孤児院で育ち、電気も水道もない廃屋で養父とふたりで生き延びた少年が、「ここが一番や!」という思いを胸に、日本最大のカレーチェーンを作り上げました。
CoCo壱番屋の創業者・宗次徳二さんの生い立ちは、まさに「事実は小説より奇なり」という言葉がぴったりの、壮絶な半生です。
実はパチンコ店でタバコの吸い殻を拾い集めた体験が、あの「お客様第一主義」の原点だったというから、知れば知るほど深い話なんです。
・CoCo壱番屋社長・宗次徳二さんの壮絶な幼少期と生い立ちの詳細
・孤児院・極貧生活からカレーチェーン創業に至るまでの経緯
・引退後の慈善活動や220億円の資産の使い道
CoCo壱番屋社長・宗次徳二の壮絶な生い立ちと成功への軌跡
CoCo壱番屋の創業者・宗次徳二さんの生い立ちは、テレビドラマ顔負けの壮絶な内容です。
孤児院で生まれ、極貧生活を経て日本最大のカレーチェーンを作り上げた宗次さんの半生を、詳しく追っていきましょう。
孤児院で育ち、3歳で養子になった幼少期
宗次徳二さんは1948年(昭和23年)10月14日、石川県で生まれました。
でも、「石川県で生まれた」という記録はあっても、実の両親が誰なのかを宗次さんは今でもまったく知らないそうです。
実の両親は今もわからない
宗次さんの両親については、戸籍上に石川県生まれとの記録があるだけで、両親の顔も名前も素性も一切不明のままです。
生まれて間もなく、宗次さんは兵庫県尼崎市の孤児院に預けられることになります。
0歳から施設に預けられ、両親の顔を見ることなく育つ――これほど過酷な始まりがあるでしょうか。
読んでいてこちらまで胸が締め付けられますよね。
3歳になったとき、雑貨商を営む宗次福松さん・清子さん夫婦が養子として引き取ってくれました。
これが宗次徳二さんという名前の始まりです。
養父母に引き取られたことで、ようやく家庭という居場所を得た宗次さん。
しかし、安らぎの日々はそう長くは続きませんでした。
養父のギャンブルで電気も水道もない極貧生活
養父・宗次福松さんには、一つの大きな問題がありました。
競輪とパチンコへの依存、つまり根強いギャンブル癖です。
稼ぎはほぼすべてギャンブルにつぎ込まれ、家庭の経済状態はどんどん悪化していきました。
家賃も払えなくなり、電気も水道も引けない状態に陥ります。
「アパートや間借り先の家賃が払えず、時には廃屋を転々としながら、電気も水道もない生活を続けました。ローソクの明かりで養父を待ちながら、炊事や洗濯をした。時には、自生していた柿や無花果、野草も食べた」
これは宗次さん自身が後年のインタビューで語った言葉です。
現代では想像するのも難しい、ほんとうの意味での極貧生活だったことがわかります。
養父に愛想を尽かした養母は、ついに失踪。
8歳のときに養母の居場所が判明し、名古屋市の四畳半のアパートで3人が再び住み始めましたが、養母はすぐにまた家を出てしまいます。
こうして幼い宗次さんは、養父と2人きりで廃屋を点々としながら生活保護を受け、15歳まで過ごすことになるのです。
リヤカーで夜逃げ、廃屋を転々とした少年時代
「悲惨だとは思いませんでした。ものにも事欠く毎日でしたけど、それが普通だと思っていた」
後年、宗次さんはこの幼少期をこう振り返っています。
リアカーに食器と布団、教科書を積み込んで夜逃げしたことが何度かあったという話は、読んでいてなんとも言えない気持ちになります。
岡山県玉野市をはじめ、各地の廃屋を転々とした少年期。
生活保護を受けながら日々をやりくりし、生計を助けるためにパチンコ店へも足を運んでいました。
目的はギャンブルではありません。
床に落ちたパチンコ玉(こぼれ玉)を拾い集め、店の隅に落ちているタバコの吸い殻(シケモク)を集めること。
これが幼い宗次さんの「仕事」のひとつでした。
もし掃除をさぼったり、吸い殻を拾ってこなかったりすると、養父から全裸にさせられて箒で殴られるなどの厳しい折檻を受けることもあったといいます。
これはきつかったでしょうね……。
当時の宗次さんがどれだけつらい思いをしていたか、想像するだけで胸が痛くなります。
シケモクを拾って養父を喜ばせたお客様第一主義の原点
でも、宗次さんはこのエピソードをただのつらい記憶として語っていないのです。
これが興味深いところです。
「養父に連れられてパチンコ店にいったとき、彼が床に落ちたタバコの吸い殻をキセルに詰めてうまそうに吸うのを見ました。以来、暇を見つけてはパチンコ店に行き、大人たちの足元をかき分け、シケモクを集めた。日雇いから帰った養父がそれを嬉しそうに吸うんです」
そして宗次さんはこう続けます。
「自分がカレー屋を始めて抱いた、『目の前にいらっしゃるお客様に喜んでいただきたい』という気持ちの原点は、養父がシケモクを喜んでくれたことにあります」
……なんか、じんわりしますよね。
虐待とも受け取れるほど厳しい養父でしたが、その養父に喜んでもらいたいという一心でシケモクを集めた経験が、後のCoCo壱番屋「お客様第一主義」の原点だったというのです。
養父への愛情は消えなかった
「でも、私は両親が大好きでした。養父は年に一度だけ、職安でもらう年末一時金で、私の好きなリンゴを2個買ってきてくれた。あれはうまかった」
どれだけ苦しい生活の中でも、養父への愛情は消えなかった宗次さん。
一年に一度のリンゴ2個が、本当に美味しかったんでしょうね。
個人的にすごく好きなエピソードです。
この「喜ばせたい」という純粋な気持ちが、後に世界最大のカレーチェーンを生む経営哲学の根っこにあったというのは、なんとも感慨深いことです。
15歳で養父を亡くし、豆腐屋バイトで学費を稼いだ高校時代
そんな養父も、宗次さんが15歳のときに胃がんで亡くなります。
複雑な思いもあったはずですが、宗次さんはこの別れをも糧に前へ進んでいきます。
養父の死後は養母と同居するようになりましたが、学費や生活費は自分で稼がなければなりませんでした。
だから宗次さんは毎朝、朝5時半の始発電車に乗り、学校に行く前に同級生の父親が経営する豆腐屋でアルバイトをしていました。
そうして自力で学費を稼ぎながら、1967年(昭和42年)3月に愛知県立小牧高等学校商業科を卒業します。
誰かに恵んでもらうのではなく、自分の足で稼ぎ、自分の力で道を切り開く。
この姿勢は、後の経営者・宗次徳二さんの根幹をなすものになっていきます。
不動産業から喫茶店へ、20代の果敢な転身
高校を卒業した宗次さんは、新聞広告を見て不動産業の八洲開発株式会社に入社します(1967年4月)。
その後、1970年(昭和45年)2月に大和ハウス工業の名古屋支店へ転職。
そこで運命的な出会いが待っていました。
同僚だった直美さんとの結婚です。
1973年(昭和48年)、結婚2年後に独立し、自宅の1階に不動産仲介会社「岩倉沿線土地」を開業しました。
しかし不動産業というのは、チラシを配ってもなかなか反応が来ない仕事で、宗次さん自身「物足りなさ」を感じていたといいます。
そこで妻・直美さんと相談し、1974年(昭和49年)に喫茶店「バッカス」を名古屋市西区に開業しました。
オープン初日、手伝いに入った宗次さんが見たのは、開店10分もしないうちに店の内外が人でいっぱいになる光景でした。
「開店と同時にたくさんのお客様がいらして、お見送りする際には『ごちそうさま』といった温かい言葉まで掛けてくれたのです。もう、これこそ私の天職だと思って、不動産屋を即廃業し、飲食業に専念することにしました」
この瞬間の判断が、後の「CoCo壱番屋」誕生への大きな一歩でした。
CoCo壱番屋社長の生い立ちを調べる人向けの関連情報
宗次徳二さんの生い立ち以外にも、気になるエピソードはたくさんあります。
妻との馴れ初めや創業秘話、引退後の慈善活動まで、気になる情報をまとめてご紹介します。
3カ月でプロポーズ!妻・直美との馴れ初めと二人三脚の経営
大和ハウス工業の名古屋支店で出会った直美さんに、宗次さんは一目惚れしたといいます。
知り合ってわずか3カ月でプロポーズ。
ところが最初はなかなかOKをもらえませんでした。
それでも宗次さんは諦めず、退社後に毎日直美さんの家まで送り届けるなど積極的にアプローチを続けます。
その粘り強さが実り、1971年(昭和46年)に結婚。
二人は人生のパートナーとしてだけでなく、最高の経営パートナーにもなっていきます。
CoCo壱番屋の成功は夫婦二人三脚
アイデアマンで人付き合いが苦手な宗次さんが事業計画を担当し、社交的で姉御肌の直美さんが社員教育と資金繰りを担当する。
この役割分担が見事にハマりました。
創業当初、自転車操業でお金が本当になかったとき、パンの耳をかじって飢えをしのいだこともあったという直美さん。
そんな苦しい時代も二人で乗り越えてきました。
300号店出店の記念日に宗次さんが「ママ、よくまあここまでやってこれたなあ。二人三脚でこれたからこそ。まあ五分と五分だったな」と言ったところ、直美さんから「なに言ってんの! アンタなんか2割でしょ!」と返されたエピソードは有名です。
……最高じゃないですか、これ。
それ以来、宗次さんは「妻が9、自分が1」と言い続けているそうです。
二人で築き上げたCoCo壱番屋は、まさに夫婦愛の結晶といえるでしょう。
「ここが一番や!」1978年のCoCo壱番屋創業秘話
1975年(昭和50年)、喫茶店の2号店として「珈琲専門店 浮野亭」を開業。
ここで転機が訪れます。
直美さんが作ったカレーライスが、お客さんの間で大人気になったのです。
「これはカレー専門店にすべきだ」と確信した宗次さんたちは、カレー専門店への転身を決断します。
そして1978年(昭和53年)、愛知県西春日井郡西枇杷島町(現・清須市)に「カレーハウスCoCo壱番屋」の1号店を出店。
「ここが一番や!」という宗次さんの気持ちがそのままチェーン名になったともいわれています。
創業当初から、ご飯の量・辛さ・トッピングをお客さん自身が選べるシステムを採用。
当時としては画期的なこのシステムが、幅広い層のお客さんを引きつけました。
1982年(昭和57年)には売上が3億円を突破し、法人化して株式会社壱番屋を設立。
宗次さんが代表取締役社長に就任します。
2013年には「世界で最も大きいカレーレストランのチェーン」としてギネス認定を受けるほどの規模に成長しました。
のれん分け制度で全国展開を実現したブルームシステム
CoCo壱番屋が全国に展開できた大きな要因のひとつが、独自の「ブルームシステム」(のれん分け制度)の導入です。
これは、優秀な社員がオーナーとして独立し、自分の店を持てる仕組みです。
東京進出を果たした70店舗目あたりが分岐点で、それ以降はこのブルームシステムが全国展開の原動力になりました。
宗次さんの目が直接届かない店舗でも、超現場主義を身につけたオーナーたちが「どうすればお客さんが喜ぶか」を毎日考え続けてくれる。
このシステムが機能したからこそ、全国規模のチェーンが生まれたのです。
1987年には全国80店舗を超え、1998年には500店舗を達成。
その後も成長を続け、最終的には国内外に1400店舗以上を展開するまでに至りました。
朝4時起き・年間休日15日のワーカホリック経営スタイル
宗次さんの経営スタイルは、一言で言うと「究極の現場主義」です。
毎朝4時45分に出社し、1000通以上ものお客様アンケートを毎日読むのが日課でした。
退社時間は18〜23時。年間の休日はわずか15日ほどだったといいます。
「私は創業してから1日たりとも休まず、年間で5,637時間働きました。1日平均にすると約15時間半です」
経営者に残業代はつかないのだから、それくらい働いても当然だ、というのが宗次さんの考え方。
徹底的な自己犠牲と仕事への情熱が、今のCoCo壱番屋を作り上げたといっても過言ではありません。
売上が落ちたフランチャイズオーナーが「値下げをしたい」と相談してくると、宗次さんはこう言って鼓舞したといいます。
「売り上げが落ちたのなら、掃除をしなさい」
値下げではなく、掃除・笑顔・感謝の言葉で経営者の真心を示せ。
この姿勢こそがCoCo壱番屋の品質を守り続けた核心でした。
また宗次さんは引退するまで友人を1人も作らず、睡眠時間は3〜4時間という生活を貫いたそうです。
53歳での引退と後継者への全権委譲
2002年(平成14年)、宗次さんは53歳の若さで会長職を辞し、経営から完全に引退します。
後継者として社長に就いたのは、19歳のときにアルバイトとして入社した浜島俊哉さんでした。
後継者が十分に育った、というのが引退の理由です。
「『自分の会社だ』という思いに、きちんと線を引くためにはこれが究極の方法です。愛着はありますが、中途半端に残るというのが一番よくない」
2015年には、ハウス食品グループ本社が壱番屋の51%の株式を取得し、壱番屋はハウス食品の子会社となりました。
宗次夫妻が保有していた株(23.17%)もすべてハウス食品へ売却し、その譲渡益は約220億円といわれています。
「会社の株を売ったことへの寂しさはない。もう現役を退いてから13年も経つんです。その間、経営に口出しをしたことはまったくない」と、宗次さんは淡々と語っています。
28億円私財で建てた宗次ホールとクラシック音楽への情熱
経営から離れた宗次さんが次に注いだ情熱は、クラシック音楽でした。
高校1年のとき、NHK教育テレビの「N響アワー」でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いて以来、クラシック音楽のとりこになっていたそうです。
2003年(平成15年)にはNPO法人「イエロー・エンジェル」を設立。
福祉施設・ホームレス支援に加え、クラシック音楽の振興活動も始めます。
そして2007年(平成19年)、28億円の私財を投じて名古屋市中区栄に「宗次ホール」を建設しました。
「もっと身近に、もっと人々の生活の中にクラシック音楽を」という思いで運営されており、年間公演回数は400回を超えています。
引退後も宗次さんの日常はハードです。
毎朝4時に起きてホール周辺を掃除し、花を植え、昼はスタッフ15人分のまかないを作り、公演前には入場口でお客さんを出迎える。
経営者時代の習慣はそのまま引き継がれています。
2012年には名古屋市芸術奨励賞を受賞。
また、経済的理由で進学できない音楽家志望の子供たちへの支援、東海圏の小中学校100校以上への吹奏楽器の寄付なども継続して行っています。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻後は、日本に避難してきたウクライナのチェロ演奏家母子に楽器を無償貸与し、ウクライナ支援のためのクラシックコンサートの会場として宗次ホールを提供するなど、社会貢献の手は国際的にも広がっています。
長男・宗次弘章はプロゴルファー
ところで宗次さんには、1980年3月に生まれた長男・弘章さんがいます。
幼少期からゴルフに打ち込み、名古屋商科大学に進学。
大学時代には日本学生ゴルフ選手権で10位タイに入るほどの実力を持ち、大学卒業後はプロゴルファーの道へ進みました。
現在はすでに結婚し、子供もいるとのこと。
仕事に人生のすべてを捧げてきた宗次さんも、今頃はおじいちゃんとして孫の顔を見る日々があるかもしれませんね。
220億円の資産家が選ぶ980円シャツと慈善活動の精神
株の売却益でおよそ220億円の資産を持つ宗次さんですが、そのライフスタイルは驚くほど質素です。
腕時計はカシオのGショック(約1万円前後)、シャツは980円のディスカウント品。
豪遊エピソードはほとんど聞かれません。
「金銭欲を満たす気持ちは、少しはありますが、自分のおカネが人のために動くほうがうれしいし、それが『生きたおカネの使い方』だと思う」
これが宗次さんのお金に対する哲学です。
ストラディバリウスなど40億円のバイオリンコレクション
一方で、クラシック音楽の振興という目的のためには、惜しみなくお金を使います。
宗次さんが所有するバイオリンなどのコレクションは総額40億円近いとも伝えられています。
1714年製のストラディバリウス「ダ・ビンチ」(2022年のニューヨーク競売で約20億6千万円で落札されたもの)のほか、ヴァイオリニスト・木嶋真優さんに貸与している1699年製のストラディバリウス「ウォルナー」(15〜20億円相当)、宮本笑里さんに貸与しているドメニコ・モンターニャのヴァイオリン(約2億円)、チェリスト・新倉瞳さんに貸与しているジョヴァンニ・クランチーノのチェロ(1億2000万円)など、世界屈指の名器を所有し、演奏家たちに無償で貸与しています。
自分自身は980円のポロシャツでも満足しながら、若い音楽家の夢を名器で支える。
この「自分のためではなく人のために使う」というお金の哲学こそ、宗次徳二さんという人間の本質を表しているといえるでしょう。
CoCo壱番屋社長の生い立ちのまとめ
- 宗次徳二さんは1948年10月14日生まれ。戸籍上は石川県出身で、実の両親は今も不明
- 生後まもなく兵庫県尼崎市の孤児院に預けられ、3歳で雑貨商・宗次福松夫婦の養子に
- 養父はギャンブル好きで生活が不安定。養母は失踪し、養父と2人で廃屋を転々
- 電気も水道もない生活の中、雑草や野草を食べて生き延びた極貧の幼少期
- パチンコ店でシケモクや零れ玉を集め家計を助けたことが「お客様第一主義」の原点
- 15歳のときに養父が胃がんで死去。朝5時半から豆腐屋でバイトして学費を稼いだ
- 1967年に愛知県立小牧高校商業科を卒業後、八洲開発→大和ハウスと不動産業界を歩む
- 大和ハウスで出会った直美さんと1971年に結婚。知り合って3カ月でプロポーズした
- 1973年に不動産仲介会社として独立するも、1974年に喫茶店「バッカス」を開業し転身
- 妻・直美さんのカレーが人気となり、1978年に「CoCo壱番屋」1号店を出店
- 年間5637時間労働、年間休日15日、友人ゼロという超ワーカホリックな経営スタイル
- ブルームシステム(のれん分け制度)で全国展開を実現し、2013年にはギネス認定
- 2002年、53歳で経営を引退し、後継者(浜島俊哉社長)に全権を委譲
- 2007年、28億円の私財で名古屋に「宗次ホール」を建設し、クラシック音楽の普及に尽力
- 220億円の資産を持ちながら、980円のシャツを着て朝4時から掃除するという質素な生活を続けている

