映画『ぼくのお日さま』でカンヌ国際映画祭に選ばれた奥山大史さん。
兄が写真家の奥山由之さんだと知られるようになってから、「では父親は誰なんだろう」と気になっている方も多いのではないでしょうか。
実はある大手誌が、父親についてたった一行だけ書き残しているんです。
・奥山大史の父親の職業について大手誌が伝えている内容
・松竹の一族が父親だという説がどこから出てきたのか
・ゲームも漫画も禁止だった家庭で育った幼少期のエピソード
奥山大史の父親は映像業界の人物だった
奥山大史さんの父親について、名前や顔写真は表に出ていません。
ただ、職業についてはひとつだけ確かな手がかりがあります。ここから順番に見ていきましょう。
父親は映像業界で働く人と大手誌が伝えている
奥山大史さんの父親について、いちばん信頼できる記述を残しているのは、朝日新聞出版の雑誌『AERA』です。
2019年10月3日に公開された連載「現代の肖像」で、兄である写真家・奥山由之さんが取り上げられました。
その記事の中に、家族についてこう書かれています。
「映像業界で働く父と専業主婦の母のもと、3歳上の姉、奥山、妹、弟の4人きょうだいで育った」
ここに出てくる「弟」が奥山大史さんです。
つまり、奥山大史さんの父親は映像業界で働く人物である、というのが大手メディアが伝えている唯一の事実になります。
個人ブログやSNSではもっと踏み込んだ情報が飛び交っているのですが、大手誌がきちんと裏を取って書いているのは、この一行だけなんですよ。
逆に言えば、この一行はかなり重い情報です。
兄も弟も映像の世界で名前を残しているわけですから、育った家に映像の仕事が当たり前にあったことになりますよね。
父親の年齢や勤務先までは分かっていない
「映像業界で働く」という表現は、かなり広い言い方です。
制作会社なのか、テレビ局なのか、それとも映画の配給や宣伝なのか、記事はそこまで踏み込んでいません。
年齢も、顔写真も、出身地も出ていません。
下の表に、現在確認できている情報とできていない情報を整理してみました。
| 項目 | 公表の有無 | 内容 |
|---|---|---|
| 職業 | あり | 映像業界で働く(AERA「現代の肖像」) |
| 氏名 | なし | 大手媒体では触れられていない |
| 年齢 | なし | 記載を確認できず |
| 顔写真 | なし | 公開されていない |
| 勤務先 | なし | 会社名は出ていない |
空欄が多いのは、それだけ本人も家族も家庭の話を表に出していないということでもあります。
父親の名前や顔写真は公表されていない
奥山大史さんは2019年のデビュー以来、映画専門誌からファッション誌まで数多くの取材を受けてきました。
『VOGUE JAPAN』『GOETHE』『PINTSCOPE』といった媒体のインタビューにも登場しています。
ところが、そのどれを読んでも父親の名前は出てきません。
Wikipediaの「奥山大史」のページも同じで、家族の欄に書かれているのは「写真家・映画監督の奥山由之は兄」の一行だけです。
兄である奥山由之さんのWikipediaページにも、妻と弟の記載はあるのに父親の記載はありません。
ここ、けっこう不思議に感じませんか。
兄弟そろって名前が知られている家なのに、父親の情報だけがきれいに抜け落ちているんです。
現時点で、奥山大史さんの父親の氏名は非公表と考えるのが正確です。
ネット上にはっきりした名前が書かれている記事もあるのですが、それについては次で詳しく見ていきます。
松竹の奥山和由が父という説の出どころ
「奥山大史 父親」で検索すると、必ず目に入るのが松竹にまつわる話です。
個人ブログやSNSの投稿では、父親は映画プロデューサーの奥山和由さんで、祖父は松竹の元社長・奥山融さんだ、という説明を見かけます。
この説が広まった背景には、いくつか分かりやすい理由があります。
ひとつは苗字です。「奥山」という姓と映画という組み合わせは、日本映画の歴史のなかでどうしても松竹の奥山家を連想させます。
もうひとつは、兄弟そろって映像の世界にいるという事実です。父親が映像業界で働いているとなれば、二世どころか三世ではないかという発想につながりやすいですよね。
ただし、ここで正直にお伝えしておかなければいけないことがあります。
この説を断定的に書いているのは個人ブログやSNSの投稿であって、大手メディアや公式発表で確認できたものではありません。
根拠として挙げられているのも、多くの場合はSNSの投稿の引用です。
奥山和由と奥山融はどんな人物か
話に出てくる二人が実在の映画人であることは事実なので、そこは整理しておきますね。
| 人物 | 生年 | 主な経歴 |
|---|---|---|
| 奥山融 | 1924年 | 1951年に松竹入社。1991年から1998年まで松竹社長。2009年死去 |
| 奥山和由 | 1954年 | 1979年に松竹入社。1990年に常務。1998年にチームオクヤマ代表取締役 |
奥山和由さんは、北野武さんの初監督作『その男、凶暴につき』のプロデューサーとしても知られる人物です。
1990年代の邦画を語るうえで外せない名前ですから、その名前が出れば話が大きくなるのも無理はありません。
一族の家系図に名前は載っていない
ここが今回いちばん重要なポイントかもしれません。
日本の閨閥や家系を専門にまとめている資料サイトに、松竹の奥山家の家系図が掲載されています。
奥山融さんから奥山和由さんへ、そしてその子どもへとつながる系図です。
ところが、そこに奥山和由さんの子として記載されているのは長女ひとりだけで、奥山由之さん・奥山大史さんの名前はありません。
これ、知ったとき正直びっくりしました。
ネットではあれだけ当然のように語られているのに、家系をまとめた資料のほうには載っていないわけです。
もちろん、家系図に載っていないことがそのまま「無関係の証明」になるわけではありません。
資料の作成時期や情報の集め方によって、載らない人が出てくることは十分ありえます。
ただ、少なくとも次のことは言えると思います。
松竹の一族説は、公的な資料でも大手報道でも裏づけが取れていない状態です。
大手誌が「映像業界で働く父」という広い書き方にとどめているのも、そのあたりの事情と無関係ではないのかもしれません。
この記事でも、父親の氏名については断定を避けておきます。
最も古い映画の記憶に父親が座っていた
名前も顔も分からない父親ですが、本人の言葉のなかに一度だけ、はっきり登場する場面があります。
『VOGUE JAPAN』が2024年8月に掲載したインタビューの冒頭です。
いちばん古い映画の記憶を訊かれた奥山大史さんは、こんな場面を答えています。
暗闇のなかで大きく映し出されるアニメーション映像を、ひとりで観ている。
終わり間際になって、仕事の電話でしばらく離席していた父親が、すっと隣の席に座る。
……なんかいいですよね、この記憶。
父親がどんな人かを一言も説明していないのに、その人の輪郭がふっと浮かび上がってきます。
上映中に仕事の電話で席を立つということは、それだけ忙しい仕事をしていたのでしょう。
それでも子どもを映画館に連れてきていて、終わり際には戻ってきて隣に座る。
映像業界で働く父という一行が、この場面でようやく体温を持った情報になります。
ちなみに奥山大史さんは、同じインタビューで子どもの頃の記憶が比較的鮮明だと語っています。
建前で動く大人を見て子どもながらに何を思ったか、そういう細かいところまで覚えているのだそうです。
デビュー作『僕はイエス様が嫌い』は、まさにその子どものときに抱いた感情を紡いで作った映画だったと本人が説明しています。
ゲームも漫画も禁止だった家庭の方針
奥山家がどんな家だったのかを、本人の言葉で知ることができる貴重な証言があります。
先ほどのAERAの記事で、兄について語る形で奥山大史さんのコメントが載っているんです。
「別段、家にDVDがたくさんあったとかではないですね」と前置きしたうえで、こう続けています。
「うちはゲームが一切禁止だったんです。テレビゲームもボードゲームもなし。漫画も禁止」
そして「だからそのぶん、自分たちなりにほかの楽しみを探したのかもしれません」と締めています。
ここ、かなり大事だと思うんですよ。
映像業界で働く父親の家というと、家じゅうに映画のDVDが並んでいて、小さいころから名作を浴びるように観せられた……そんな絵を想像しませんでしたか。
本人はそれをはっきり否定しています。
与えられたのは映画の英才教育ではなく、むしろ遊びの選択肢をあえて減らすという方針でした。
テレビゲームもボードゲームも漫画もない家で、子どもたちは自分で楽しみを見つけるしかなかったわけです。
実際、兄の奥山由之さんは中学時代に粘土のキャラクターを一コマずつ動かして撮るクレイアニメーションに没頭したと語っています。
与えられなかったからこそ、自分の手でつくる側に回った。そう考えると、この家庭の方針はかなり効いていたのかもしれません。
母は専業主婦で4人きょうだいで育った
父親のことを知るうえで、家族全体の形も押さえておきましょう。
AERAの記事によれば、奥山家は父・母・子ども4人の6人家族です。
母親は専業主婦だと明記されています。
きょうだいの並びは次のとおりです。
| 続柄 | 生年 | 備考 |
|---|---|---|
| 姉 | 1988年ごろ(由之の3歳上) | フィギュアスケートの競技選手を目指していた |
| 兄・奥山由之 | 1991年1月23日 | 写真家・映像作家 |
| 妹 | 非公表 | 詳細は公表されていない |
| 本人・奥山大史 | 1996年2月27日 | 映画監督・脚本家 |
奥山大史さんは4人きょうだいの末っ子にあたります。
兄の奥山由之さんは1991年に東京・世田谷で生まれていますので、大史さんも東京で育ったことになります。
本人も別のインタビューで「東京で生まれ育ったので、珍しく雪が積もった時に大喜びしている写真が残っています」と話していました。
なお、姉と妹については一般の方ですので、この記事では公表されている範囲にとどめておきます。
ただ、姉の存在は奥山大史さんの作品に直接つながっているので、そこだけは触れておきたいところです。
姉の習い事が『ぼくのお日さま』につながった
奥山大史さんは小学生のころ、7年ほどフィギュアスケートを習っていました。
きっかけは自分の意思ではなく、姉です。
本人はこう説明しています。「小学生のときに、姉がフィギュアスケートの競技選手を目指していたので、一緒にスケートリンクに通って7年ほど習っていました」
選手を目指していたわけではなく、「すごく平和な、のほほんとした日々だった」とも振り返っています。
そして、その7年間がのちに商業デビュー作『ぼくのお日さま』の題材になりました。
姉についていっただけの習い事が、カンヌ国際映画祭に出品される映画の出発点になったわけです。
家族との時間が、そのまま作品になっている。なんだかじんわりしますよね。
映画の道へ進んだきっかけは父なのか
父親が映像業界の人なら、息子が映画監督になったのも当然の流れ……と思いたくなります。
でも、本人が語っている経緯を追うと、そう単純な話でもないんです。
奥山大史さんが映画にのめり込んだのは高校時代です。
部活をやめて時間ができ、学校帰りにレンタルビデオショップへ通うようになりました。
そこで橋口亮輔監督の『ぐるりのこと。』の予告映像に出会い、「心にものすごく痛みを感じた」と語っています。
父親に勧められたとも、家に作品があったとも言っていません。自分でレンタル店の棚から見つけているんですよね。
その後は青山学院大学へ進み、在学中に「岩井俊二のMOVIEラボ」に聴講生として出演。制作した短編が岩井俊二さん・堤幸彦さん・是枝裕和さんから高く評価され、映画美学校へ進みました。
卒業制作として撮った『僕はイエス様が嫌い』が、記念応募のつもりで出した映画祭で最優秀新人監督賞を受賞します。
父親のコネクションで映画界に入ったという経緯は、本人の証言のどこにも出てきません。
もちろん、映像の仕事が身近にある家で育ったことが影響していないとは言い切れないでしょう。
ただ、家にDVDが並んでいたわけでもなく、ゲームも漫画も禁止だった家で、自分で見つけた一本の予告編から始まっている。
そう考えると、父親から受け継いだのは作品や人脈ではなく、映像を仕事にするという生き方そのものだったのかもしれません。
影響を受けたのは赤い風船と橋口亮輔監督
本人が最大の影響源として挙げているのは、アルベール・ラモリス監督の『赤い風船』(1956年)です。
セリフなしで映像だけで感情を伝えるという表現方法を、この作品から学んだと語っています。
子どもの出演者には台本を渡さず、その場で初めて体験してもらうという演出も、この考え方の延長線上にあるのでしょう。
好きな言葉はフランス語の「ミザンセーヌ」だそうです。
カメラに映るすべてのものを意味する言葉で、フィルターもレンズも空の色も含めて全部が演出だと捉えていると話していました。
奥山大史の父親を調べる人向けの関連情報
父親の話とあわせてよく検索されているのが、兄のことや大学、そして仕事のことです。
ここからは奥山大史さん本人について、気になるポイントをまとめて見ていきましょう。
兄は写真家・映像作家の奥山由之
奥山大史さんの兄は、写真家・映像作家の奥山由之さんです。
1991年1月23日生まれで、大史さんの5歳上にあたります。
慶應義塾大学法学部政治学科の出身で、2011年から活動しています。
16歳のときに全国の高校生の映画コンクールでグランプリを受賞し、その賞金とバイト代を撮影費にあてて自主映画を撮り続けたという経歴の持ち主です。
兄は写真、弟は映画。分野は違いますが、どちらもカメラで表現する仕事です。
なお、奥山由之さんの妻はフードエッセイストの平野紗季子さんです。
兄弟そろって名前が知られているため、「奥山大史 妻」で検索する方もいるようですが、大史さん自身の結婚については公表されている情報がありません。
兄弟でトークイベントに登壇している
兄弟は公の場で一緒に登壇したこともあります。
2024年9月には映画『ぼくのお日さま』の上映後に、監督である大史さんと兄の由之さんが登場するトークイベントが開かれました。
同年12月14日には立場が逆になり、由之さんが監督した映画『アット・ザ・ベンチ』の上映後に、実弟である大史さんがゲストとして登壇しています。
幼いころから互いをよく知る間柄だけあって、トークは終始リラックスした空気だったと伝えられています。
印象的なのは、二人が仕事でも関わっているという点です。
過去に一緒に企業広告を制作したことがあり、その撮影のときに由之さんが女性の顔の撮り方について助言したそうです。
正面から撮るよりも後ろや横からのほうが美しくリアリティが出る、というその指摘は、今の大史さんの作品づくりにも生きていると本人が明かしています。
大史さんは兄に企画を相談したり脚本を読んでもらったりもしてきたそうで、企画が立ち上がっては消えていく過程も間近で見てきたと語っていました。
兄弟というより、同じ道を先に歩いている先輩でもあるという関係なのでしょうね。
大学は青山学院大学総合文化政策学部
奥山大史さんの学歴は、青山学院大学総合文化政策学部の卒業です。
あわせて映画美学校も修了しています。
兄の由之さんが慶應義塾大学の法学部ですので、兄弟そろって映像系の学部ではないというのが面白いところです。
岩井俊二のMOVIEラボから映画美学校へ
大学在学中、奥山大史さんは「岩井俊二のMOVIEラボ」に聴講生として出演しました。
そこで制作した短編作品が、岩井俊二さん・堤幸彦さん・是枝裕和さんという第一線の監督たちから高い評価を受けます。
この評価を受けて映画美学校へ進み、卒業制作として撮ったのが『僕はイエス様が嫌い』でした。
大学の卒業制作が国際映画祭の最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞するという、なかなか想像しづらい展開です。
広告会社に勤めながら映画を撮っている
「奥山大史 博報堂」というキーワードで検索されることがあるように、勤務先を気にしている方も多いようです。
本人の経歴として確認できているのは、大学卒業後に広告会社へ就職しているという点です。
映画をつくれる会社という視点で就職活動をした結果だと伝えられています。
具体的な社名については、はっきりした発表を確認できませんでした。ネット上には複数の会社名が挙がっていますが、いずれも裏づけがないため、ここでは断定しないでおきます。
肩書としては映画監督のほかに、CMプランナー・脚本家としても活動しています。
実際、森七菜さんの「スマイル」、Foorinの「パプリカ」、乃木坂46の「僕は僕を好きになる」といったミュージックビデオも手がけてきました。
会社員として広告の現場に立ちながら映画を撮り続けてきたというのが、この監督のキャリアの特徴です。
代表作はぼくのお日さまと僕はイエス様が嫌い
最後に、これまでの主な仕事を整理しておきます。
| 年 | 作品・出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 2019年 | 『僕はイエス様が嫌い』 | 大学の卒業制作。第66回サン・セバスティアン国際映画祭で最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞 |
| 2023年 | Netflix『舞妓さんちのまかないさん』 | 是枝裕和・津野愛・佐藤快磨とともに監督を担当 |
| 2024年 | 『ぼくのお日さま』 | 商業映画デビュー作。第77回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に正式出品 |
『ぼくのお日さま』は、雪深い田舎町を舞台に、フィギュアスケートでつながる少年と少女、そしてかつて選手だったコーチのひと冬を描いた作品です。
氷上のシーンは、奥山大史さん自身がスケート靴を履いてカメラを回しています。
7年間リンクに通った経験がそのまま撮影技術になっているわけですね。
受賞から次回作まで4年かかったことについて、本人は「2作目ってすごく大事」という映画祭関係者の言葉が心に残っていたと語っています。
焦って撮らず、オリジナル脚本で勝負すると決めるまでの4年間だったのでしょう。
奥山大史の父親のまとめ
- 奥山大史の父親は映像業界で働く人物だとAERAが伝えている
- 父親の氏名・年齢・顔写真・勤務先はいずれも公表されていない
- Wikipediaの家族欄には兄の記載しかなく父親の記載はない
- 松竹の奥山和由が父親だという説は個人ブログやSNS発の情報
- その説を大手メディアや公式発表で確認することはできない
- 閨閥資料の奥山家家系図に奥山由之・奥山大史の名前は載っていない
- 最も古い映画の記憶として仕事の電話で席を外していた父親が隣に座る場面を語っている
- 母親は専業主婦だとAERAに記載がある
- きょうだいは姉・兄の奥山由之・妹・本人の4人
- 家庭ではテレビゲームもボードゲームも漫画も禁止だった
- 家にDVDが並んでいたわけではないと本人が否定している
- フィギュアスケートを始めたきっかけは競技選手を目指していた姉
- 映画にのめり込んだきっかけは高校時代に見た橋口亮輔監督作品の予告映像
- 父親の人脈で映画界に入ったという経緯は本人の証言に出てこない
- 大学卒業後は広告会社に就職し会社員と映画監督を両立してきた

