「君は天然色」「さらばシベリア鉄道」、そして『A LONG VACATION』。夏になると必ずどこかで流れてくる、あの音を作った人です。
洗練された都会的なサウンドから、東京の生まれ育ちだと思っている方も多いかもしれません。
ところが大瀧詠一さんの実家があったのは、岩手県の内陸にある小さな村でした。しかも、家には父親の姿がありません。
- 大瀧詠一さんの実家がどこにあり、どんな家柄だったのか
- 父親の情報がほとんど出てこない理由と、母親の職業
- 実家を離れるまでに6回も転校した事情と、その後の福生の自宅
大瀧詠一の実家は岩手県奥州市江刺|家族構成と生家をたどる
まずは場所と家族から整理していきます。
実家の環境が、のちの音楽そのものに直結している人でした。
実家は岩手県江刺郡梁川村、現在の奥州市江刺にあった
大瀧詠一さんが生まれたのは1948年7月28日。
実家があったのは岩手県江刺郡梁川村(やながわむら)です。
この村はのちに江刺市となり、平成の大合併を経て、現在は奥州市の一部になっています。
| 時期 | 行政上の呼び名 |
|---|---|
| 生まれた1948年当時 | 岩手県江刺郡梁川村 |
| その後 | 岩手県江刺市 |
| 2006年の合併以降 | 岩手県奥州市(江刺地区) |
奥州市は岩手県の内陸南部、北上川の東側に広がるエリアです。
藤原氏ゆかりの土地としても知られていて、歴史公園「えさし藤原の郷」があるのもこの江刺地区になります。
つまり大瀧詠一さんの実家は、東京から遠く離れた岩手の農村地帯にありました。
実家の家系は仙台藩の藩境を守った家柄と伝えられる
もう少し家のルーツをさかのぼった話も残っています。
江戸時代の本家は農家で、長男以外は仙台藩の下級武士として、南部藩との藩境の警備にあたっていたというものです。
岩手県は江戸時代、北の南部藩と南の仙台藩に分かれていました。江刺は仙台藩の北端、まさに藩境にあたる地域です。
ただしこの家系の話は、大瀧詠一さん本人が公の場で詳しく語ったものというより、まとめ記事の側で紹介されている情報です。
土地の歴史とは矛盾しませんが、公式に裏づけられた家系図が公開されているわけではない点は押さえておきたいところですね。
母子家庭の一人息子として育った
実家の話でいちばん重要なのが、ここです。
大瀧詠一さんは母子家庭の一人息子として育ちました。
母ひとり子ひとり。家の中に大人は母親だけで、きょうだいもいません。
この家庭環境は、複数の資料で共通して書かれている確かな情報です。
のちに「福生の仙人」と呼ばれ、人前に出ることを極端に嫌い、自宅にこもって音を作り続けた人でした。
ひとりで音に向き合う時間の長さは、この家庭環境から始まっていたのかもしれません。
母親は小学校の養護教諭だった
母親は公立小学校の養護教諭、いわゆる保健室の先生です。
戦後間もない時期に、女手ひとつで息子を育てながら教職に就いていたことになります。
幼い息子を職場に連れていくこともあり、教職員旅行にも同行させていたそうです。
大人ばかりの場に連れ出され、そのたびに歌を歌わされる。少年時代の大瀧詠一さんは、そういう子どもでした。
後年の作品に漂う、どこか大人びた音楽への目配りは、こうした環境と無関係ではないでしょう。
父親についての情報はほとんど公表されていない
では父親はどうだったのか。
結論から言うと、名前も職業も、ほとんど表に出ていません。
どのような経緯で母子家庭になったのか——離別なのか死別なのか——という点についても、公式に語られた記録が見当たらないのです。
ネット上には推測を書いている記事もありますが、根拠となる一次情報がありません。
わかっていないことを、わかったように書けない。父親については、そこが正直なところです。
本人も生前、家庭の事情を細かく語るタイプではありませんでした。ラジオでは膨大な音楽談義を展開した人ですが、話題の中心はいつも音楽史のほうを向いていましたね。
本名をめぐって「大瀧榮一」と「菊池榮一」の2説がある
実家の話をすると必ず出てくるのが、本名の食い違いです。
| 説 | 内容 | 主な出どころ |
|---|---|---|
| 大瀧榮一 | 本名も大瀧姓 | Wikipediaなどの記述 |
| 菊池榮一 | 菊池が父の姓、大瀧は母の旧姓 | ファンによる評伝ブログなど |
後者が正しければ、「大瀧詠一」という芸名は母方の姓を名乗ったことになります。
母ひとりに育てられた人が、母の姓で世に出た——そう読むと物語としてはよくできています。
ただ、この2説はどちらも決定的な裏づけを持たないまま並存している状態です。ここは断定を避けておきます。
実家にはいつも歌があった|のど自慢大会と三橋美智也
裕福な家ではありませんでしたが、実家には音楽が溢れていました。
母親が大の歌好きだったのです。
三橋美智也や春日八郎といった、当時の流行歌手のレコードが家で鳴っていました。
そして家庭内で「のど自慢大会」が開かれます。息子は司会役をやらされ、その結果どうなったか。
当時の流行歌のほとんどを歌えるようになってしまいました。
のちに大瀧詠一さんは、歌謡曲からアメリカンポップスまでを縦横に語る、驚異的な音楽知識の持ち主として知られます。
その原点は、岩手の実家の茶の間だったわけですね。
実家を離れるまで|6回の転校と、上京してからの自宅
ここからは、実家を出るまでの経緯と、その後どこに住んだのかを見ていきます。
「実家はどこ?」という問いに、ひとつの町の名前で答えにくい理由がここにあります。
母の異動で江刺から遠野、遠野から釜石へ移り住んだ
母親は公立学校の教員です。当然、異動があります。
そのたびに親子で引っ越すことになりました。
| 時期 | 移動 |
|---|---|
| 小学生のころ | 江刺 → 遠野 |
| 中学生のころ | 遠野 → 釜石 |
遠野は『遠野物語』で知られる内陸の町、釜石は太平洋に面した製鉄と漁業の町です。
内陸の農村から山あいの盆地へ、そして海辺の工業都市へ。少年期のうちに、まったく違う三つの土地で暮らしたことになります。
入学した学校を卒業したことがない、という少年時代
転校の回数は、高校卒業までに6回にのぼったと伝えられています。
そして本人の弁として残っているのが、この一言です。
入学した学校を卒業したことがない。
入っては移り、また入っては移る。友人関係が地元に根を張らないまま、少年期が過ぎていきました。
それでも学校では目立つ子どもだったようで、10歳のころには教室で落語『字違い』を披露しています。野球や相撲も得意で、学芸会では主役を務めました。
転校生としてすぐ人の輪に入るための武器が、芸事だったのだと思います。
音楽と出会ったのも実家暮らしの時期だった
決定的だったのは小学5年の夏です。
コニー・フランシスの「カラーに口紅」を耳にして、アメリカンポップスに一気に傾倒しました。
この曲を聴いた場所については、親戚の家だったとする記述とラジオだったとする記述があり、細部は資料によって食い違っています。
中学ではラジオクラブに入部。米軍の極東放送(FEN)から流れるロックを、来る日も来る日も録音していました。
修学旅行では、土産代を日本橋三越のレコード売り場で使い切ってしまったそうです。
花巻北高校を1年で退学し、釜石南高校へ編入した
1964年、岩手県立花巻北高校に入学します。県内でも有数の進学校です。
ところが、わずか1年で退学することになりました。
理由は学費の未納。授業料をレコード代に使ってしまった、と伝えられています。
その後、岩手県立釜石南高校へ編入しました。
釜石ではギターを手にしますが三日で断念し、ドラムに転向。こたつの上に漫画雑誌を置いて叩く、という練習法だったといいます。
2年でビートルズ・タイプのバンドを組み、予餞会で「イエスタデイ」を歌って大絶賛されました。
授業料をレコードに変えてしまう高校生が、そのまま音楽の人になったわけです。
1967年に岩手を出て、就職した会社は3か月で辞めた
1967年春、大瀧詠一さんは上京します。実家のある岩手を離れた年です。
大学受験に失敗し、予備校に籍を置いたものの、ほとんど通いませんでした。
そのまま小岩の製鉄会社に入社します。ここでの記録が強烈です。
- 在籍期間は約3か月
- 実際に出社したのは20日ほど
- 慰労会でビートルズの「ガール」をアカペラで披露
- 課長に「君は会社に勤めるような人ではない」と言われ退職
言われた本人は「そうでしょうね」と応じたそうです。
翌1968年、早稲田大学第二文学部に入学。ここから、はっぴいえんどへ向かう道が始まります。
実家の岩手を離れて構えたのが「福生45スタジオ」
大人になってからの住まいにも触れておきます。
1973年、東京都西多摩郡瑞穂町へ移り住みました。横田基地のすぐ近くです。
選んだ建物は、元米軍ハウス。それを自宅兼スタジオに改装し、「福生45スタジオ」と名づけました。
ここで『A LONG VACATION』をはじめとする名盤が作られ、人前に出ない生活ぶりから「福生の仙人」と呼ばれるようになります。
岩手の実家で米軍放送を録音していた少年が、米軍ハウスに住んで音楽を作るようになった——。実家時代のラジオと、その後の住まいが、まっすぐ一本の線でつながっています。
実家のある奥州市は今も大瀧詠一を顕彰し続けている
2013年12月30日、大瀧詠一さんは自宅で亡くなりました。解離性動脈瘤、65歳でした。
その後も、実家のある奥州市江刺では地元出身のミュージシャンとして顕彰が続いています。
- 地元には「江刺大滝詠一顕彰会」が組織されている
- 歴史公園「えさし藤原の郷」で七回忌の追悼展が開かれ、ポスターやLPが並んだ
転校を繰り返し、高校を中退し、実家を出たあとは東京の西のはずれにこもった人です。
それでも生まれた土地は、いまも彼を「江刺の人」として迎えています。
大瀧詠一の実家についてのまとめ
最後に要点を整理します。
- 実家は岩手県江刺郡梁川村、のちの江刺市で、現在の奥州市江刺にあたる
- 江戸時代の家系は農家で、長男以外は仙台藩の下級武士として藩境を警備したと伝わる
- 母子家庭の一人息子として育ち、母親は小学校の養護教諭だった
- 父親の名前・職業や、母子家庭になった経緯は公表されていない
- 本名は「大瀧榮一」とする資料と「菊池榮一」とする資料があり、確定していない
- 実家では母の影響で歌謡曲が流れ、家庭内のど自慢大会が開かれていた
- 母の異動で江刺→遠野→釜石と移り、高校卒業までに6回転校した
- 花巻北高校を学費未納で1年で退学し、釜石南高校へ編入
- 1967年に上京、就職した製鉄会社を3か月で退職し、翌年早稲田大学へ
- 1973年から瑞穂町の元米軍ハウスに住み「福生45スタジオ」で名盤を制作した
- 実家のある奥州市江刺には顕彰会があり、追悼展なども開かれてきた
都会的で洗練された音の裏側には、岩手の農村で母とふたり、ラジオとレコードだけを頼りに音楽を吸い込んでいた少年がいました。
実家という視点から見ると、あの音の出どころが少し見えてくる気がします。

