原笙子の生い立ちとは?母の言葉で家出を繰り返した「不良少女」が女人舞楽の第一人者になるまで

原笙子の生い立ちとは?母の言葉で家出を繰り返した「不良少女」が女人舞楽の第一人者になるまで

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「あなたさえ生まれてなければ」——そんな言葉に傷ついた少女が、後に世界の舞台で舞い続ける女人舞楽の第一人者になるとは、誰が想像したでしょう。

原笙子さんは「不良少女」と呼ばれた時代を経て、日本で唯一の女人舞楽の世界を切り開いた方です。

この記事では、京都の神官の家に生まれた幼少期から、大連での終戦体験、家出の日々、師との出会い、そして女人舞楽を世界に広めるまでの道のりを詳しくまとめました。

この記事を読むとわかること
・原笙子さんの生い立ちと「不良少女」と呼ばれた本当の理由
・ペンネーム「原笙子」の由来となったハラショーの体験
・旦那・家族・子供の情報と、著書とドラマの違い

原笙子の生い立ち:波乱の少女時代から舞楽の道へ

原笙子さんの生い立ちは、戦争、引き揚げ、家出、師との出会いといった、まるでドラマのような出来事の連続でした。女人舞楽の世界を切り開くまでの道のりを、順を追って見ていきましょう。

京都・神官の家に生まれた幼少期

原笙子さんは、1933年(昭和8年)3月14日、京都の神官の家に生まれました。

本名は糸井治子(いとい はるこ)さん。後に世間に広まるペンネームの「原笙子」は、実は彼女の本名でも芸名でもなく、ある体験から生まれた特別な名前です(その由来は後のセクションで詳しく紹介しますね)。

父親の名前は石葭城(いし・かじょう)さんといい、神官として京都に仕えていた方です。

物心ついた頃から、笙子さんの身近には舞楽がありました。5歳のころから父・石葭城さんをはじめとする民間の指導者に教えを受けて舞楽を舞い始めたといいますから、まさに”舞楽と共に育った子ども”といっても過言ではないですね。

父親が舞楽を愛していた影響で、笙子さんにとって舞は遊びとも生活とも切り離せないものだったようです。

項目 内容
生年月日 1933年(昭和8年)3月14日
出身地 京都府
本名 糸井治子(いとい はるこ)
父親 石葭城(いし・かじょう)
舞楽開始 5歳ごろ

神官の家柄ということは、格式があり伝統を大切にする家庭だったということ。そんな環境の中で育った笙子さんが、後に「不良少女」と呼ばれるような波乱の日々を経験するとは、当時は誰も想像していなかったことでしょう。

大連での終戦体験とハラショーの歓声

笙子さんが小学生のころ、一家は中国東北部の大連へ渡ります。

当時、満州(現・中国東北部)は日本の植民地的な影響下にあり、多くの日本人家族が移住していた時代でした。大連という地で、笙子さんは少女期を過ごすことになります。父親が舞楽を愛していた家庭だったため、大連でも舞を舞う日々が続いていたようです。

そして1945年(昭和20年)、日本は終戦を迎えます。

終戦後も引き揚げ船に乗れなかった一家は、大連に留まることを余儀なくされ、苦しい生活を強いられました。食べるものにも事欠く状況の中で、笙子さんにとって唯一の楽しみは、父の笛の音に合わせて舞を舞うことだったといいます。

……想像してみてください。戦争が終わっても帰れない。食べるものも満足にない。そんな中で、少女が舞い続けていた。それだけで胸が締め付けられませんか。

そんなある日、ソ連軍の将校たちの前で舞を披露する機会が訪れます。緊張の場でしたが、笙子さんが舞い終えると、将校たちから惜しみない拍手が贈られました。そのとき飛び込んできた言葉が——

「ハラショー!(Хорошо)」

ロシア語で「すばらしい」を意味するこの言葉は、後にペンネーム「原笙子」の由来となった、人生を変えた一言でした。

引き揚げ後の困窮と母の言葉が変えた人生

終戦から約1年半。ようやく笙子さんの一家は日本への引き揚げが叶い、1947年(昭和22年)に京都へ戻ります。

しかし、長い戦争と異国での生活は、家族全員に深い傷を残していました。戦前の暮らしに戻ることは叶わず、一家の生活は大変な困窮状態が続きます。そのような中で、笙子さんの母親は精神的にも不安定な状態になっていったといいます。

そして笙子さんの人生を大きく変えた言葉が、母親の口から発せられました。

「あなたさえ生まれてなければ…」

……そりゃ傷つきますよ、そんなこと言われたら。どれほど幼い心に刻まれたことか。母親の言葉の重さは、子どもにとってこの上ない打撃だったはずです。

この言葉を受けた笙子さんは、深く傷つき、家を飛び出すようになります。引き揚げてからの困窮生活と母親の一言が、後に「不良少女」と呼ばれる日々の起点となりました。

もちろん、母親も決して悪意から発した言葉ではなかったのかもしれません。戦争で追い詰められた生活の中で、精神的に余裕を失っていたのでしょう。ただ、その言葉が幼い笙子さんの心に与えた傷は、本人が著書に書くほど深いものだったことは間違いありません。

家出を繰り返す「不良少女」と呼ばれた日々

母親の言葉にショックを受けた笙子さんは、家出を繰り返すようになります。

住み込みで働ける場所を探し、「引き揚げてきて親とはぐれた」という嘘をついては住み込みの仕事を見つけ、しばらく働く。しかし1週間も経つと寂しさが募り、また家に戻る。そしてまた家出する——その繰り返しだったといいます。

家出を繰り返す笙子さんは、周囲から「不良少女」のレッテルを貼られるようになりました。

とはいえ、笙子さんの家出はいわゆる非行グループへの加入や犯罪行為とは性質が異なります。著書『不良少女とよばれて』(1978年刊行)では、その波乱の少女時代が本人の言葉で綴られていますが、後にテレビドラマ化された際には内容が大幅に脚色され、実際とはかなりかけ離れたストーリーになってしまったことに対して、笙子さん自身が相当ご不満だったと伝えられています。

実際の笙子さんの「不良」は、母親の言葉から傷ついた少女が家から逃げ出し、また帰ってくるという繰り返しの中にありました。不安定な時代と家族関係の中で、それでも舞楽への思いだけは消えなかったのでしょう——住み込みで働きながらも、舞の練習を欠かさなかったといいますから。

豊昇三師との出会いが人生を変えた転機

そんな波乱の日々の中で、大きな転機が訪れます。

父・石葭城さんから紹介されたのが、元宮内庁楽師・豊昇三(ぶんの・しょうぞう)さんでした。

豊さんの舞を目の当たりにした笙子さんは、その美しさに心を打たれます。そして笙子さんは決意します——この方に舞楽を習いたい、と。

異例の弟子入り

当時の舞楽界は、完全に男性だけの世界でした。宮中で受け継がれてきた伝統芸能であり、民間人、ましてや女性に舞楽を教えるなどということは、当時の常識では考えられないことでした。

しかし笙子さんは諦めませんでした。上京して豊さんのもとを訪れ、弟子入りを懇願します。

笙子さんの舞への情熱と真剣さが豊さんの心を動かしました。ついに豊昇三さんは笙子さんに舞楽の全てを基本から叩き込むことを決意し、この異例の師弟関係が始まりました。

笙子さんが21歳のとき(1954年ごろ)のことです。

男性に混じって舞いを舞う笙子さんへの周囲の視線は、決して温かくはありませんでした。「女性が舞楽を?」という時代のムードの中で、笙子さんは黙々と舞い続けたのです。

女人舞楽の世界を切り開くまでの道のり

豊昇三さんの下で修業を積んだ笙子さんは、1955年(昭和30年)から民間の舞楽指導者としての道を歩み始めます。

男性ばかりの舞楽界でひとり女性として活動を続けた笙子さんは、「だったら女性だけの世界を作ろう」と新しい道を切り開くことを決意します。

そして1957年(昭和32年)、父・石葭城さんとともに、日本で唯一の女人舞楽「京都舞楽会」を設立しました。

1000年以上の歴史を持つ舞楽の世界に、女性が入ること自体が前代未聞。しかし笙子さんは怯みませんでした。それどころか、平安時代に途絶えていた女舞「柳花苑(りゅうかえん)」を1989年(平成元年)に復活させるなど、失われた女人舞楽の復権に生涯をかけて取り組みました。

その後、1985年(昭和60年)には兵庫県芦屋市に「原笙会(はらしょうかい)」を設立。ワシントンD.C.、ロンドン(王立ビクトリア&アルバート美術館)、スミソニアン自然史博物館など、世界各国での公演活動へと広げていきました。

家出を繰り返した「不良少女」が、世界の舞台で伝統芸能を舞い広める第一人者になった——その道のりは、逆境を力に変えた人生そのものでした。

出来事
1955年 民間の舞楽指導者としての道を歩み始める
1957年 女人舞楽「京都舞楽会」を父・石葭城とともに設立
1974年 京都観光資源文化財団より第2回伝統芸能功労者表彰
1978年 著書『不良少女とよばれて』刊行、ベストセラーに
1985年 女人舞楽「原笙会」設立(兵庫県芦屋市)
1989年 千年前に途絶えた女舞「柳花苑」を復活披露(平安神宮)
1991年 芦屋市民文化賞を受賞
2003年 舞楽指導歴五十周年記念公演(NHK大阪ホール)
2005年 奈良薬師寺花会式舞楽奉納。同年10月7日急性骨髄性白血病のため逝去、享年72歳

原笙子の生い立ちを調べる人向けの関連情報

原笙子さんの生い立ちをきっかけに、さらに知りたくなることがありますよね。ここでは、ペンネームの由来や家族のこと、著書とドラマの違いなど、よく調べられている関連情報をまとめました。

ペンネーム「原笙子」の由来

前の章でも触れましたが、「原笙子」というペンネームの由来について改めて詳しくご紹介します。

笙子さんの本名は糸井治子(いとい はるこ)さん。「原笙子」はロシア語の「ハラショー(Хорошо)」を捩ったペンネームです。

ソ連軍将校前での舞

終戦後、大連に残された一家は困窮した生活を送っていました。そんな中、笙子さんが占領軍のソ連人将校たちの前で舞楽を舞う機会がありました。

真剣に、全力で舞い終えた笙子さんに贈られたのは、惜しみない拍手と「ハラショー!(素晴らしい!)」という歓声。

この「ハラショー」という言葉から「原笙子」というペンネームが生まれたのです。

「原」はハラショーの「ハラ」から、「笙子」は舞楽で用いる管楽器「笙(しょう)」にかけた名前だとも伝えられています。

苦しい時代の中でも、自分の舞を認めてもらえた喜び——その記憶がペンネームになったと思うと、なんか、じんわりしますよね。

少年院の噂と非行歴の実態

「原笙子 少年院」という検索ワードがあることから、少年院に入ったのかどうかを疑問に思っている方も多いようです。

現在確認できる情報の中に、笙子さんが少年院に入ったという記録や証言は見当たりません。

笙子さんの「不良少女」と呼ばれた実態は、母親の言葉に傷ついて家を飛び出し、住み込みで働いては数日後に帰宅するという家出の繰り返しでした。犯罪行為や暴力、グループへの加入といったものではなく、むしろ「傷ついた少女が家から逃げた」という性質のものです。

1984年に放映されたTBSのテレビドラマ『不良少女とよばれて』では、不良グループのリーダーとして過激な描写も多くありましたが、これは原作とは大きくかけ離れた脚色でした。笙子さん自身もテレビドラマの描かれ方にかなりご不満だったと伝えられています。

少年院という噂は、ドラマの強烈なイメージが一人歩きしたものと考えるのが自然でしょう。

旦那の糸井孝と家族・子供について

笙子さんの夫は糸井孝(いとい たかし)さんという方です。笙子さんの本名が「糸井治子」ですので、結婚後は夫の姓を名乗っていたことがわかります。

2005年に笙子さんが急性骨髄性白血病で亡くなった際の喪主も糸井孝さんで、通夜・葬儀の案内にも「夫 孝(たかし)氏」とされています。笙子さんの逝去後は糸井孝さんが原笙会の代表を引き継ぎ、女人舞楽の活動を守り続けているとのことです。

子供については、一男一女の母だったことが原笙会公式サイトに記されています。笙子さんが著書『不良少女とよばれて』を書き始めたきっかけも、「小学校4年生だった娘に自分の若い日の真実を伝えておきたい」という思いからだったといいます。

6年間かけて原稿用紙に書き続け、1978年(昭和53年)に筑摩書房から出版したのが『不良少女とよばれて』です。娘への想いが、後の大ベストセラーの出発点だったとは……個人的にすごく好きなエピソードです。

若い頃の印象と波乱の半生

「原笙子の若い頃はどんな人だったのか」と気になっている方も多いようです。

公式サイトや著書から伝わってくる若い頃の笙子さんは、決して華やかな存在ではありませんでした。引き揚げ後の困窮生活、母親の言葉による傷、家出の繰り返し——そういった逆境の中にあっても、舞楽への情熱だけは消えなかったのが、笙子さんの若い頃の姿です。

住み込みで働きながらも舞楽の練習を続けたというエピソードは、彼女の芯の強さを物語っています。

豊昇三さんとの出会いで本物の舞楽を学び直した21歳以降、笙子さんは自分の道を着実に歩み始めました。外見や画像についての詳細な情報は現在多くは残っていませんが、芦屋市民文化賞の受賞(1991年)や世界各地での公演活動の記録からは、舞い続けた笙子さんの姿が浮かび上がります。

現在の原笙会とその後

2005年10月7日、笙子さんは急性骨髄性白血病のため、兵庫県芦屋市の自宅で亡くなりました。享年72歳。

笙子さんが設立した「女人舞楽 原笙会」はその後も活動を継続しています。夫の糸井孝さんが代表を引き継ぎ、笙子さんが唯一認めた指導者である生川純子さんらが活動を守り続けています。

笙子さんが千年ぶりに復活させた女舞「柳花苑」は現在も原笙会の最も大切な演目のひとつとして受け継がれています。また、笙子さんが京都の装束店の八代目・與兵衛さんのもとで習い覚え、一人で仕立てた装束も今も使われています。

笙子さんが生涯をかけて蘇らせた「女人舞楽」の灯は、今も兵庫県芦屋市で燃え続けています。

奈良薬師寺での公演(2005年4月)では、笙子さんが72歳の身で父の遺品の装束を着て舞いを舞い、「これが私の舞楽人生で最高の舞台となった」と著書に記しています。その半年後に他界されたのですから……思わず涙が出そうになるエピソードです。

著書『不良少女とよばれて』とドラマとの違い

笙子さんの著書『不良少女とよばれて』は1978年(昭和53年)に筑摩書房から刊行され、ベストセラーとなりました。

そして1984年(昭和59年)、TBS系列でテレビドラマ化。伊藤麻衣子さんが不良グループのリーダー役を体当たりで演じ、高視聴率を記録しました。

しかし——原作と大映テレビのドラマは内容が大きく異なります。

原作は、笙子さんが「波乱の少女時代と、舞楽の道への歩み」を自身の言葉で綴った自伝的な内容。一方のドラマは不良グループのリーダーが恋愛を通じて立ち直るという、典型的な大映テレビ的な学園ドラマになっています。不良グループの抗争シーンや派手なアクションなど、原作にはない要素が大量に盛り込まれました。

笙子さん自身もドラマでの描かれ方にかなりご不満を持っていたと伝えられており、「題名だけを使ったテレビドラマ」と原笙会公式サイトでは表現されています。

ちなみに、著書の印税は全て原笙会の装束の制作費に充てられたといいます。

原笙子さんの本当の「生い立ち」を知りたいなら、ドラマではなくぜひ著書を手に取ってみてください。

原笙子の生い立ちのまとめ

  • 1933年(昭和8年)3月14日、京都の神官の家に生まれた
  • 本名は糸井治子(いとい はるこ)
  • 父・石葭城(いし・かじょう)は神官で舞楽を愛した人物
  • 5歳ごろから父をはじめとする民間指導者に舞楽を習い始めた
  • 小学生のころ一家で中国東北部の大連へ渡り少女期を過ごした
  • 終戦後も引き揚げ船に乗れず大連に留まり、困窮生活の中で舞を続けた
  • ソ連軍将校の前で舞い「ハラショー(素晴らしい)」と喝采を受け、これがペンネーム「原笙子」の由来となった
  • 1947年(昭和22年)に引き揚げ京都へ戻ったが生活は苦しいままだった
  • 母親の「あなたさえ生まれてなければ」という言葉に深く傷つき、家出を繰り返すようになった
  • 「不良少女」と呼ばれながらも舞楽への情熱は消えなかった
  • 21歳のとき父の紹介で元宮内庁楽師・豊昇三さんに師事し、本物の舞楽を基本から学んだ
  • 1957年、父とともに日本で唯一の女人舞楽「京都舞楽会」を設立し、男性中心の舞楽界に新風を吹き込んだ
  • 1978年、娘に自分の半生を伝えたいと6年かけて書き上げた著書『不良少女とよばれて』がベストセラーとなった
  • 1985年に兵庫県芦屋市に「原笙会」を設立し、世界各国での公演活動を展開した
  • 2005年10月7日、急性骨髄性白血病のため享年72歳で逝去。女人舞楽は夫・糸井孝さんらにより現在も継承されている

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