加藤和彦さんといえば「帰って来たヨッパライ」やサディスティック・ミカ・バンドで知られる音楽家ですが、その実家がどこにあって、どんな家庭だったのかは意外と知られていません。
京都生まれと紹介されることが多い一方で、本人は「実は江戸っ子」と語っていたりもするので、余計に分かりにくいんですよね。
先に言ってしまうと、実家は京都市伏見区にあり、父親は京都の老舗企業に勤める会社員でした。そして祖父の職業が、後の進学先まで決めることになります。
・加藤和彦の実家がどこにあり、どんな家庭だったのか
・父・母・祖父それぞれの職業と人柄
・実家を離れた転居続きの少年時代と、京都へ戻った理由
加藤和彦の実家は京都市伏見区
まずは、加藤和彦さんの実家について確認できる情報を整理していきます。
場所だけでなく、父・母・祖父がそれぞれどんな人だったのかまで見ていくと、後の音楽活動につながる線がきれいに浮かび上がってきますよ。
実家は京都市伏見区にあった
加藤和彦さんが生まれたのは1947年3月21日、京都市伏見区です。
兄弟姉妹はおらず、ひとりっ子として育ちました。
伏見といえば酒蔵の町として全国的に知られたエリアで、京都市の南部にあたります。
ただ、ここで少しややこしいのが、加藤さんが伏見でずっと暮らしていたわけではないという点です。
生まれてすぐに家族で神奈川県へ移り、そこから先は父親の転勤にあわせて各地を転々としています。
それでも実家そのものは京都・伏見にあり続けたようで、大学進学のときに再び伏見へ戻ってくることになります。
つまり加藤和彦の実家は京都市伏見区で、生まれた場所であると同時に、青年期に戻ってきた場所でもあります。
京都生まれなのに東京の言葉で話す人、という周囲の印象は、この転居続きの生い立ちから来ているんですね。
父は京都の老舗・福田金属箔粉工業に勤務
父親の職業から見ていきましょう。
加藤和彦さんの父親は、京都の老舗企業・福田金属箔粉工業に勤める会社員でした。
芸能一家でも音楽一家でもなく、ごく真面目な勤め人の家庭だったわけです。
人柄については、はっきりした証言が残っています。
怒ったことが一度もないほど穏やかな人だった、と伝えられているんですよね。
そして、有能でありながら従順な性格だったため、会社の事業が拡大していく過程で何度も転勤を命じられたとされています。
……この一文、けっこう切なくないですか。
断らない人だから任される、という構図がそのまま家族の移動になっていたわけです。
結果として息子は転校を繰り返し、友達ができにくい少年時代を過ごすことになりました。
福田金属箔粉工業は1700年創業の老舗
父親の勤務先だった福田金属箔粉工業について、もう少しだけ補足しておきます。
この会社は1700年に京都・室町で金銀箔粉業として創業した企業です。
江戸時代に始まり、現在も金属粉・箔のメーカーとして続いている、京都でも指折りの老舗ということになります。
金銀の箔を扱う商売が、西陣織や漆芸といった京都の伝統産業と結びついてきたことを考えると、加藤家は京都の地場産業の中にいた家だったとも言えますね。
父親の転勤が多かったのも、この会社が全国へ事業を広げていった時期と重なります。
母は京都人でモダンな女性だった
母親についても、印象的なエピソードが残っています。
加藤和彦さん本人の語りによれば、母親は京都人でモダンな人だったそうです。
おしゃれで、料理も得意だったと伝えられています。
とくに面白いのが、幼い息子の服装です。
リーバイスのジーンズの裾をロールアップさせたり、ウエスタンシャツにバンダナを巻かせたりしていたというんですよね。
1950年代の日本で、子どもにこの格好をさせる母親。
……これ、かなり早いですよね。
後年の加藤さんは、音楽だけでなくファッションやライフスタイルでも「時代の一歩先を行く人」と評されるようになりますが、その感覚の出どころが実家の母親だったと考えると腑に落ちます。
両親はジャズ好きで楽器を買い与えていた
両親そろってジャズが好きだった、という話も残っています。
そのため息子にも楽器を買い与えていました。
最初はトランペットです。
イタリアのトランペット奏者ニニ・ロッソの影響だったとされていますが、これが近所迷惑になってしまい、あえなく中止。
次に買ってもらったクラシックギターは、結局一度も弾かなかったそうです。
のちに日本のフォークとロックを塗り替える人の最初の楽器が、鳴らせなかったトランペットと弾かなかったギターだった。
ここ、個人的にすごく好きなエピソードなんですよね。
加藤和彦の音楽的な素地は、実家の両親が持っていた洋楽趣味の上に育っています。
祖父は仏像を彫る仏師だった
実家の話で見落とせないのが、祖父の存在です。
加藤和彦さんの祖父は仏師、つまり仏像を彫る職人でした。
京都・伏見という土地柄を考えれば、これほど似合う家業もありません。
そして、この祖父の存在が後の進路に効いてきます。
加藤さんが進学したのは仏教系の龍谷大学なのですが、その理由のひとつが「祖父の職業を継ぐ気持ち半分」だったと語られているんですよね。
父は会社員、祖父は仏師、母は京都人でモダン。
この三者三様の組み合わせが、加藤家という実家の輪郭になります。
父の転勤で実家を離れた幼少期
ここで、加藤和彦さんが実際にどこで育ったのかを時系列で整理しておきましょう。
京都で生まれたのに関東の言葉で育った理由が、ここではっきりします。
| 時期 | 暮らした場所 |
|---|---|
| 1947年3月 | 京都市伏見区で誕生 |
| 生後まもなく〜小学4年 | 神奈川県・鎌倉、逗子 |
| 小学5年 | 京都へ戻る |
| その約1年後〜高校卒業 | 東京・日本橋 |
| 1965年〜 | 京都(龍谷大学へ進学) |
見ての通り、同じ場所に落ち着いた期間がほとんどありません。
小学4年生までを鎌倉と逗子で過ごし、小学5年生で京都へ。
ところが1年ほどで今度は東京の日本橋へ移り、そのまま高校卒業まで東京で暮らしています。
本人が「実は江戸っ子」と語っていたのは、この東京での期間がいちばん長かったからですね。
出生地は京都でも、少年期の生活実感としては関東で育った人だったということになります。
転校続きで友達ができなかった中学時代
転居の多さは、当然ながら学校生活に影響しました。
通っていたのは中央区立明石中学、現在の銀座中学校です。
ただ、転校が多かったせいで友達ができず、放課後は銀座のプラモデル屋や本屋に寄るか、まっすぐ帰宅するかの生活だったと伝えられています。
正直、読んでいて少し胸が痛くなる部分です。
ただ、この一人で過ごす時間が無駄になったわけではありませんでした。
中学時代にエルヴィス・プレスリーの映画『ブルーハワイ』を観たことで映画音楽に興味を持ち、高校1年だった1963年の夏には、ラジオでボブ・ディランを初めて耳にします。
そこからアメリカへ輸入盤『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を取り寄せ、付属していた楽譜をきっかけにギターを弾き始めました。
友達ができない時間が、そのまま音楽を掘り下げる時間になっていたわけですね。
実家に近い龍谷大学へ進学した理由
1965年、東京都立竹台高校を卒業した加藤和彦さんは、京都の龍谷大学経済学部へ進みます。
東京で高校まで過ごした人が、わざわざ京都の大学を選んだ。
その理由が、これまで見てきた実家の事情とぴったり重なります。
ひとつは、龍谷大学が伏見区の実家に近かったこと。
もうひとつが、龍谷大学が仏教系の大学であり、仏師だった祖父の跡を継ぐ気持ちが半分あったことです。
進学先の決め手が、実家の場所と祖父の職業の両方だったわけですね。
もっとも、その後の展開はご存じの通りです。
加藤さんは在学中にザ・フォーク・クルセダーズの活動を始め、経済学部を中退してプロの音楽家になりました。
仏師を継ぐために選んだ京都の大学が、結果として音楽人生の出発点になったということになります。
加藤和彦の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家や生い立ちとあわせてよく調べられている項目をまとめていきます。
学歴や結婚歴、そして晩年まで、順番に見ていきましょう。
高校は東京都立竹台高校
学歴を整理しておきます。
小学校は神奈川県内、中学は中央区立明石中学(現・銀座中学校)、そして高校が東京都立竹台高等学校で、1965年の卒業です。
竹台高校は東京都台東区にある都立高校ですね。
大学は前述の通り龍谷大学経済学部で、こちらは中退しています。
音楽の専門教育を受けた経歴はどこにもありません。
輸入盤と洋雑誌を自力で読み込んで身につけた知識だった、という点は押さえておきたいところです。
フォーククルセダーズ結成は京都の学生時代
ザ・フォーク・クルセダーズが生まれたのも、京都に戻ってからのことです。
きっかけは1965年8月、加藤さんが雑誌「MEN’S CLUB」の読者投稿欄に出した、フォーク・コーラスを作ろうというメンバー募集でした。
これに応じたのが、当時京都の医大生だったきたやまおさむさんです。
のちに平沼義男さんらが加わり、5人でグループが結成されました。
きたやまさんが振り返る当時の加藤さんの印象が、なかなか強烈です。
アイビールックに身を包んだ長身で、180センチあるきたやまさんよりさらに背が高い。第一印象は東京から突然やってきたミュータントだったといいます。
口が重く人見知りするタイプでしたが、珍しい楽器をいくつも持ち、高校時代から書棚に外国のフォーク雑誌が並んでいた。
当時の京都では考えられないほどの知識量だったそうです。
そして1967年、自主制作アルバム『ハレンチ』に収録された「帰って来たヨッパライ」がラジオで流れて大反響となり、280万枚以上を売り上げます。
実家に近い大学へ入った学生が、2年ほどで日本中の知る名前になったわけですね。
3度の結婚と3人の妻
結婚歴についても触れておきます。
加藤和彦さんは生涯で3度結婚しました。
| 相手 | 期間 |
|---|---|
| 福井ミカ | 1970年7月〜1975年に離婚 |
| 安井かずみ | 1977年〜1994年に死別 |
| 中丸三千繪 | 1995年〜2000年に離婚 |
とくに知られているのが、2人目の妻である作詞家の安井かずみさんです。
2人は公私ともにパートナーで、加藤さんの最高傑作とされるヨーロッパ三部作、つまり『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』は、すべて安井さんが作詞し加藤さんが作曲・編曲を手がけた作品です。
この三部作には高橋幸宏さん、細野晴臣さん、坂本龍一さんといった面々も参加しています。
安井さんを1994年に亡くしたことは、その後の加藤さんに大きく影を落としたと語られています。
子供がいなかったこと
3度の結婚をしていますが、加藤和彦さんに子供はいません。
事情があってできなかったというより、つくらない選択をしていたと伝えられています。
ただ、晩年になって同世代の友人が集まると、話題はどうしても子や孫のことになります。
そうした場で、子供がいないことに寂しさを感じ始めていたように見えた、という周囲の証言も残っているんですよね。
これは、なんとも言えない気持ちになります。
なお、加藤さんの家族という点で言えば、実家も父・母・本人の三人だけでした。
祖父の仏師という家業も、父の代で会社員に変わっています。
2009年に62歳で亡くなるまで
最後に、晩年についても触れておきます。
加藤和彦さんは2009年10月、長野県軽井沢町のホテルで亡くなりました。62歳でした。
自ら命を絶ったとみられ、部屋には遺書が残されていたと報じられています。
生前はうつ病と診断されており、亡くなる1か月ほど前から容態が悪化していたと伝えられました。
残された文章には、世の中が音楽を必要としていないと感じること、創作意欲を失ったことがつづられていたとされています。
葬儀は本人の「葬式はいらない」という言葉を尊重し、喪主も葬儀委員長も立てない無宗教方式の密葬で行われました。
2024年には、その足跡をたどるドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』が公開されています。
京都・伏見の会社員の家に生まれた一人息子が、日本の音楽をどこまで動かしたのか。
実家からたどると、その距離の大きさがよく見えてきますよね。
加藤和彦の実家のまとめ
- 加藤和彦の実家は京都市伏見区にあった
- 1947年3月21日生まれで兄弟のいないひとりっ子
- 父親は京都の老舗・福田金属箔粉工業に勤める会社員
- 福田金属箔粉工業は1700年に京都・室町で創業した企業
- 父親は怒ったことがないほど穏やかな人柄だったとされる
- 有能だが従順な性格ゆえに転勤が多かったと伝えられる
- 母親は京都人でモダンな女性で、料理も得意だった
- 幼い息子にリーバイスやウエスタンシャツを着せていた
- 両親ともジャズ好きでトランペットやギターを買い与えていた
- 祖父は仏像を彫る仏師だった
- 生後すぐ神奈川へ移り小学4年まで鎌倉・逗子で育った
- 小学5年で京都へ戻るが約1年で東京・日本橋へ移った
- 中学は中央区立明石中学、高校は東京都立竹台高校
- 龍谷大学は実家に近く、祖父の跡を継ぐ意図もあったとされる
- 龍谷大学経済学部は中退し、音楽の道へ進んだ

