門倉有希の生い立ちは酒屋の娘!3歳から倉庫で歌い続けた少女が演歌歌手になるまで

門倉有希の生い立ちは酒屋の娘!3歳から倉庫で歌い続けた少女が演歌歌手になるまで

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「ノラ」「女の漁歌」で知られる演歌歌手・門倉有希さんの生い立ちをご存じですか?

福島の酒屋に生まれ、3歳から歌い続け、14歳のオーディション挫折を経て17歳でスカウトされ——彼女の歩みには、知れば知るほど「この人、すごい」と思わされるエピソードが詰まっています。

そして実は、デビュー直後に起きたある事件の存在が、長い間知られずにいたんです。

この記事を読むとわかること
・門倉有希さんが3歳から歌手を目指した幼少期の生い立ちと家族の影響
・デビュー直後に起きた監禁・失踪事件の真相
・乳がんと闘いながら「もう一度ステージへ」と願い続けた晩年の姿

門倉有希の生い立ち:酒屋の娘が演歌歌手になるまで

「鴎…カモメ」「ノラ」「女の漁歌」で知られ、NHK紅白歌合戦にも出場した演歌歌手・門倉有希さん。彼女の生い立ちをたどると、福島の酒屋の娘が持ち前の歌声だけを武器にプロの道を切り開いていった、熱い物語が見えてきます。

3歳から歌一筋だった幼少期と家族の影響

門倉有希さんが生まれたのは1973年12月1日。出身地は福島県須賀川市で、本名は金田充恵といいます。

家は代々続く酒屋を営んでいたということで、どちらかというと地元に根ざした、ごく普通の一家だったようです。

でも、この家には音楽が流れていました。

歌が大好きだった祖父の影響を受けて、門倉さんは幼いころから歌に夢中になっていったといいます。

そして最初に歌ったのが、なんと3歳のときのことだというから驚きですよね。西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」を歌ったというエピソードが残っています。3歳の女の子が歌う演歌……想像するだけでかわいらしくて、でもどこか只者じゃない予感も感じます。

実家の酒屋の倉庫が最初のステージ

幼少期の門倉さんがよく歌っていた場所が、実家の酒屋の地下にある倉庫だったといいます。

人目を気にせず、ひたすら歌い込める場所として、地下倉庫がいちばん居心地よかったのかもしれませんね。子どもながらに「歌う場所」を本能的に求めていたのかなと思うと、なんかほっこりします。

母の影響で矢沢永吉の大ファンに

さらに面白いのが、お母さんが矢沢永吉の大ファンで、その影響を受けて門倉さん自身も幼い頃から矢沢永吉のファンになったという話です。

演歌歌手がロックの大御所・矢沢永吉のファン、というのはちょっと意外な組み合わせですよね。でも、ジャンルを超えて「本物の歌声」に惹かれる感覚は、後の門倉さんの音楽性にも通じるものがあるように感じます。

ライブ観戦はもちろん、ライブビデオやインタビュー記事まですべて収集していたというから、これはかなりの熱量です。落ち込んだときは矢沢さんのビデオを見て「頑張らないと!」と自分を奮い立たせていたとのことで、矢沢さんが門倉さんの心の支えでもあったんですね。

高校時代は野球部マネージャーで甲子園を経験

歌の才能を持ちながらも、中学・高校時代は一般的な学生生活を送っていた門倉さん。

進学したのは福島県石川郡石川町にある学校法人石川高等学校。そこで選んだのが、なんと野球部のマネージャーという道でした。

歌手というより体育会系のイメージが意外かもしれませんが、ここに大きなエピソードが隠れています。なんと門倉さんが高校1年生のとき、野球部は甲子園に出場したんです。

マネージャーとして甲子園の舞台を経験するというのも、なかなかできない体験ですよね。部員たちと汗を流しながら甲子園を目指した青春のひとコマが、今となっては眩しく感じます。

14歳で都はるみのオーディションに挑戦した少女時代

高校時代に野球部のマネージャーをしていた一方で、歌への気持ちも消えることはありませんでした。

実は門倉さんは中学生時代の14歳のとき、「第2の都はるみ」を探す新人オーディションに応募して、全国大会まで勝ち進んでいたんです。

これ、知ったときびっくりしませんでしたか?14歳の中学生が全国大会まで残るって、どれだけの歌唱力なんだと思いますよね。

ところが、ここで思わぬ落とし穴が待っていました。オーディションには「15歳以上」という年齢制限があったにもかかわらず、まだ14歳だった門倉さんは規定を満たしていなかったんです。

そして最終的に、都はるみさん本人から直接こんな言葉をかけられたといいます。

「学業と歌に専念しなさい」

まだ14歳の女の子に、憧れの演歌界の大御所から直接もらった言葉。この経験が門倉さんの心にどれほど刻み込まれたか……想像するだけで胸が熱くなりますね。この挫折と励ましが、その後の彼女のさらなる努力につながっていったのだと思います。

17歳で才能を見出されデビューへの道が開いた

都はるみさんのオーディションで悔しい思いをしてから、門倉さんは歌の勉強を続けながら高校生活を送りました。

そして17歳のとき、今度はレコード会社のオーディションを受けることになります。

このオーディションがターニングポイントになりました。門倉さんの歌声に惚れ込んだのが、かつて美空ひばりさんのプロデューサーを務めていた境弘邦さんです。

「美空ひばりのプロデューサー」といえば、演歌界ではまさに最高峰の実績。その境さんが「この娘は本物だ」と確信し、1992年には日本コロムビアを退社してまで門倉さん専属のプロデュースに乗り出しました。

これは相当な出来事です。プロの目利きが自分のキャリアをかけて惚れ込んだということですから、門倉さんの才能がいかに本物だったかがわかりますよね。

浜圭介のレッスンを経て1994年に鴎…カモメでデビュー

境弘邦さんのプロデュースのもと、門倉さんのデビューに向けた準備が本格的にスタートします。

そこに大きく関わったのが、作曲家の浜圭介さんです。門倉さんのデモテープをたまたま耳にした浜さんが「この娘のために曲を書きたい」と言い出し、そのまま浜さんの直接指導を受けることになったんです。

浜圭介さんといえば、「雨の慕情」「北の宿から」など数多くの名曲を手がけた演歌界の大物作曲家。そのような方に直々にレッスンしてもらえたというのは、本当に大きな財産だったはずです。

こうした人たちのサポートを受けながら、1994年2月23日、門倉有希さんはビクターエンタテインメントより「鴎…カモメ」でついにデビューを果たします。

本名・金田充恵ではなく「門倉有希」という芸名でのスタート。酒屋の地下倉庫で一人で歌っていたあの少女が、プロの演歌歌手として世に出た瞬間でした。

門倉有希の生い立ちを調べる人向けの関連情報

門倉有希さんの生い立ちと併せて、多くの人が気になっている関連情報についても詳しく見ていきましょう。

デビュー直後に起きた監禁・失踪事件の真相

デビューを果たした1994年、門倉さんの音楽キャリアは順調なスタートを切っていました。ところがその年の10月、突如として「精神的疲弊を理由に年内の活動を休止」という発表がなされます。

当時マスコミには「男性と失踪した」などという報道がなされましたが、真相はまったく違うものでした。

2016年4月15日放送の「爆報!THEフライデー」で、門倉さん本人が初めて監禁被害を告白しました。

相手は15歳のときに一緒に出場したオーディションで知り合った同い年の男性。高校卒業後に一緒に上京し、同棲生活を始めていたといいます。

DV・監禁の詳細経緯

しかしその関係は、次第に深刻なものになっていきました。

男性の束縛は日を追うごとに激しくなり、約束の時間に3時間遅れて帰宅しただけで、衣装を切り裂かれ、殴られ、顔面から出血することもあったといいます。

そして1994年10月1日、大切な歌謡イベントが予定されていたこの日、男性は門倉さんに包丁を突きつけて「仕事に行くな。行くなら殺してやる」と脅しました。

この日から始まった監禁生活。食事はカップラーメンのみ、仕事をしていない男性に24時間監視される日々。そんな状況が7日間続いた末に、門倉さんは隙を見て脱出に成功しました。

正直、読んでいて胸が痛くなりました。デビュー直後の多感な時期に、このような経験をしてなお芸能界に復帰し、紅白の舞台まで登り詰めた。その強さに、深く頭が下がる思いです。

監禁後は拒食症を患ったという証言もありますが、それでも門倉さんは1996年に見事復活。「女の漁歌」でNHK新人歌謡コンテストのグランプリを獲得し、念願の紅白歌合戦初出場を果たします。

代表曲ノラが80万枚を超えるヒットとなった背景

紅白初出場を果たした翌年・1997年から1998年にかけて、門倉さんにとって最大のヒット曲となる「ノラ」がリリースされます。

「ノラ」は木下佑花さんの楽曲のカバーで、発売後にカラオケを中心とした口コミで火が付き、最終的に累計約80万枚を売り上げるロングヒットとなりました。

カラオケで「歌いやすくて感情を込めやすい」という声も多く、演歌ファンだけでなく幅広い年代に親しまれた一曲です。

「ノラ」という曲のタイトル自体、どこかに流れていくような、飄々とした自由さを感じさせます。監禁からの脱出を経た彼女がこの曲を歌い続けたことには、何か深い意味があるように思えてなりません。

乳がんとの闘病から2024年に50歳で逝去するまで

晩年の門倉さんを語る上で避けて通れないのが、乳がんとの長い闘いです。

2019年2月、乳がんが発覚。それでも「もう一度ステージに立つために」という信念のもと、治療と並行しながら活動を続けました。

2024年2月にはデビュー30周年を迎え、5月にはベストアルバムもリリース。復活への意欲を失わなかった門倉さんでしたが——。

「もう一度ステージへ」という想いと最後の活動

2022年12月の「金沢明子&門倉有希 クリスマスジョイントランチショー」をもって、音楽活動を休止。その後は入退院を繰り返す日々が続きました。

事務所の公式発表には、こんな言葉が残っています。

「もう一度ステージに立つ為、治療に専念してまいりました」

……最高じゃないですか、この言葉。苦しい闘病の中でも、舞台に立つことへの情熱を手放さなかった。そのひたむきさが、この一言に詰まっている気がします。

2024年6月6日、門倉有希さんは乳がんのため50歳で息を引き取りました。発覚から5年4ヶ月に及ぶ闘病の末でした。

氷川きよしとの間に語られる関係のうわさ

一部の情報では、氷川きよしさんと門倉さんの間に「元交際相手」という話が出回ることがあります。

ただし、この交際については公式な確認がなく、あくまでも一部メディアやブログが取り上げたうわさの域を出ていません。

氷川きよしさんがデビュー前から門倉さんの大ファンだったこと、また門倉さんの通夜の場で氷川さんが涙を見せたと伝えられていること——そういった事実をもとにした推測が広まったようです。

二人の関係について断定できる情報は現時点では存在しないため、あくまでも「そういうふうに語られることがある」という程度の情報として受け取っていただければと思います。

晩年は猫9匹と暮らした知られざる素顔

音楽や監禁事件の印象が強い門倉有希さんですが、晩年は実はとても「猫の人」でもありました。

きっかけは、かつて拾った捨て猫「リボン」の存在。かわいがっていたリボンを病気で亡くしたことが、門倉さんにとって大きな転機となりました。

「もっとちゃんとケアできていたら」という思いから、小動物介護士・小動物看護士・ドッグシッターの資格をすべて取得したというから驚きです。

その後は猫専用のペット共生型マンションに引っ越し、最終的には9匹の猫たちと一緒に暮らしていたといいます。

Twitterのアカウント名が「@nekohimeyuki(猫姫ゆき)」だったことも、この猫愛の深さをよく表していますよね。演歌歌手・門倉有希の「猫姫」としての素顔——少し意外な気もしますが、そのギャップがまた魅力的に感じます。

門倉有希の生い立ちのまとめ

  • 1973年12月1日、福島県須賀川市に生まれ、本名は金田充恵である
  • 実家は酒屋を営んでおり、地下の倉庫が幼少期の歌の練習場だった
  • 歌好きの祖父と、矢沢永吉ファンの母の影響を受けながら育った
  • 初めて歌ったのは3歳のとき、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」である
  • 中学生の14歳のとき「第2の都はるみ」オーディションで全国大会まで勝ち進んだが、年齢制限で失格となった
  • 都はるみ本人から「学業と歌に専念しなさい」と直接忠告を受けた
  • 石川高等学校在学中は野球部マネージャーを務め、1年生のとき甲子園を経験した
  • 17歳のときのオーディションで、美空ひばりのプロデューサー出身の境弘邦にスカウトされた
  • 作曲家・浜圭介のレッスンを受け、1994年2月に「鴎…カモメ」でデビューした
  • デビュー直後の1994年10月に同棲していた男性に監禁・DV被害を受け、7日後に脱出した
  • この出来事は2016年に「爆報!THEフライデー」で初めて告白された
  • 1996年にNHK新人歌謡コンテストで「女の漁歌」グランプリを獲得し、紅白歌合戦に初出場した
  • 代表曲「ノラ」は1998年リリースで累計約80万枚を売り上げるロングヒットとなった
  • 晩年は猫専用マンションで9匹の猫と暮らし、小動物介護士などの資格を取得していた
  • 2019年2月に乳がんが発覚し、5年4ヶ月の闘病を経て2024年6月6日に50歳で死去した

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