「世界の車窓から」の声でおなじみの石丸謙二郎さんですが、実家について調べると、出身地ははっきりしているのに実家と呼べる一軒が出てこないという不思議なことになります。
銀行員だったお父さんの転勤で、子ども時代の石丸謙二郎さんは大分県内を20軒以上も移り住んでいました。
しかも住んでいたのは武家屋敷や料亭や旅館ばかりだったというから、驚きますよね。
・石丸謙二郎の実家がある場所と、生家が公表されていない事情
・父の転勤で20軒以上を移り住んだ少年期と、住まいが武家屋敷や料亭だった理由
・家族構成と、蕎麦屋を営む兄・ヨットで日本一になった妹の経歴
石丸謙二郎の実家が大分に定まらない理由
「世界の車窓から」のナレーションでおなじみの石丸謙二郎さんですが、実家がどこなのかを調べると、ちょっと不思議なことになります。
出身地ははっきりしているのに、実家と呼べる一軒がどうしても浮かび上がってこないんですよね。
まずはその理由から見ていきましょう。
出身は大分県大分市で生家は非公表
石丸謙二郎さんの出身地は大分県大分市です。
これはWikipediaや公式プロフィール、各種メディアの記載がすべて一致していて、揺れがありません。
生まれたのは1953年11月1日で、2026年時点では72歳を迎えています。
地元では大分市立碩田中学校から大分県立大分上野丘高等学校へ進み、その後に日本大学芸術学部演劇学科へ入学するために上京しました。
上野丘高校は大分県内でもトップクラスの進学校として知られている学校なので、学生時代の石丸謙二郎さんがどんな環境にいたのかは、ここからもある程度想像がつきますよね。
ただ、肝心の実家の住所や生家の場所については、本人も事務所も公表していません。
芸能人の実家情報は、ご家族が一般の方である以上、あえて出さないのが普通です。
石丸謙二郎さんの場合も例外ではなく、番地レベルの情報はどこにも出ていませんでした。
出身地は大分県大分市で確定していますが、実家の具体的な場所は公表されていません。
別府市で生まれたという説について
ネット上には別府市生まれではないかと書いている記事もあります。
これは石丸謙二郎さんが温泉にまつわる話をしていたことから逆算された見立てのようですが、公的な資料や本人の発言で裏づけられているわけではありません。
大分県は県内全域に温泉地が点在している土地柄なので、温泉の話をしていたからといって別府市が生まれた場所だと決めつけるのは、少し飛躍がありそうです。
現時点では大分市出身という記載のほうが圧倒的に多く、そちらを基本情報として受け取っておくのが無難かなと思います。
転勤で高校卒業まで20軒以上を転居
ここからが、石丸謙二郎さんの実家が定まらない最大の理由です。
お父さんが銀行員で、しかも転勤が非常に多い働き方をしていました。
そのため石丸謙二郎さんは、子どもの頃から大分県内をぐるぐると移り住み続けることになります。
引っ越しの回数については、情報源によって数字が少しずつ違っています。
| 情報源 | 記載されている数字 |
|---|---|
| Wikipedia | 大学入学で上京するまで大分県内だけで23か所 |
| エンタメ系メディア | 高校卒業までの約17年間で23軒 |
| 個人ブログ系 | 4歳から18歳までに27軒 |
| 別の個人ブログ系 | 大分県内を22回引っ越した |
数え方の基準がそろっていないので、22なのか23なのか27なのかは断定できません。
ただ、どの情報源を取っても20軒を超えている点は共通しています。
18歳までに20回以上の引っ越しということは、単純計算で1年に1回以上のペースです。
小学校に上がったばかりの子どもが、友達ができた頃にまた別の町へ、というのを毎年繰り返していたことになります。
……これは、なかなかしんどかったんじゃないでしょうか。
帰る一軒が決まっていないという意味で、石丸謙二郎さんには一般的な意味での実家が存在しません。
住んだ市や町の数
引っ越した先の数についても情報があります。
ある個人ブログでは、大分県内の10の市や町に住んだと紹介されていました。
こちらは1つの情報源にしか見当たらなかった数字なので参考程度になりますが、20軒以上という軒数と突き合わせると、同じ町の中で何度も住み替えていた計算になります。
銀行の社宅事情や物件の空き具合に合わせて、そのつど住まいを変えていたのかもしれませんね。
住んだのは武家屋敷や料亭や旅館
引っ越しの多さ以上に驚くのが、住んでいた家そのものです。
石丸謙二郎さんが借りて住んでいた家は、普通の一戸建てやアパートではありませんでした。
複数のメディアが、武家屋敷・料亭・旅館といった建物に住んでいたと伝えています。
しかもそれらは会社の社宅として借りられたものだったといいます。
なぜそんな家ばかりだったのか。
背景として語られているのが、お父さんの好みです。
引っ越すたびにその街の大きな屋敷を探して借りていた、という話が複数の記事で紹介されています。
普通の人が住まないような、とにかく広い家を選んでいたのだそうです。
| 時期 | 住んでいたとされる建物 |
|---|---|
| 幼稚園の頃 | 元武家屋敷 |
| 中学3年の頃 | 元高級料亭 |
| 高校3年の頃 | 40室ある元国際旅館 |
この時期ごとの内訳は1つのメディアにしか記載がなかったので、そこは差し引いて読む必要があります。
とはいえ、古いお屋敷ばかりに住んでいたという大枠は複数の記事で一致していました。
高校生が40室ある元旅館で暮らしている図を思い浮かべると、正直ちょっと笑ってしまいますよね。
かくれんぼをしたら一日では見つからなさそうです。
石丸謙二郎さんの実家は一軒に定まらないかわりに、武家屋敷や料亭や旅館という強烈な顔ぶれで残っています。
俳優として空間の使い方や身体の感覚が求められる仕事に進んだことを思うと、こういう環境で育ったことは無関係ではなかったのかなと感じます。
父は豊和銀行に勤めた銀行員
実家の話に必ず出てくるのが、お父さんの仕事です。
お父さんの職業は銀行員で、これはどの情報源でも一致しています。
勤務先について具体名を挙げているのがWikipediaで、大分県に本店を置く豊和銀行の行員だったと記載されています。
地方銀行は県内の支店を数多く抱えているため、行員の転勤が県内で完結しやすい仕事です。
石丸謙二郎さんの引っ越しがすべて大分県内で起きていた理由も、この働き方で説明がつきます。
支店長を務めていたという記載
一部のメディアでは、お父さんが支店長を務めていたとも書かれています。
こちらは1つの情報源にしか見当たらなかったので確定情報とは言えませんが、もし支店長として各地の支店を任される立場だったのであれば、毎年のように任地が変わっていたことにも筋が通ります。
社宅としてその街の大きな屋敷を借りていたという話とも、立場的にかみ合う部分がありますね。
シベリア抑留から帰還したという話
お父さんについては、名前が正也さんであるという記載や、シベリア抑留から命からがら帰還した経歴を持つという記載も見つかりました。
ただ、こちらも確認できたのは1つの情報源のみです。
戦後にシベリアから帰った方が地方銀行に就職して家庭を持つという流れ自体は、当時の日本では珍しい話ではありません。
とはいえ裏づけが取れていない以上、そういう話が伝わっている、という受け止め方にとどめておきます。
90歳まで運転した父の免許返納
お父さんについて、もう1つ強く印象に残るエピソードが伝えられています。
90歳まで車の運転を続けていたという話です。
息子である石丸謙二郎さんが運転をやめるよう勧めても、まったく聞き入れなかったといいます。
高齢者マークを貼っても剥がしてしまい、接着剤で貼りつけてもやはり剥がしてしまう。
ここまでくると、もはや意地ですよね。
最終的に免許返納につながったのは、説得ではなく別の方法でした。
警察の協力を得て、名誉表彰式という形の場を設けたところ、あっさり返納に応じたと伝えられています。
……なんか、いいですよね、この話。
やめろと言われると意地になるけれど、これまでの運転を讃えられるとすっと引く。
言い方ひとつで人の気持ちが変わるという、とても人間らしい場面だと思います。
このエピソードも確認できたのは1つのメディアだけなので、事実として断定はできません。
ただ、大きな屋敷ばかりを借りて住んでいたという話と並べてみると、お父さんという人の輪郭がなんとなく見えてくる気がします。
石丸謙二郎さんの実家を語るうえで、お父さんの個性は転勤の多さと同じくらい大きな要素です。
祖父は関根大サーカスの団長
家系をもう一世代さかのぼると、さらに意外な事実が出てきます。
石丸謙二郎さんのおじいさんは、関根大サーカスの団長だったとWikipediaに記載されています。
銀行員の父、サーカス団長の祖父。
同じ家系とは思えない振れ幅で、初めて知ったときは驚きませんでしたか。
しかもこの話には続きがあります。
石丸謙二郎さん自身が20歳頃から数年間、アルバイトとしてピエロでサーカスに出演していたというのです。
幼い頃から体幹を鍛えられていたという記述もあり、俳優としてデビューする前に、すでに人前で身体を使って表現する場所にいたことになります。
舞台デビューは1977年の「いつも心に太陽を」ですから、その少し前の時期にあたります。
ここは1つの情報源での記載になりますが、石丸謙二郎さんの多趣味ぶりを考えると妙に腑に落ちる話ではあります。
公式プロフィールに並んでいる趣味を見てください。
登山、ウインドサーフィン、フリークライミング、洞窟探検、タップダンス、スキー、スキューバダイビング、釣り、ピアノ、墨絵、将棋。
身体を使うものが本当に多いんですよね。
屋敷を転々とした少年期と、サーカスにつながる家系。この2つが石丸謙二郎さんの土台になっています。
石丸謙二郎の実家を調べる人向けの関連情報
実家そのものだけでなく、ご家族や現在の暮らしについても気になるところですよね。
ここからは、あわせて検索されることが多いテーマをまとめて見ていきます。
家族構成は両親と兄と妹の5人
石丸謙二郎さんの家族構成は、お父さん・お母さん・兄・妹・本人の5人家族です。
複数のメディアが同じ内容で伝えているので、ここは信頼していい部分だと思います。
| 続柄 | 年齢差 | 分かっていること |
|---|---|---|
| 父 | ― | 銀行員。転勤が非常に多かった |
| 母 | ― | 一般の方で情報は公表されていない |
| 兄 | 1歳上 | 大分県で蕎麦屋を経営 |
| 妹 | 3歳下 | ヨット選手として日本代表経験 |
お母さんについては、名前も職業もまったく表に出ていません。
一般の方なので当然といえば当然ですが、20軒以上の引っ越しを家族と一緒に乗り切ってきた方だと考えると、その負担はお父さん以上だったかもしれませんね。
一方で、兄と妹は経歴がはっきりしていて、しかも2人ともかなり個性的です。
兄は豊後高田市でそば処響を営む
お兄さんは石丸謙二郎さんの1歳上で、名前は誠さんと紹介されています。
現在は大分県で蕎麦屋を営んでいて、店名はそば処 響です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 店名 | そば処 響 |
| 所在地 | 大分県豊後高田市玉津986 |
| 営業時間 | 11:00〜15:00 / 18:00〜21:00 |
| 定休日 | 水曜日 |
| 特徴 | つなぎを使わない十割そば |
つなぎを一切入れず蕎麦粉だけで打つ十割そばが看板で、俳優の西田敏行さんが訪れたことがあるとも紹介されています。
テレビ番組で取り上げられたこともあり、地元では知られたお店のようです。
なお、営業時間や定休日は変更されることがありますので、訪れる際は事前に確認してくださいね。
兄は50歳を過ぎてから蕎麦の道へ
このお兄さん、もともと蕎麦職人だったわけではありません。
学生時代は小学校で学級委員長、中学校では学年一位の成績、高校では生徒会長という、絵に描いたような優等生だったと伝えられています。
卒業後は有名企業に勤めていたそうです。
そこから会社を辞めて、50歳を過ぎてから蕎麦の修行を始めて開店した、という経歴になります。
50代からの職人修行って、想像するとかなりの決断ですよね。
順調に会社勤めを続けてきた人が、まったく違う世界に一から入り直すわけですから。
兄の誠さんは、安定した会社員生活を離れて50代から蕎麦職人になった人物です。
弟が俳優、兄が蕎麦職人。
進む道は違っても、どこか似た匂いのする兄弟だなと感じます。
妹はヨットの艇長で日本一に
妹さんは石丸謙二郎さんの3歳下で、こちらもかなりの経歴の持ち主です。
複数のメディアが、妹さんはヨット選手だったと伝えています。
しかも、女性だけで組んだチームの艇長を務めて日本一になり、日本代表としても活動していたそうです。
艇長というのは、乗り込んだクルーに指示を出しながら船全体を動かす役割です。
風と波を読んで判断を重ね続けるポジションなので、体力だけでなく判断力や統率力が問われます。
そこで日本一というのは、相当なものですよね。
お名前など詳しいプロフィールは、一般の方ということもあって公表されていません。
それでも、兄は蕎麦職人、妹はヨットの艇長、そして本人は俳優兼ナレーターです。
石丸謙二郎さん自身も小型船舶2級免許を持っていてウインドサーフィンを趣味にしていますから、海とのつながりは兄妹で共通しているのかもしれません。
現在の自宅は神奈川県相模原市
実家とあわせてよく検索されているのが、現在の自宅です。
複数の記事が、石丸謙二郎さんの現在の住まいは神奈川県相模原市内にあると伝えています。
ただし、番地や建物といった詳しい情報は公表されていません。
相模原市は都心へのアクセスがありながら、丹沢や道志方面の山にも出やすい立地です。
登山を趣味にしている石丸謙二郎さんにとっては、動きやすい場所なのかもしれませんね。
大分の屋敷を転々とした少年が、いまは神奈川に落ち着いている。
そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。
石丸幹二や見栄晴とは血縁なし
石丸謙二郎さんを調べると、必ずセットで出てくる名前が2つあります。
俳優の石丸幹二さんと、タレントの見栄晴さんです。
まず石丸幹二さんとの関係ですが、これはまったくの他人です。
複数の記事が、兄弟でも親戚でもないとはっきり書いています。
苗字が同じで、どちらも舞台出身の俳優という共通点があるため、混同されやすいのだと思います。
石丸幹二さんは劇団四季の出身で、年齢も石丸謙二郎さんとは大きく離れています。
見栄晴さんについては、顔立ちが似ていると言われることがあるようですが、こちらも血縁関係はありません。
石丸謙二郎さんと石丸幹二さん、見栄晴さんの間に家族としてのつながりはありません。
同姓や顔立ちの印象だけで結びつけられてしまうのは、俳優さんにとってはよくある災難かもしれませんね。
妻や息子は公表されていない
家族の話題として、結婚や子どもについても検索されています。
結論から言うと、石丸謙二郎さんについては結婚の発表が確認できていません。
複数のメディアが、結婚に関する公式な発表が見当たらないこと、そのため公表された妻や息子もいないことを伝えています。
一方で、過去に結婚していて離婚したのではないかと書いている記事もありました。
ただ、そちらは根拠となる報道が示されていないため、噂の域を出ていません。
私生活を積極的に語るタイプの方ではないので、公表されていないというのが実際のところかなと思います。
70代を迎えたいまも登山やナレーションの仕事で精力的に活動していますから、ご本人にとってはそちらが生活の中心なのかもしれません。
世界の車窓からと登山での活動
最後に、石丸謙二郎さんの現在の顔にも触れておきます。
多くの人にとって、石丸謙二郎さんの声といえば世界の車窓からのナレーションですよね。
長年にわたって世界各地の鉄道風景に声を添えてきた仕事で、姿は映らないのに誰の声かすぐ分かるという、ナレーターとして理想的な位置にいる方だと思います。
もう1つの顔が登山です。
公式プロフィールには、全国山の日協議会の山の日アンバサダーという肩書が記載されています。
山に関するラジオ番組でも親しまれていて、趣味の域を超えた活動になっています。
そのほかにも、第6回福岡グッドエイジャー賞の受賞や、鹿児島県与論島の観光大使という肩書も持っています。
公式に挙げられている趣味は、登山、ウインドサーフィン、ピアノ、墨絵、将棋、フリークライミング、洞窟探検、タップダンス、釣り、スキー、スキューバダイビングです。
多趣味という言葉では追いつかない量ですよね。
しかも、37歳までは仕事の都合で趣味を封印していたという記述もありました。
つまりこれだけの趣味を、37歳以降に広げていったことになります。
屋敷を転々とした少年期からサーカスのピエロ、そしていまの多彩な活動まで、石丸謙二郎さんの経歴は一本の線でつながっています。
石丸謙二郎の実家のまとめ
- 出身地は大分県大分市で、この点は各情報源で一致している
- 生年月日は1953年11月1日で、2026年時点で72歳
- 実家の住所や生家の場所は公表されていない
- 別府市生まれという説もあるが裏づけは確認できていない
- 父が銀行員で転勤が多く、子ども時代は大分県内を転々とした
- 引っ越した軒数は22・23・27と情報源で食い違うが、いずれも20軒を超える
- 大分県内の10の市や町に住んだとする記載もある
- 借りて住んだのは武家屋敷・料亭・旅館といった古い大きな建物だった
- 父の勤務先は豊和銀行だとWikipediaに記載されている
- 父は支店長を務めていたとする記載もあるが単独ソース
- 父は名前が正也さんで、シベリア抑留から帰還したとする記載もある
- 父は90歳まで運転を続け、警察の表彰式を機に免許を返納したと伝えられる
- 祖父は関根大サーカスの団長で、本人も20歳頃にピエロとして出演していたとされる
- 家族構成は父・母・1歳上の兄・3歳下の妹を含む5人
- 兄の誠さんは大分県豊後高田市で十割そばの店そば処響を営む
- 妹はヨットの艇長として日本一になり日本代表の経歴を持つ
- 現在の自宅は神奈川県相模原市内とされるが詳細は非公表
- 石丸幹二や見栄晴とは血縁関係がない
- 結婚の公式発表はなく、公表された妻や息子はいない

