木下博勝さんの実家がどこにあるのか、気になって検索された方が多いのではないでしょうか。
結論からいうと、実家は北海道深川市にあり、親戚のほとんどが医師という環境で育っています。
ただ、その実家との関係は決して甘いものではなく、結婚のときには1年間も母親と会えなかったというから、少し切なくなりますよね。
・木下博勝の実家がある場所と、実家が病院かどうかの答え
・父・母・弟という実家の家族それぞれの人物像と現在
・実家の厳しい教育に反発した高校時代と、結婚で空いた1年の距離
木下博勝の実家は北海道深川市の医師一家
まずは実家の場所と、そこで暮らしていた家族について整理していきます。
「実家は病院なのでは?」という疑問にも、この章で答えを出しますね。
実家があるのは北海道深川市
木下博勝さんの実家があるのは、北海道深川市です。
これはご本人の公式プロフィールや、出演番組の紹介ページ、事典類でも一致して記載されている情報なので、まず間違いありません。
深川市は北海道の内陸部、旭川市の西どなりに位置する街です。
札幌からも旭川からも少し離れた、田園の広がる落ち着いた土地といえばイメージしやすいでしょうか。
テレビでの都会的な立ち居振る舞いから、なんとなく首都圏出身だと思っていた方もいるかもしれません。
実際は北海道生まれ・北海道育ちで、高校まで地元で過ごしています。
つまり木下博勝さんの実家は、北海道深川市にある一般の住宅であり、現在もそこにお母様が暮らしています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1968年1月20日 |
| 出身地 | 北海道深川市 |
| 肩書 | 医師・大学教授・タレント |
| 妻 | ジャガー横田(2004年7月結婚) |
| 長男 | 木下大維志(2006年11月生まれ) |
山形の病院が実家だという噂について
ネット上では「実家は山形の病院ではないか」という書かれ方をしているのを見かけます。
ただ、これは実家の話ではなく、木下博勝さんが医師として山形県内の病院に勤務した時期があるという勤務歴の話が、いつの間にか実家の話にすり替わったものと考えられます。
出身地は複数の公式情報が北海道深川市で一致していますから、山形が実家という説は根拠が見当たりません。
実家は病院ではなく親戚に医師が多い家系
「医師になった人の実家=開業医」という連想は自然だと思います。
ですが木下博勝さんの場合、実家そのものが病院を経営していたという情報は確認できません。
一方で、ご本人が語っているのは親戚のほとんどが医師だったという環境です。
父親も病院に勤めていた人物で、家のなかに医療の話題があるのが当たり前だったわけですね。
ここは少しややこしいので分けて考えたいところです。
実家が病院を持っていたかどうかと、実家が医療に近い一族だったかどうかは、まったく別の話になります。
公開されている情報を並べると、前者を裏づけるものはなく、後者を裏づける本人の証言だけがある、という状態です。
実家は病院ではないものの、親戚に医師が並ぶ「医療が身近な家」だった、というのが実態に近いといえます。
跡を継ぐために医師になったのではなく、身近にあった医師の姿を見て自分で選んだ、という順番だったことになりますね。
5歳で医師を志した叔父の病院での体験
木下博勝さんが医師を目指すと決めたのは、なんと5歳のときだったと語っています。
きっかけは、叔父が営む病院に遊びに行ったときの出来事でした。
叔父が患者さんに注射を打ったところ、その患者さんが「先生、ありがとう」と礼を言ったのだそうです。
痛いことをされた人からお礼を言われる仕事がある。
幼い木下博勝さんはそこに強い衝撃を受け、なんて有難い、いい仕事なのかと感じたと振り返っています。
……5歳でそこまで見ているのか、と正直びっくりしませんか。
親戚に医師が多い実家という環境がなければ、この場面に立ち会うこと自体がなかったわけで、実家の空気がその後の人生を決めたともいえそうです。
父は病院勤めで21歳のときに52歳で他界
実家の父親については、病院に勤めていたという以上の詳細な職種は公表されていません。
医師だったのか、事務方だったのかまでは、はっきりした情報が見当たらない状態です。
ただ、家族のなかで大きな出来事として語られているのが、父親の早すぎる死でした。
父親が亡くなったのは、木下博勝さんが21歳、医学部の学生だったときのことです。
父親の年齢は52歳でした。
医学部に合格して、これから医師になるという道筋が見えたところでの別れです。
いちばん見せたかった相手に、医師になった姿を見せられなかったことになります。
これは、きつかっただろうなと思います。
木下博勝さんは後年、テレビ番組のなかで長く胸につかえていた思いとして、親父が死んだとき冷たい態度を取ったのではないか、申し訳なかったと思っている、という趣旨の言葉を口にしています。
20代前半の若さで親を看取ると、自分の振る舞いを何十年も反芻してしまうものなのかもしれません。
実家の父親は、医師を志すきっかけを与えながら、その完成を見ないまま52歳で世を去った人物でした。
父に勧められた柔道・相撲・スキー
幼少期の木下博勝さんは家にいることが多い子どもだったそうです。
それを見た父親が勧めたのが、柔道と相撲、そしてスキーでした。
北海道の暮らしらしいラインナップですよね。
このうち柔道と相撲は中学までで区切りをつけ、スキーだけは続けたと語られています。
体を動かす習慣を父親から手渡された形で、実家での父子関係を伝える数少ないエピソードのひとつです。
母は今も実家で暮らし東京行きを断った
実家の北海道深川市には、現在もお母様が暮らしているとされています。
木下博勝さんには8歳下の弟がいましたが、その弟が病気で亡くなったあと、母親は実家でひとり暮らしになりました。
心配した木下博勝さんは、東京で一緒に暮らそうと持ちかけたそうです。
ところが母親の答えは「一人が楽」というものでした。
息子の申し出を断って、住み慣れた土地に残る道を選んだわけですね。
寂しさよりも自分の生活のペースを取る、芯の強さのようなものを感じます。
一方で木下博勝さんの側は、お袋がいなかったら今の僕はいない、ありがたい気持ちでいっぱいだ、という感謝の言葉を残しています。
厳しく育てられた過去はあっても、母親への評価はまっすぐな感謝なんですよね。
実家に残るお母様と、東京で暮らす木下博勝さんという距離のある形が、今の実家の姿だといえます。
実家の厳しい教育に反発したバンド時代
実家の教育方針は、かなり厳しいものだったと伝えられています。
幼いころから医師になることを前提に、しつけも勉強も手を抜かない家庭だったということですね。
その反動が出たのが高校時代でした。
木下博勝さんは高校2年から3年にかけてバンドを結成し、ギターとボーカルを担当します。
当時はインディーズブームの真っただ中。
札幌のライブハウスに出演するようになり、北海道内では人気バンドと呼ばれる存在にまでなりました。
驚くのはその先で、レコードを2枚リリースしているというのです。
高校生のバンドがレコードを出すというのは、当時としても相当なことだったはずです。
なお、このバンドの名前はTranquilizerだったと紹介する記事もありますが、こちらは出典がひとつしか見当たらないため、参考程度に受け取っておくのがよさそうです。
そしてバンドに熱中しすぎた結果、志望していた医学部の受験には失敗してしまいます。
実家の厳しさに反発してバンドへ向かい、1年の浪人という代償を払ったのが木下博勝さんの10代でした。
優等生の一本道ではなかったんだな、と知ると少し親近感がわきませんか。
結婚に反対した実家と空いた1年の距離
実家との関係でもっとも大きな山場になったのが、2004年7月のジャガー横田さんとの結婚です。
木下博勝さんの母親は、この結婚に強く反対したと伝えられています。
理由として挙げられているのは、年齢差と職業でした。
ジャガー横田さんは木下博勝さんより年上で、しかも女子プロレスラー。
医師の家系という価値観のなかでは、受け入れるのに時間がかかったのだろうと推測できます。
結果として、母親は1年ものあいだジャガー横田さんと会おうとしませんでした。
ここは想像するだけで胸が締めつけられる部分です。
その1年が過ぎ、ようやく実現した対面は、わずか30分ほどのものだったといいます。
ただ、その短い時間で母親は「この人ならいい」と口にしたと伝えられています。
1年かけて構えていたものが、30分で解けたわけですね。
なお、家族が反対するなかで唯一この結婚を応援していたのが、8歳下の弟だったとされています。
実家との距離が最も開いたのは結婚の1年間で、その溝を埋めたのは長い説得ではなく、直接会った30分だったということになります。
木下博勝の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家と合わせてよく調べられている弟・学歴・勤務先・息子についてまとめていきます。
実家の話とつながる部分も多いので、あわせて読むと人物像がぐっと立体的になりますよ。
8歳下の弟は2011年に35歳で他界
木下博勝さんには8歳下の弟がいました。
弟は北海道の実家で母親と一緒に暮らし、レストランの店長として働いていたと伝えられています。
兄弟仲は、若いころは荒っぽかったようです。
大学生のころには一緒に暮らしていた時期があり、喧嘩をして弟が家を飛び出し、一時行方が分からなくなったこともあったといいます。
それが大人になってからは、年に数回一緒に酒を飲む関係に落ち着いたそうです。
兄の結婚を家族で唯一応援したのもこの弟でした。
優しくて人を大切にする性格で、友人が多い人物だったと語られています。
その弟が病気で亡くなったのが2011年3月、35歳のときでした。
具体的な病名や死因は公表されていません。
ご遺族の心情を考えれば、そこは伏せられて当然の部分だと思います。
弟の死によって実家には母親ひとりが残り、木下博勝さんが東京での同居を勧めたのも、この出来事がきっかけでした。
深川西高校から杏林大学医学部へ進んだ学歴
実家のある深川市で、木下博勝さんは高校まで過ごしています。
進学先は地元の北海道深川西高等学校。
前述のとおりバンド活動に打ち込んだ影響で現役では医学部に届かず、1年の浪人を経験しました。
浪人時代に通ったのが両国予備校だとされています。
その後杏林大学医学部医学科に進学し、1994年5月に医師国家試験に合格しています。
さらに東京大学大学院医学系研究科の博士課程へ進み、2007年9月に博士(医学)の学位を授与されました。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 高校 | 北海道深川西高等学校 |
| 浪人 | 1年(両国予備校) |
| 大学 | 杏林大学医学部医学科 |
| 1994年5月 | 医師国家試験に合格 |
| 大学院 | 東京大学大学院医学系研究科博士課程 |
| 2007年9月 | 博士(医学)の学位を取得 |
実家のある深川市の高校から、浪人を挟んで医学部、さらに東大の大学院へと進んだのが木下博勝さんの学歴です。
現在の勤務先はさいたま新都心のクリニック
医師としての歩みも整理しておきますね。
癌研究会の研究生を経て、東京大学医学部附属病院の第一外科に勤務。
その後は所沢胃腸病院(現在の佐々木記念病院)で副院長を務めるなど、複数の病院を渡り歩いています。
2009年4月には鎌倉女子大学家政学部の教授に就任し、医師と大学人という二つの顔を持つようになりました。
現在は同大学の学術研究所教授です。
そして2020年11月にはさいたま新都心でジャガークリニックを開業しています。
クリニックの名前に妻の名が入っているのが、なんだかいいですよね。
実家を出てから30年以上を経て、木下博勝さんは自分の名前で診療の場を持つところまで進んだことになります。
息子の木下大維志も医学部を目指している
木下博勝さんとジャガー横田さんの長男が、木下大維志さんです。
2006年11月にハワイ州ホノルルで誕生しました。
受験の様子がテレビで取り上げられたこともあり、顔と名前を知っている方も多いのではないでしょうか。
その大維志さんは2025年3月に高校を卒業し、医学部への進学を目指していることを明らかにしています。
周囲に流されたわけではないという意味で、自分の希望だと本人が説明している点が印象的でした。
木下博勝さんが5歳で医師を志したことを思い出すと、親子で似た道を選んでいるのが分かります。
実家の親戚に医師が多かった家系の流れが、息子の代にもつながろうとしているわけですね。
妻ジャガー横田が語った親子の距離感
実家との関係について、外から見た証言を残しているのが妻のジャガー横田さんです。
ジャガー横田さんは、木下博勝さんと母親の関係を「ドライな親子」と表現しています。
実際、同居の提案は断られていますし、結婚のときには1年会わない時期もありました。
べったりした距離ではないのは確かだと思います。
ただ、木下博勝さんが母親への感謝を公の場で口にしていることを合わせて考えると、冷えているというより、それぞれが自立していると表現するほうが近い気がします。
ちなみに夫婦としては、2007年に講談社主催のナイス・カップル大賞を受賞しています。
実家からは反対されたところから始まった結婚が、世間から表彰されるところまで来たと考えると、なかなか感慨深いものがありますよね。
実家との距離は近くないものの、断絶しているわけではないというのが、木下博勝さんと実家の関係の実際のところです。
木下博勝の実家のまとめ
- 実家があるのは北海道深川市で、現在も母親が暮らしている
- 実家そのものが病院を経営していたという情報は確認できない
- 親戚のほとんどが医師という医療に近い家系だった
- 父親は病院勤めで、具体的な職種は公表されていない
- 父親は木下博勝が21歳・医学部生のときに52歳で他界した
- 父親の勧めで柔道・相撲・スキーを習い、スキーだけ続けた
- 5歳のとき叔父の病院での出来事がきっかけで医師を志した
- 実家の教育は厳しく、高校時代にその反動でバンドを結成した
- 札幌のライブハウスに出演しレコードを2枚出したとされる
- バンドに熱中して医学部受験に失敗し、1年浪人している
- 2004年のジャガー横田との結婚に母親は反対し、1年会わなかった
- 1年後の30分の対面で母親は「この人ならいい」と認めたとされる
- 8歳下の弟はレストランの店長で、2011年に35歳で病気により他界した
- 弟の死後、東京での同居を勧めたが母親は「一人が楽」と断った
- 山形の病院が実家という説は、勤務歴の話と混同されたものとみられる

