料理研究家として40年以上おもてなし教室を続けてきた野村紘子さん。
娘は料理人の野村友里さん、息子はマルチクリエイターの野村訓市さんという一家なので、その実家がどんな家なのか気になりますよね。
実は紘子さんのボルシチは、お母さまが大連で暮らしていた頃にロシア人の友人から教わった味だというから、なかなかドラマチックなんです。
・野村紘子さんの実家(育った家)の様子と、料理上手の母・茶道の祖母のこと
・野村紘子さんの実家が野村財閥という噂の中身
・結婚後の西荻の家と、娘・友里さんが受け継いだ3階建ての家のこと
野村紘子の実家は人の出入りが絶えない家だった
野村紘子さんの実家は、料理上手の母がいて来客が絶えない、にぎやかな家だったようです。
母・父・祖母それぞれの姿から、紘子さんのおもてなしの原点を見ていきましょう。
実家の母は来客を手料理でもてなす料理上手
紘子さんが育った実家でまず語られるのが、お母さまの存在です。
紘子さん自身、母のことを「料理上手で、来客があるといつも手作りのものを気持ちよくお出しする人でした」と振り返っています。
雑誌『クロワッサン』の取材でも、料理好きの母親のもと、人の出入りが絶えない家で育ったと紹介されていました。
不意のお客さんが来ても、その場にあるもので即興でおいしいものを作って出す。
そんな母の姿を毎日見ていたことで、紘子さんは自然と料理が好きになっていったそうです。
「常にお客様が訪れる家で暮らしながら、食事がおいしいと人がこんなに集まるんだ、と思ったものです」という紘子さんの言葉は、まさに今の料理教室につながる原体験ですよね。
母から教わった「見えないところのひと手間」
紘子さんが母から受け継いだことのひとつが、肉を調理する前に丁寧に脂を取り除くといった「見えないところにひと手間をかける」姿勢です。
また、紘子さんのお母さまは戦後の材料がない時代にも、いろいろ工夫をして豊かな食卓を作っていたといいます。
レシピ通りの材料がなくても「あるもので工夫する」という紘子さんの考え方は、この母から来ているんですね。
つまり紘子さんの料理とおもてなしの土台は、実家の母の台所で作られたものだといえます。
実家の父も人好きで友人を頻繁に招いていた
にぎやかだったのは、お母さまの料理だけが理由ではなさそうです。
紘子さんによると、父もまた人が好きで、頻繁に友人を家に招いていたとのこと。
父が客を連れてきて、母が手料理でもてなす。
紘子さんは「人の出入りの多い、楽しい家庭で育ちました」と話していて、両親そろって来客を楽しむ家だったことがうかがえます。
……なんか、いいですよね、こういう家。
お父さまの職業や名前などは公表されていませんが、人を招くことが日常になっている家庭だったのは確かなようです。
父の人好きと母の料理がそろっていたことが、紘子さんの実家を「人が集まる家」にしていたのでしょう。
祖母は茶道の先生で季節のしつらいを学んだ
紘子さんの実家を語るうえで欠かせないのが、茶道を教えていたおばあさまです。
紘子さんは、茶道を教えていた祖母から、季節に合わせたしつらいや器の使い方などを自然と学んだと話しています。
娘の友里さんも「曽祖母がお茶の先生だった」と語っていて、母娘の話がきちんと一致しているんですよね。
紘子さん自身も茶道や華道を通して日本文化を学んできた人で、料理教室の前には玄関に水を撒く「水打ち」をし、お香を焚いて季節の花を生けていたそうです。
友里さんは、洋風のメニューが多い家だったのに、母の習慣の多くが茶道の心得から来ていたことに、大人になって茶道を学んでから気づいたと話しています。
これ、なんだかじんわりしませんか。
料理上手の母と茶道の先生だった祖母、この2人から受け継いだものが紘子さんのおもてなしの形になっているわけです。
母が大連で教わったボルシチは4代で受け継ぐ味
紘子さんの実家の味として印象的なのが、ボルシチです。
紘子さんによると、このボルシチは母が大連に暮らしていた時に、ロシア人の友人ガンシンさんに教わった料理なのだそう。
ガンシンさんにはとてもよくしてもらったそうで、紘子さんは「もしかしたら、この記事をガンシンさんの子孫の方が目にするかもしれません」とまで話していました。
正直、これを読んだときはちょっと胸が熱くなりました。
雑誌『婦人画報』でも、ボルシチは祖母から娘まで4代で受け継ぐ料理として紹介されています。
紘子さんの母から紘子さん、友里さん、そしてその下の世代へと、ひとつの鍋が国も時代も越えてつながっているんですね。
ちなみに紘子さんの母が大連にいた時期や理由については、詳しくは語られていません。
大連で生まれた縁が、紘子さんの実家の定番料理として今も受け継がれているのです。
実家が野村財閥という説は確認されていない
「野村紘子 実家」と一緒によく調べられているのが、野村財閥との関係です。
野村財閥は、二代目・野村徳七さんが設立した金融中心の旧財閥で、野村證券などのルーツとして知られています。
ただ、紘子さんや家族が野村財閥とのつながりを語ったことはなく、関係を示す記録も見当たりません。
ここからは私の考えですが、噂が広がった理由は大きく2つあると思います。
ひとつは、名字が同じ「野村」であること。
もうひとつは、家族そろって食や文化の世界で活躍していて、息子の訓市さんが幼稚園から高校まで学習院に通っていたことなど、いわゆる「いい家柄」をイメージさせる材料がそろっていることです。
さらに言うと、子どもたちの名字が野村なので、野村は結婚後の名字である可能性が高いと考えられます。
そうだとすると、仮に財閥との縁があったとしても、それは紘子さんの実家ではなく嫁ぎ先の話ということになりますよね。
現時点では、紘子さんの実家が野村財閥だという話は名字から連想された噂の域を出ていないといえます。
結婚後に築いた西荻の家も来客の絶えない家に
紘子さんは結婚後、実家の母と同じように、誰がいつ来ても心をこめて料理やお菓子をふるまう家を作りました。
友里さんが育ったのは、東京・西荻の庭のある家です。
雑誌『POPEYE』の取材では、西荻の家には紘子さんのごはんを目当てに多くの人が訪れていたと紹介されています。
友里さんいわく、友里さんや弟、父の友達がしょっちゅう家に来ていて、「家庭内サロン」のような雰囲気だったそうです。
友里さんは当時の食卓を「まるで狂想曲、即興曲みたいな感じ」と表現していて、気づけば5人、6人と来客が増え、第二、第三ラウンドと続いていったとか。
お客さんが「お腹いっぱいです」と言っても次々と料理を出すので、みんながベルトを緩めることもあったというから笑ってしまいます。
夏は家族で「山の家」へ
野村家には、夏に家族で集まって過ごす「山の家」もあるそうです。
そこでの朝食の定番が、じゃがいもとコンビーフ炒め。
今でも紘子さんの孫たちが大好きなメニューなんだとか。
紘子さんが育った実家の空気は、そのまま結婚後の野村家にも引き継がれていったのです。
両親が建てた3階建ての家は友里が受け継いだ
子どもたちが独立したあと、紘子さん夫婦は「暮らしをコンパクトにしたい」と、都内に新しい家を建てて移りました。
庭はなくていいけれど、料理教室を開くサロンと住まいがほしいという考えで建てたのが、地階がサロン、1階と2階が住居の3階建てです。
ただ、年々階段の上り下りが負担になり、防犯面も気になるようになったため、夫婦は近所のマンションへ引っ越すことに。
マンション暮らしの経験がなく、土から離れることに抵抗があったそうですが、試しに仮住まいをしてみたら「あまりにも快適で」決めたそうです。
この家は、家族の希望もあって友里さんが引き継ぎ、2024年ごろから暮らしています。
友里さんは和紙や左官の塗り壁、リサイクルタイルなど自然素材でリノベーションしました。
そして紘子さんは引っ越し後も、変わらずこの家のサロンで料理教室を続けているそうです。
親子が近くに住んで行き来しながら、同じサロンで料理を続けている……これはなかなか素敵な住み継ぎ方ですよね。
紘子さん夫婦の家は、今は娘の友里さんの家であり、紘子さんの料理教室の場所でもあるのです。
野村紘子の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、野村紘子さんの実家とあわせて調べられている、夫や子供、料理教室について紹介します。
同じ名前の有名人との混同にも触れておきますね。
夫はどんな人?大企業入社を勧めた厳しい父
紘子さんの夫の名前や職業は、公表されていません。
ただ、家族の話からその人柄は少し見えてきます。
紘子さんによると、夫は夜10時ごろに突然友人を連れて帰宅することがあったそうです。
驚きながらも「連れてこられてきた方には罪はないでしょう?」と急いでもてなしていたという紘子さん、さすがですよね。
一方、娘の友里さんは父を「厳しい父親」と表現しています。
大学を卒業するとき、父から「大企業には今しか入れない。まずはいちばん大きなところを信じて入りなさい」と言われ、友里さんは大手総合商社の総合職に就きました。
結局、会社勤めは性に合わず1年半ほどで退職し、ロンドンへ料理留学することになるのですが、父の言葉は友里さんの中にしっかり残っているようです。
夫は人を家に招くのが好きで、子どもの進路には厳しく助言する父親だったといえます。
息子は野村訓市で娘は料理人の野村友里
紘子さんには、長女の友里さんと長男の訓市さんの2人の子どもがいます。
| 名前 | 続柄 | 主な活動 |
|---|---|---|
| 野村友里さん | 長女 | 料理人、「eatrip」主宰。原宿「restaurant eatrip」、表参道「eatrip soil」を運営 |
| 野村訓市さん | 長男(1973年4月10日生まれ) | マルチクリエイター、ライター、インテリアデザイナー、俳優、J-WAVEのラジオパーソナリティ |
訓市さんは幼稚園から高校まで学習院に在籍し、慶應義塾大学総合政策学部を卒業しています。
2008年にはモデルの佐田真由美さんと結婚し、2人の娘さんがいます。
紘子さんは、子どもたちが初等科の頃から友人をよく家に連れてきていたと話していて、そのたびに手作りのおやつを出していたそう。
友里さんが料理の道に進んだのも、訓市さんが人と場をつなぐ仕事をしているのも、この家の空気と無関係ではなさそうです。
紘子さんの子どもは料理人の友里さんとクリエイターの訓市さんで、どちらも第一線で活躍しています。
料理教室は40年以上続く「おもてなし教室」
紘子さんの料理教室は、40年以上続いているおもてなし教室です。
始まりは、友里さんの友達の親御さんから「料理を教えてほしい」と頼まれたこと。
最初はご近所の3〜4人に教えたのが1回目で、その方が40年以上たった今も通っているそうです。
紘子さんは「広まり過ぎても困るからひっそりとやっていました」と話していて、今も知り合いの方だけに教えているとのこと。
友里さんによると、紘子さんは40年以上の間、一度も同じレシピを教えたことがないそうで、これには正直驚きました。
紘子さんはレシピのことを「レセピ」と呼んでいて、著書にも『娘へ継ぐ味と心 消えないレセピ』(文化出版局)、『受け継ぎたいレセピ』(誠文堂新光社)があります。
紘子さんの料理教室は、頼まれて始めた小さな集まりが40年以上続いた、家族のような教室なのです。
同姓同名のピアニスト中村紘子とは別人
「野村紘子」で調べると、ピアニストの中村紘子さんの情報が出てくることがあります。
中村紘子さんは出生名が野村紘子で、1944年に山梨県で生まれ、東京都世田谷区で育ったピアニストです。
1965年のショパン国際ピアノコンクールで入賞し、夫は小説家の庄司薫さんでした。
料理研究家の野村紘子さんとは別人なので、実家を調べるときは混同しないように気をつけてくださいね。
名前が同じでも、ピアニストの中村紘子さんの実家の話は料理研究家の紘子さんとは関係ありません。
野村紘子の実家のまとめ
- 野村紘子は40年以上おもてなし教室を続ける料理研究家
- 実家は料理上手の母がいて人の出入りが絶えない家だった
- 母は不意の来客にもあるもので即興の料理を出す人だった
- 見えないところにひと手間かける姿勢は母から教わった
- 母は戦後の材料がない時代にも工夫して食卓を整えていた
- 父も人が好きで友人を頻繁に家に招いていた
- 祖母は茶道の先生で、季節のしつらいや器使いを自然と学んだ
- ボルシチは母が大連でロシア人の友人から教わった料理
- ボルシチは祖母から娘まで4代で受け継がれている
- 実家が野村財閥という説は家族が語っておらず、名字から生まれた噂とみられる
- 結婚後は西荻の庭のある家で来客をもてなした
- 夫婦が建てた3階建ての家は2024年ごろから娘の友里が受け継いだ
- 夫は名前・職業非公表で、娘に大企業入社を勧めた厳しい父
- 子どもは料理人の野村友里とクリエイターの野村訓市
- ピアニスト中村紘子の出生名も野村紘子だが別人

