アングラ演劇の始祖と呼ばれた唐十郎さんについて、国籍を気にして検索する方が少なくありません。
調べていくと、国籍そのものを明記した公的資料はどこにも見当たらないんですよね。
その一方で、韓国説がどこから生まれたのかについては、はっきりとした心当たりがありました。
・唐十郎の国籍について公的資料で確認できることと、できないこと
・韓国説の出どころとみられる前妻・李麗仙のルーツと1975年の帰化
・出生地・本名・死没時の従四位など、出自をたどる手がかりの整理
唐十郎の国籍は公的資料で確認できるのか
「唐十郎さんの国籍って、実際どうなの?」と気になって検索した方が多いと思います。
ここでは、公表されている記録から確認できる範囲と、確認できない範囲をはっきり分けて整理していきますね。
国籍を明記した公的資料は確認できない
まず結論からお伝えします。
唐十郎さんの国籍を明記した公的資料や公式発表は、確認できませんでした。
これは「隠している」という話ではありません。
そもそも日本では、戸籍や住民票のような国籍が分かる書類は本人と一部の関係者しか取得できないんですよね。
芸能人や文化人の国籍が公式プロフィールに書かれることは、まずありません。
唐十郎さんの場合も同じで、Wikipediaにも、所属していた劇団唐組の発表にも、明治大学が2024年に出した追悼文にも、国籍についての記載は一切ありません。
つまり、ネット上で見かける「唐十郎の国籍は日本です」という断言は、どこかの公的資料を根拠にしたものではないんです。
ただし、公表されている記録を積み上げていくと、日本で生まれ育ち、日本国籍を前提とした栄典を受けた人物である、という輪郭は見えてきます。
ここから先は、その一つひとつを見ていきますね。
この記事で「確認できたこと」と「確認できないこと」
先に全体像を表で整理しておきます。
| 項目 | 状態 | 出典 |
|---|---|---|
| 国籍そのものの公式発表 | 確認できない | — |
| 出生地 | 東京府東京市下谷区下谷万年町(現・東京都台東区) | Wikipedia、コトバンク |
| 本名 | 大靏義英 | 明治大学 追悼文、Wikipedia |
| 死没時の叙位 | 従四位 | 内閣府関連資料、Wikipedia |
| 前妻・李麗仙のルーツ | 在日韓国人3世/1975年に日本国籍取得 | 東スポWEB、Wikipedia |
この表の1行目が「確認できない」であることが、この記事のいちばん大事なポイントです。
出生地は東京・下谷万年町という記録
唐十郎さんの生まれは、複数の資料で一致しています。
1940年(昭和15年)2月11日、東京府東京市下谷区下谷万年町の生まれです。
現在の住所でいうと東京都台東区、上野駅のすぐ近くにあたる場所ですね。
Wikipedia、コトバンク、ORICONのプロフィールなど、どの資料も同じ地名を挙げています。
生まれ育った家は、下谷万年町の八軒長屋と呼ばれる集合住宅でした。
ここ、ただの住所の話では終わらないんですよ。
下谷万年町がどんな町だったか
戦後の下谷万年町は、上野駅周辺で暮らす日雇いの人足や車夫、そして上野に出没した男娼たちが住みついた、かなり混沌とした下町だったと伝えられています。
唐十郎さんはのちに、この町の記憶をそのまま戯曲にしています。
『下谷万年町物語』というタイトルの作品で、1981年2月に西武劇場(現・PARCO劇場)で初演されました。
演出は蜷川幸雄さん、主演は当時の妻だった李麗仙さんです。
100人近い男娼役が舞台に登場する大がかりな作品で、まだ研究生だった渡辺謙さんも出演していました。
自分の生まれた町の名前を、そのまま代表作のタイトルに使っている。
……なんというか、この人にとって下谷万年町がどれだけ大きかったかが伝わってきますよね。
出身地について本人が語り、作品にまで残しているという点は、出自を確認するうえでかなり強い材料になります。
本名の大靏義英と表記ゆれの理由
唐十郎さんは芸名で、本名は別にあります。
本名は大靏義英(おおつる よしひで)さんです。
ここで少し混乱しやすいのが、資料によって表記が2つあることなんですよね。
| 表記 | 主な出典 |
|---|---|
| 大靏義英 | 明治大学 追悼文、Wikipedia |
| 大鶴義英 | ORICONなど一部の報道 |
「靏」と「鶴」は、同じ漢字の異体字です。
意味も読みも同じで、字体だけが違います。
ですので、この2つは別人ではなく、同一人物の表記ゆれと考えて問題ありません。
ただ、どちらが戸籍上の表記なのかを示す公的資料は確認できませんでした。
母校である明治大学の文学部が追悼文で「大靏義英」を使っていることから、こちらが本来の表記に近い可能性はあります。
とはいえ大学の掲示が戸籍を確認して書かれたものかは分からないので、断定はできません。
なお、息子さんの俳優・大鶴義丹さんは芸名として「大鶴」を使っています。
家族が公の場で使っている表記が「鶴」であることも、混乱のもとになっているのかもしれませんね。
死没時に従四位へ叙されたという記録
国籍を考えるうえで、いちばん見落とされがちなのがここです。
唐十郎さんは2024年5月4日に亡くなりましたが、その死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章が追贈されています。
「従四位」というのは位階のことで、勲章とは別の制度です。
そして制度上、位階の授与対象は日本国民とされています。
外国籍の方が功績によって勲章を受けることはありますが、位階が授与されることは制度上ありません。
つまり、従四位に叙されたという記録は、唐十郎さんが日本国籍だったことを示す間接的な裏づけになります。
ただ、これはあくまで制度の仕組みから読み取れる推測です。
「唐十郎の国籍は日本である」と発表した資料が存在するわけではないので、そこは分けて考えてくださいね。
生前の顕彰は2021年の文化功労者
ちなみに生前にも顕彰を受けています。
2021年、唐十郎さんは文化功労者に選ばれました。
戯曲の分野では、1970年に『少女仮面』で岸田國士戯曲賞、1978年に『海星・河童』で泉鏡花文学賞、1983年に『佐川君からの手紙』で芥川賞を受賞しています。
演劇と小説の両方で最高峰の賞を取っている作家って、ちょっと他に思いつかないんですよね。
韓国籍説の出どころは前妻・李麗仙
ここまで見てきたとおり、唐十郎さんご本人については韓国とのつながりを示す記録が出てきません。
では、なぜ「唐十郎 国籍」で検索する人が一定数いるのでしょうか。
たどっていくと、行き着くのは前妻である女優・李麗仙さんの存在です。
李麗仙さんは在日韓国人としてのルーツを公にしていた女優さんで、唐十郎さんとは1967年に結婚しています。
夫婦としての活動期間は長く、劇団「状況劇場」の看板女優として、唐十郎さんの作品の中心に立ち続けました。
離婚は1988年4月ですから、20年以上の結婚生活だったことになります。
夫婦がセットで語られる期間があまりに長かったぶん、妻のルーツが夫のルーツとして誤って受け取られた、という流れは十分に考えられます。
ただし、ここは慎重に書いておきますね。
配偶者が外国にルーツを持っていても、日本では結婚によって国籍が変わることはありません。
日本の国籍法には、結婚を理由に配偶者の国籍が自動的に変わるという規定がないんです。
ですので、李麗仙さんのルーツから唐十郎さんの国籍を推し量ることには、そもそも根拠がないことになります。
李麗仙は在日韓国人3世で1975年に帰化
誤解の出どころになった李麗仙さんについても、事実関係を整理しておきます。
推測ではなく、報道と本人の証言をもとにした記録が残っている部分です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出生名 | 李初子(り はつこ) |
| 生年月日 | 1942年3月25日 |
| 出身 | 東京府 |
| ルーツ | 両親は在日韓国・朝鮮人2世(本人は3世) |
| 日本国籍取得 | 1975年 |
| 取得後の本名 | 大靏初子 |
| 唐十郎との結婚 | 1967年(離婚は1988年) |
| 死去 | 2021年6月22日(肺炎・79歳) |
李麗仙さんは東京生まれで、ご両親は在日韓国・朝鮮人の2世にあたります。
つまり本人は3世という立場ですね。
Wikipediaによれば、ご両親は日本語しか話さなかったとされています。
帰化の背景にあった金大中事件
李麗仙さんが日本国籍を取得したのは1975年ですが、そこに至る経緯は東京スポーツが本人の証言として報じています。
きっかけは1973年でした。
バングラデシュへ渡航するためのビザを申請したところ、自分がブラックリストに入っていることが判明したというんです。
当時の李麗仙さんは、詩人の金芝河さんをはじめ、韓国の民主化運動に関わる人たちと交流がありました。
同じ1973年には、韓国の政治家・金大中氏が東京都内のホテルから拉致されるという事件も起きています。
家族の身に何かあってはいけない。
そう考えた李麗仙さんは、息子である大鶴義丹さんが小学校に入学するタイミングで帰化を決断しました。
そして1975年、日本国籍を取得。
このとき本名も、李初子から大靏初子へと変わっています。
……正直、読んでいて胸が重くなる経緯でした。
自分の名前を変える決断が、政治的な圧力から子どもを守るためだった、ということですから。
なお離婚後も、李麗仙さんと唐十郎さんは盟友としての親交が最後まで続いていたと報じられています。
長男・大鶴義丹の国籍も検索されている
「唐十郎 国籍」と並んで検索されているのが、長男の大鶴義丹さんについてです。
大鶴義丹さんは1968年生まれ。
父が唐十郎さん、母が李麗仙さんという組み合わせですから、ルーツに関心が向くのは自然な流れかもしれません。
ここで押さえておきたいのが、母である李麗仙さんが日本国籍を取得したのが大鶴義丹さんの小学校入学のタイミング=1975年だったという点です。
つまり大鶴義丹さんは、幼少期の途中から日本国籍の家庭で育ったことになります。
ただし、こちらについても本人の国籍を明記した公的資料や公式発表は確認できませんでした。
俳優として、また小説家として活動されている方ですが、プロフィールに国籍が書かれることはありません。
家族の記録から推測できる範囲にとどまる、というのが正確なところです。
唐十郎の国籍を調べる人向けの関連情報
ここからは、唐十郎さんの国籍を調べている方が一緒に検索している内容をまとめていきます。
家族・学歴・晩年まで、記録が残っている部分を中心に見ていきますね。
父は理研映画の監督だった大鶴日出栄
唐十郎さんの父・大鶴日出栄さんは、映画の世界の人でした。
理研科学映画(理研映画)で監督・プロデューサーを務めていたと記録されています。
科学映画というのは、教育や記録を目的とした短編映画のジャンルですね。
戦前から戦後にかけて、日本の映像文化を支えた分野です。
つまり唐十郎さんは、下谷万年町の長屋で育ちながら、家の中には映像制作の空気があったことになります。
母親については、詩人だったという記述が見られます。
ただこちらは単独のソースにしか出てこない情報なので、確定した事実としては扱えません。
それでも、父が映画、母が詩という環境だったとすれば、小学生のうちから脚本を書いていたという逸話にも納得がいくところはありますよね。
学歴は明治大学文学部の演劇学専攻
学歴は比較的はっきり記録が残っています。
| 段階 | 学校名 |
|---|---|
| 小学校 | 下谷区立坂本小学校 |
| 中学校 | 駒込中学校 |
| 高校 | 東邦大学付属東邦高等学校 |
| 大学 | 明治大学文学部文学科演劇学専攻(1962年卒業) |
注目したいのは大学の専攻です。
明治大学の文学部で、演劇学を専攻して1962年に卒業しています。
演劇を学問として学んだうえで、翌1963年には劇団「シチュエーションの会」を旗揚げしているんですよね。
その翌年には劇団名を「状況劇場」に改めます。
紅テントを張って公演するというスタイルで、アングラ演劇の始祖と呼ばれる存在になっていきました。
母校との関係は晩年まで続いた
唐十郎さんはのちに教える側にも回っています。
1997年から横浜国立大学の教授を務め、2005年に定年退職。
その後は近畿大学の客員教授を経て、2012年からは母校である明治大学の客員教授になりました。
2024年に亡くなった際、明治大学文学部が追悼文を掲出したのは、こうした縁があったからです。
家族は再婚した妻と3人の子供
家族構成も整理しておきますね。
李麗仙さんと1988年に離婚したあと、唐十郎さんは翌1989年に再婚しています。
| 続柄 | 名前 | 備考 |
|---|---|---|
| 前妻 | 李麗仙 | 1967年結婚・1988年離婚。女優 |
| 長男 | 大鶴義丹 | 1968年生まれ。俳優・小説家 |
| 後妻 | 萩原美和子 | 1989年に再婚 |
| 長女 | 大鶴美仁音 | 萩原美和子との子 |
| 次男 | 大鶴佐助 | 萩原美和子との子 |
子どもは3人で、長男・大鶴義丹さんだけが前妻の李麗仙さんとの子です。
長女の大鶴美仁音さんと次男の大鶴佐助さんは、後妻の萩原美和子さんとの間に生まれています。
3人ともが表現の世界に進んでいるという点は、この一家らしいところかもしれませんね。
死因は急性硬膜下血腫だった
唐十郎さんが亡くなったのは2024年5月4日です。
死因は急性硬膜下血腫で、享年84歳でした。
劇団唐組の発表によれば、亡くなったのは同日21時01分。
その3日前にあたる5月1日の午前中、自宅で転倒して東京都中野区内の病院に緊急搬送されていたと報じられています。
急性硬膜下血腫は、頭部への強い衝撃によって脳と硬膜の間に出血が起こる症状です。
高齢の方の場合、転倒がきっかけになることが少なくありません。
転倒から3日というのは、あまりにも急ですよね。
……84歳になってもテントを張り続けていた人の最期としては、あっけなさすぎる気がしてしまいます。
死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章が追贈されたのは、先ほど触れたとおりです。
世間の声はルーツより作品に集まった
訃報が伝えられたあと、演劇関係者やファンから寄せられた声を眺めていて気づいたことがあります。
国籍やルーツの話題は、ほとんど出てこないんですよね。
語られていたのは、紅テントの記憶、『少女仮面』や『下谷万年町物語』といった作品、そして寺山修司さんら同時代の表現者との関係でした。
明治大学文学部が掲げた追悼文でも、記されていたのは卒業生であり客員教授であったという事実と、その業績です。
「唐十郎 国籍」という検索が一定数ある一方で、実際に語られている唐十郎さん像はまったく別のところにある。
このギャップ自体が、答えのひとつなのかもしれません。
唐十郎の国籍のまとめ
- 唐十郎の国籍を明記した公的資料や公式発表は確認できない
- 国籍が公式プロフィールに記載されないのは芸能人・文化人では一般的
- 生まれは1940年2月11日、東京府東京市下谷区下谷万年町(現・東京都台東区)
- 育ったのは下谷万年町の八軒長屋で、のちに戯曲『下谷万年町物語』へ結実
- 本名は大靏義英で、「大鶴義英」表記は異体字による表記ゆれ
- どちらが戸籍上の表記かを示す資料は確認できない
- 2021年に文化功労者へ選出
- 2024年5月4日の死没日付をもって従四位に叙され旭日中綬章を追贈
- 位階の授与対象は日本国民とされ、これが日本国籍を示す間接的な裏づけになる
- 韓国籍説の出どころは前妻・李麗仙のルーツとみられる
- 李麗仙は東京生まれの在日韓国人3世で、1975年に日本国籍を取得
- 帰化の背景には金大中事件とブラックリスト入りの判明があったと報じられている
- 日本の国籍法に、結婚で配偶者の国籍が変わる規定はない
- 長男・大鶴義丹の国籍を明記した公的資料も確認できない
- 死因は急性硬膜下血腫で、5月1日の自宅での転倒がきっかけと報じられた

