「ハナミズキ」や「もらい泣き」を手がけた作曲家・マシコタツロウさんの実家は、茨城県常陸太田市にあります。
気になるのは、その実家が代々公務員という一家だったこと。
音楽とは縁のなさそうな家に、なぜかアップライトピアノが置かれていたというから、面白いんですよね。
・マシコタツロウの実家がある場所と、地元との今のつながり
・実家が代々公務員の家系で、父と母がどんな仕事をしていたか
・実家にあったアップライトピアノと、そこから作曲家になるまでの流れ
マシコタツロウの実家は茨城県常陸太田市
まずは、マシコタツロウさんの実家がどこにあって、どんな家庭だったのかを見ていきます。
本人がインタビューで語っている言葉も残っているので、かなり具体的なところまで追えますよ。
実家は茨城県常陸太田市にある
マシコタツロウさんの実家があるのは、茨城県常陸太田市です。
ウィキペディアをはじめ、所属先のプロフィール、地元のラジオ局であるLuckyFM茨城放送の番組ページまで、出身地の表記はすべて常陸太田市で一致しています。
常陸太田市は茨城県の北部にある市で、奥久慈のふもとに広がる自然の多いエリアです。
県北らしいのんびりした土地で、都心のスタジオで仕事をする作曲家という肩書きとは、ちょっとイメージが結びつきにくいかもしれません。
ただ、マシコタツロウさんは高校まで茨城県内で暮らしていたとされていて、少年時代をまるごとこの土地で過ごしています。
実家の詳しい住所や建物については公開されていません。
ご家族が一般の方なので、そこは伏せられたままです。
とはいえ、出身地そのものは本人がずっと公言してきた情報で、隠されているどころか看板になっているという点は押さえておきたいところです。
常陸太田市とのつながりは今も続いている
マシコタツロウさんは、常陸太田大使に任命されています。
さらに茨城町ふるさと大使、いばらき大使という肩書きも持っていて、県内での顔の広さは相当なものです。
地元の学校とのかかわりも深く、常陸太田市立峰山小学校や機初小学校などに校歌を提供しています。
自分が育った町の子どもたちが、自分の書いたメロディーで毎日歌っている。
……なんか、いいですよね。
代々公務員の家系に生まれた長男
実家の話でいちばん大きいのが、この家系のことです。
マシコタツロウさんは2015年のインタビューで、実家は代々公務員の家系で、長男だったこともあり、音楽は趣味でしかできないと考えていたと語っています。
これ、本人の口から出た言葉なので、実家の空気を知るうえではいちばん確かな情報です。
代々というのがどこまで遡るのかについては、曽祖父の代から公務員だったと紹介している記事もあります。
こちらは出どころが1サイトだけなので、確定した話としては扱えません。
ただ、本人が代々と言っている以上、少なくとも祖父母の世代までは同じ道筋だったと考えるのが自然でしょう。
そして見逃せないのが、マシコタツロウさんが長男だという点です。
安定した職業を継いでいく家の、いちばん上の子ども。
その立場で音楽をやりたいと言い出すのが、どれだけ勇気の要ることだったか。
実家は音楽を否定する家だったのではなく、音楽を職業として選ぶ発想がそもそも家の中になかった、というのが実態に近いのだと思います。
父は市職員でジャズを大音量で聴いていた
父親については、市職員だったと紹介されています。
ただしこの職業情報は1サイトにしか見当たらず、名前も顔写真も公開されていません。
一般の方なので、そこは当然といえば当然ですね。
いっぽうで、複数の記事と本人インタビューの両方に共通して出てくる父親像があります。
それが、ジャズ好きだということ。
マシコタツロウさんは、父親が結構大きい音量でジャズを聴いたりしていた、と振り返っています。
家の中に、常にジャズが鳴っている。
幼い子どもにとって、これはかなり特殊な環境です。
ジャズはピアノもベースもドラムもホーンも、それぞれが好き勝手に動きながら1つの曲になっていく音楽です。
それを日常のBGMとして浴びて育ったことが、複数の楽器が絡み合う感覚を体に入れる下地になったと紹介されています。
公務員の家庭でありながら、音の面ではかなり自由な家だったということになりますね。
母は保育士でピアノ教室を勧めた
母親については、保育士だったとされています。
こちらも出どころは1サイトのみで、名前や顔写真は公表されていません。
ただ、母親が果たした役割ははっきりしています。
マシコタツロウさんがピアノ教室に通い始めたのは、母親の勧めがあったからです。
これは本人がインタビューで語っている内容なので、確度の高い話です。
保育士という仕事は、日常的にピアノを弾く職業でもあります。
子どもに音楽を習わせるという発想が自然に出てくる家だったのだろうな、と想像できますよね。
ところが、ここからが面白いところ。
マシコタツロウさんはピアノ教室に通ったものの、どうもクラシックが合わなくて、と本人が振り返っています。
楽譜どおりに正確に弾く、という世界がしっくりこなかったわけです。
すると教室の先生は、クラシックを続けさせるのではなく、コードを教える方向に切り替えてくれました。
小学6年生のころには、先生の勧めで作曲を始めたとも紹介されています。
母親が入口を作り、先生が進路を曲げてくれたことが、作曲家としての出発点になったわけです。
実家に置かれていたアップライトピアノ
実家について本人が語っているエピソードで、いちばん象徴的なのがこれです。
マシコタツロウさんは、自宅にアップライトピアノがあって、それをオモチャ感覚で使っていたと話しています。
習い事として与えられた楽器ではなく、そこにある遊び道具だった、という感覚です。
この違いは、実はかなり大きいのではないでしょうか。
ピアノを練習するものとして置かれた子どもは、練習が嫌になった時点で楽器から離れます。
でも触って遊ぶものとして置かれていたら、鍵盤を適当に押して音を探す時間そのものが楽しみになります。
クラシックが合わなかったのに音楽から離れなかった理由は、たぶんここにあります。
その後の展開も具体的に伝えられています。
| 年齢 | できごと |
|---|---|
| 5歳ごろ | 母親の勧めでピアノ教室に通い始める |
| 11歳ごろ | シンセサイザーを与えられ作曲を始める |
| 12歳ごろ | お年玉でカセットMTRを購入し多重録音にはまる |
| 13歳ごろ | ギターを始める |
この年齢まわりの細かい数字は、まとめ記事側の情報で本人の発言までは確認できていません。
ただ、小学生のうちにシンセサイザーと多重録音にたどり着いていたという流れ自体は、複数の記事で共通しています。
実家のピアノからシンセ、そして宅録へと進み、作曲家としての基礎は家の中でほとんど出来上がっていたと言えそうです。
弟がいる4人家族で育った
マシコタツロウさんには、弟が1人いるとされています。
弟さんも一般の方で、名前や職業といった情報は出てきません。
幼いころは弟と鬼ごっこをして遊ぶような、仲のいい兄弟だったと紹介されています。
この情報は1サイトにしか見当たらないので、参考程度に受け取っておくのがよさそうです。
それでも、父・母・弟・本人という4人家族だったという構図は、ここまでの話とよく噛み合います。
代々公務員の家に生まれた長男で、下に弟がいる。
家を継ぐ役割が自分に向いていると感じやすい並び順ですよね。
両親は現在も茨城県内に住んでいるとされています。
マシコタツロウさんが今も茨城でライブやラジオを続けていることを考えると、実家との距離は物理的にも心理的にも近いまま保たれているように見えます。
公務員試験に落ちて実家を出るまで
実家の話は、ここで一度大きく動きます。
マシコタツロウさんは高校卒業後、二松學舍大学の文学部に進学しました。
音楽系の学校に行きたかったものの、父親の反対で公務員を目指せる学科を選んだ、という説明をしている記事もあります。
こちらは1サイトのみの情報なので断定はできませんが、代々公務員の家という背景とはきれいに整合します。
ところが大学時代、マシコタツロウさんは作曲とバンド活動にのめり込みます。
結果どうなったかというと、公務員試験に不合格。
本人も公務員試験に不合格になってしまいました、とはっきり語っています。
家が用意していた道から、いきなり外れてしまったわけです。
それでもすぐに音楽一本へ舵を切れたわけではありませんでした。
本人は卒業後もなかなか作曲家一本で食べていくことを決断できず、と振り返っています。
実家が代々公務員という重さを思えば、迷って当然だと思うんですよね。
ロック・イン・ジャパンの音漏れが決め手になった
転機になった場面が、これまた茨城らしい話です。
アルバイト先に、ROCK IN JAPAN FESTIVALの音漏れが聴こえてきた。
その瞬間に絶対に音楽をやりたいと決意した、と本人が語っています。
ROCK IN JAPAN FESTIVALは茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園で開かれてきた大型フェスです。
地元で鳴っている音に背中を押された、という筋書きになります。
そこから両親を説得し、25歳までにはなんとかするからと伝えて上京しました。
期限を切って親に約束するという形は、実家に対する誠実さの表れにも見えます。
そして2002年、一青窈さんのデビューシングル「もらい泣き」で作曲家デビューを果たします。
1978年3月1日生まれなので、デビューは自分で親に切った25歳という期限のうちに間に合った計算になります。
これは、しびれる話じゃないですか。
マシコタツロウの実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家と合わせて検索されることの多い項目をまとめていきます。
本名や学歴、今の暮らしまわりの話です。
本名は増子達郎
マシコタツロウさんの本名は、増子 達郎さんです。
カタカナ表記の芸名は、本名をそのまま開いた形だったわけですね。
増子という姓は、東北から北関東にかけて見られる名字です。
実家が茨城県常陸太田市にあることを考えると、姓の分布とも自然に重なります。
芸名は完全な創作ではなく、実家の名字をそのまま持ち歩いているということになります。
出身高校は茨城県立日立北高校
マシコタツロウさんが通ったのは、茨城県立日立北高等学校です。
常陸太田市の実家から通える範囲にある、県北の高校です。
偏差値は59程度と紹介されていて、学力的にはしっかりしたポジションにあります。
高校時代は軽音部に所属し、バンドではエレキギターを担当していたとされています。
さらに、年に10曲以上を作曲していたという情報もあります。
この本数まわりの話は1サイトの情報なので参考値ですが、ピアノとシンセに続いてギターとバンドが加わった時期であることは間違いなさそうです。
実家で身につけた作曲の習慣が、高校でバンドという出口を得た形ですね。
大学は二松學舍大学文学部
大学は、二松學舍大学文学部です。
記事によっては二松学舍大学と新字体で書かれていますが、指している学校は同じです。
大学時代は、島村楽器主催のオーディションで全国大会に出場したとも紹介されています。
つまり在学中の時点で、すでにアマチュアの中では抜けた位置にいたわけです。
そして22歳のとき、11社にデモテープを送り、2社から返事をもらったという話も伝わっています。
この数字も出どころが1サイトなので確定情報とは言えませんが、公務員試験に落ちたあとに自分で動いていたことは確かなようです。
実家が期待した進路から外れた時間が、そのまま作曲家としての助走期間になっていたと読めます。
現在の自宅と家族は非公開
今のマシコタツロウさんは結婚していて、妻と娘がいる3人家族だと紹介されています。
ただし妻についても娘についても、名前・年齢・顔写真はいっさい公表されていません。
職業も分かっていないので、一般の方だと考えられます。
自宅の場所も非公開です。
多くのアーティストに楽曲を提供していることから東京都内ではないかと書いているサイトもありますが、これはあくまでそのサイト側の推測です。
本人が公表しているわけではないので、住まいについては非公開と受け止めておくのが正確です。
実家の家族についても同じで、父も母も弟も名前は出ていません。
出身地と家庭環境はよく語る一方で、家族個人の情報はきっちり守っているのが、マシコタツロウさんのスタンスです。
地元茨城との今のつながり
実家を離れて何年も経った今も、マシコタツロウさんと茨城の関係は続いています。
むしろ年々濃くなっている印象すらあります。
本人は対談で、僕は茨城の出身で地元が大好きなんですけど、と話しています。
そしてコロナ禍に制作したアルバムを、どうしても茨城で発表したいと考えました。
実際に行ったのが、58ステージにおよぶ茨城網羅ツアーです。
県内をひたすら回るという、なかなか例のない規模のツアーですよね。
ラジオでも茨城放送でパーソナリティを務めていて、全編を茨城弁で通す3時間の生放送を担当していた時期もあります。
特番「青なじみスペシャル」は、2016年の日本民間放送連盟賞で優秀賞を受賞しました。
そのほか、東京2020の聖火ランナーも務めています。
実家のある県を仕事の中心のひとつに据えている作曲家、というのがマシコタツロウさんの現在地です。
マシコタツロウの実家のまとめ
- 実家があるのは茨城県常陸太田市
- 実家の詳しい住所や建物は公開されていない
- 本人が実家は代々公務員の家系だと語っている
- 曽祖父の代から公務員という説もあるが出どころは1サイトのみ
- 父親は市職員とされるが名前も顔も非公開
- 父親は大きな音量でジャズを聴く人だった
- 母親は保育士とされ、ピアノ教室を勧めたのは母
- 実家にはアップライトピアノがあり、オモチャ感覚で触っていた
- クラシックが合わず、教室の先生がコードを教える方向に切り替えた
- 弟が1人いるとされ、幼いころは鬼ごっこをする仲だった
- 両親は現在も茨城県内に住んでいるとされる
- 大学時代に音楽へのめり込み公務員試験に不合格
- ROCK IN JAPAN FESTIVALの音漏れを聴いて上京を決意
- 25歳までにはなんとかすると両親を説得して上京
- 今も常陸太田大使や校歌提供などで地元とつながり続けている

