江副浩正の家系図|父は厳格な数学教師、実母は父の教え子だった|終戦後に現れた継母と異母弟

江副浩正の家系図|父は厳格な数学教師、実母は父の教え子だった|終戦後に現れた継母と異母弟

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リクルートを一代で築き上げ、のちにリクルート事件で逮捕された実業家・江副浩正さん。

その家系図をたどると、経営者の華やかな家柄とはまるで違う風景が出てきます。母の記憶がない幼少期、住み込みの家政婦、戦時中の疎開、そして終戦後に父の家で待っていた見知らぬ家族。

江副浩正さんの家系図は、一本の線ではなく「実母の家」と「継母の家」という二つの層が重なった形をしています。ここを整理すると、なぜ彼があれほど会社という共同体づくりに執着したのかが見えてきます。

この記事を読むとわかること
・江副浩正さんの父・実母・継母それぞれの人物像と関係
・終戦後の父の家で始まった、継母と異母弟との同居生活
・妻・江副碧さんの実家と、娘についてどこまで確認できるか

江副浩正の家系図|父・実母・継母が重なった生家のかたち

江副浩正さんの家系図でまず押さえたいのは、父方の系統と、幼くして離れた実母の系統が早い段階で切れているという点です。

そこへ戦後、継母と異母弟という新しい枝が加わります。順に見ていきます。

家系図を一枚に整理するとこうなる

確認できている範囲で、江副浩正さんの家族関係を並べるとこうなります。

・祖父(父方)……佐賀県の公務員。戦時中の疎開先
・父……江副良之さん。中学校の数学教師
・実母……マス子さん。旧姓は菊川。良之さんの教え子
・継母……終戦後に父が迎えた女性。名前は公表されていない
・異母弟……継母との間の子。詳細は非公開
・本人……江副浩正さん(1936年6月12日生まれ)
・妻……江副碧さん。大阪の実業家・西田巳喜蔵さんの娘
・子……娘が2人いるとされる

教師の家系であり、実業家の血筋ではありません。リクルートという会社は、この家系図のどこからも引き継がれていない、江副浩正さん一代のものだといえます。

父・江副良之は厳格な中学校の数学教師だった

江副浩正さんの父・江副良之さんは、中学校で数学を教える教師でした。佐賀県の出身で、大阪の学校にも赴任しています。

人物像として繰り返し語られるのが、その厳格さです。江副浩正さんの少年期を扱った文章では、ほぼ例外なく「大変厳しい父」として登場します。

のちに通うことになる甲南中学校は、関西の資産家の子弟が多く集まる学校でした。そのなかで江副浩正さんは「数学教師の息子」という、経済的にはむしろ地味な側に立っていたことになります。

この立ち位置が、後年の強烈な上昇志向の出発点になったと見る向きは多いです。

実母・マス子は父の教え子|旧姓は菊川、愛媛の出身

江副浩正さんの実母は、マス子さんという女性です。旧姓は菊川。

マス子さんは、父・良之さんが最初に赴任した今治実科高等女学校の教え子でした。つまり両親は、教師と生徒という関係から始まっています。

江副浩正さんが生まれたのは1936年6月12日。生誕地については、母の郷里である愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)とする記述と、大阪市天王寺区とする記述の両方が流通しています。母方の実家で産んだ後に大阪の家へ入った、という流れであれば両方の記述は矛盾しません。

いずれにせよ、江副浩正さんの家系図の母方の枝は、愛媛の今治から伸びています。

母の記憶がない幼少期|育てたのは住み込みの家政婦だった

ところが江副浩正さんには、実母マス子さんの記憶がありません。

マス子さんは病気のために実家へ戻り、そのまま江副家から離れてしまったためです。幼い江副浩正さんの世話をしたのは、住み込みの家政婦でした。

両親はその後離婚し、父・良之さんが息子だけを引き取ったと伝えられています。父に愛人がいたことが離婚の背景にあったという記述も見られますが、当事者による証言として確認できる形では残っていません。

家系図の上では実母がいる。しかし本人の記憶のなかにはいない。江副浩正さんの家庭は、最初からこの空白を抱えていました。

祖父の家がある佐賀へ疎開|戦災で大阪の家を失う

江副一家はその後、大阪市天王寺区に移ります。しかし戦災でこの家を失いました。

疎開先となったのが、父の出身地である佐賀市。江副浩正さんの祖父は佐賀で公務員をしており、その家に身を寄せています。

佐賀での暮らしは小学校4年まで続きました。父方の実家が受け皿になったという点で、この時期の江副浩正さんは完全に父方の家系のなかにいたことになります。

のちに東京大学へ進んでからも、佐賀県に縁のある松濤学舎という寮に入っています。佐賀とのつながりは、大学時代まで残っていました。

終戦後に父のもとへ戻ると、継母と異母弟がいた

江副浩正さんの家系図で最も重い部分が、ここです。

終戦後、父のもとへ戻った江副浩正さんを待っていたのは、新しい継母と、その間に生まれた異母弟でした。さらに家には、まったく見知らぬ女性も同居していたと伝えられています。

母を知らない少年が戻った先に、自分の知らない家族ができあがっていた。当時の空気は「奇妙で重苦しい」という言葉で表現されています。

継母と異母弟について、名前や現在の消息といった情報は公表されていません。江副浩正さんが晩年まで、この時期について多くを語らなかったこととも関係しているとみられます。

栄養失調と診断された少年期|「私をハングリーな人間にした」

戦後の江副家は経済的にも苦しく、江副浩正さん自身が栄養失調と診断されるほどでした。

この時期を、本人は後年こう振り返っています。飢餓と貧しさの体験が「私をハングリーな人間にした」と。

裕福な家に生まれた二世経営者ではなく、家庭にも食事にも恵まれない少年期を通過した人物である。江副浩正さんの家系図を追う意味は、結局のところこの一点に集約されます。

豊中の小学校から甲南中学・高校、そして東京大学へ

佐賀での疎開生活を終えた後、一家は大阪府豊中市へ移ります。

江副浩正さんは豊中市立克明小学校を経て、甲南中学校・高等学校へ進学しました。当時の同級生の証言として残っているのは「スポーツでも飛び抜けたところはなく、印象らしい印象を残していない」という評価です。

その後、東京大学教育学部教育心理学科へ進み、1960年3月に卒業。在学中に東京大学新聞で広告営業に携わったことが、求人情報誌『企業への招待』の創刊、そして大学広告社(後のリクルート)の創業につながっていきます。

家系図のなかに商売人はいません。教師の家から出た息子が、大学新聞の広告営業を入り口にして事業家になった、という筋道です。

江副浩正の妻と子供|自分でつくった家族の家系図

生家に恵まれなかった江副浩正さんが、自分で築いた家族についても見ておきます。

ここは公開されている情報が限られており、確度に差があります。確認できる範囲とそうでない範囲を分けて整理します。

妻・江副碧の実家は大阪螺子製作所|父は西田巳喜蔵

江副浩正さんの妻は、江副碧さんです。

碧さんは大阪の出身で、実家はボルトやナットを製造する大阪螺子製作所を経営していました。父の西田巳喜蔵さんは、茨木市の商工会議所で会頭を務めたこともある実業家です。

江副浩正さんの家系図に事業家が入ってくるのは、この婚姻からです。教師の家に生まれた江副浩正さんが、製造業を営む家と縁を結んだという構図になります。

妻も経営者だった|国際教養情報誌を出す会社を率いる

江副碧さんは、創業者の妻という立場にとどまってはいませんでした。

国際教養情報誌『エピック・ワールド』を出版する会社を自ら経営しています。出版事業という点では、夫と同じ土俵に立っていたことになります。

なお、江副浩正さんには離婚歴があることが公的な記述として残っています。晩年をどのような家庭状況で過ごしたのかについては、公表されている情報が少なく断定できません。

子供は娘が2人とされる|リクルート事件を支えたのは下の娘

江副浩正さんの子供については、娘が2人いるとする情報が複数の媒体で一致しています。

次女は敬子さんという名前で、デザインの分野で活動しているとされます。「TAKANE」という名で表現活動をしている人物と同一ではないかという説もありますが、こちらは裏付けが取れていません。

語られることが多いのは、リクルート事件の後に江副浩正さんを励まし続けたのが下の娘だったという話です。社会的に最も追い詰められた時期を支えたのが家族だったという点は、生家との対比としても印象に残ります。

「息子がいる」という情報は裏付けが確認できない

検索候補には「江副浩正 息子」という組み合わせも出てきます。

ただし、息子の存在を示す一次的な資料は見当たりません。息子がいるとする記述はあるものの、出典が示されていないケースがほとんどです。

家系図として確実に言えるのは、娘がいるという点まで。孫の有無についても、公表された情報はありません。

最期は東京駅での転倒がきっかけだった

江副浩正さんは2013年1月31日、盛岡から乗った東北新幹線が東京駅に到着した際に転倒し、後頭部を強打します。

そのまま回復せず、2月8日に肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。76歳でした。

母の記憶がないまま始まり、継母と異母弟のいる家で少年期を過ごした人生は、ここで幕を閉じています。

まとめ|江副浩正の家系図は「実母の不在」から始まっている

江副浩正さんの家系図について、確認できたことを整理します。

・父は江副良之さん。中学校の数学教師で、非常に厳格な人物だった
・実母はマス子さん(旧姓・菊川)。父が最初に赴任した今治実科高等女学校の教え子
・実母は病気で実家に戻り、本人には母の記憶がない。育てたのは住み込みの家政婦
・戦時中は父の出身地である佐賀の祖父(公務員)の家へ疎開し、小学4年まで過ごした
・終戦後に父のもとへ戻ると、継母と異母弟、さらに見知らぬ女性が同居していた
・栄養失調と診断されるほど困窮し、本人はこの体験が「私をハングリーな人間にした」と語っている

その後は豊中市立克明小学校から甲南中学校・高等学校を経て東京大学教育学部へ進み、大学新聞の広告営業を足がかりにリクルートを創業しました。家系図のなかに実業家はおらず、事業の才は誰からも受け継いでいません。

自身の家族としては、大阪螺子製作所を営む家の娘・江副碧さんと結婚。碧さんも出版社を経営し、娘が2人いるとされています。一方で息子の存在や孫については、裏付けの取れる情報が見当たりませんでした。

継母と異母弟の名前や現在も公表されていません。家系図として描ける部分と、意図的に語られてこなかった部分。その両方があることまで含めて、江副浩正さんという人物の生家のかたちだといえます。

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