に惹かれていったのでしょうか。

ひとつの見方として、麻原さんが持っていた「カリスマ性」と「神秘体験の演出力」があります。盲学校時代から他者を操り、支配する術を身に付けていた麻原さんは、ヨーガや宗教的体験を通じて人の心の深いところに訴える方法を確立していきました。

また当時の社会背景も無視できません。1980年代〜90年代は新興宗教ブームの時代でもあり、「自己啓発」「超能力」「精神的な解脱」への強い関心が社会全体にありました。高学歴者ほど「正解を求める」思考が強く、麻原さんが提示する「体系化された教義」にはまりやすかったという分析もされています。

麻原彰晃という人物の恐ろしさは、生い立ちで育まれた「人を操る力」を極限まで発展させたことにあったのかもしれません。

麻原彰晃の生い立ちのまとめ

  • 本名は松本智津夫。1955年3月2日、熊本県八代市に生まれた
  • 父は朝鮮半島引き揚げの畳職人で、極貧の生活を送っていた
  • 祖父はかつて朝鮮で警察署長を務めていた
  • 9人兄弟の第七子・四男として生まれた
  • 先天性緑内障で左目はほぼ見えず、右目は視力1.0程度だった
  • 兄弟に視覚障害者が複数おり、水俣病の影響という仮説もある
  • 6歳で盲学校に転校・寄宿舎生活開始。理由のひとつは学費・食費が無料だったため
  • 両親は13年間一度も盲学校を訪ねなかった
  • 盲学校で全盲の生徒を恐喝・支配し、卒業までに300万円を蓄えたとされる
  • 20歳で卒業後、東大受験を目指して上京するも3度失敗した
  • 代々木ゼミナールで石井知子と出会い、1978年に結婚した
  • 千葉県船橋市で鍼灸院・漢方薬局を開業したが、薬事法違反で逮捕された
  • 1980年に阿含宗に入信、1983年に脱会してオウム真理教の前身を設立した
  • 「麻原彰晃」という名は「阿修羅と釈迦」という相反する意味を持つ
  • 1987年にオウム真理教に改称し、1989年に宗教法人認証を受けた
  • 妻の松本知子は宗教没頭と逮捕により神経症を発症した
  • 子供は6人(娘4人・息子2人)おり、娘たちの父親評価は大きく分かれている
  • 四女は2017年に実父母への相続廃除を申請し認められた
  • 高学歴の信者が多かったことは、麻原の「人を操る力」とカリスマ性の高さを示している
  • 生い立ちに潜む孤独・憎しみ・支配欲が、日本最悪のテロリスト誕生につながった可能性がある

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