小泉八雲の家系図をたどると、実はアイルランドの牧師の家系からギリシャ、そして日本の松江まで、世界を旅するような壮大な物語が広がっているんです。
両親との悲しい別れや、大叔母に育てられた少年時代、そして松江で出会った小泉セツさんとの結婚まで、知れば知るほど胸を打たれるエピソードばかりですよ。
この記事では、小泉八雲の家系図を先祖から現在の子孫まで、順を追ってわかりやすく解説していきます。
・小泉八雲の両親や兄弟、大叔母との知られざる家族関係
・小泉セツとの結婚で築いた三男一女の子どもたちのこと
・曾孫の小泉凡や玄孫の守谷天由子など現在の子孫の様子
小泉八雲の家系図にみる家族の歴史
小泉八雲、本名ラフカディオ・ハーンの家系図は、実はアイルランドの遠い先祖からギリシャ、そして日本の松江へと世界中をまたにかけたスケールの大きなものなんです。
ここでは八雲さんの両親から子どもたちまで、家系図の中身を詳しく見ていきます。
家系図の全体像とハーン家の系譜
小泉八雲、本名パトリック・ラフカディオ・ハーンの家系図をたどると、実はアイルランドの遠い先祖にまでさかのぼることができるんです。
英文学者の田部隆次が1914年に出版した『小泉八雲 ラフカディオ・へルン』という伝記には、家族・親戚・先祖の名前が細かく記されていて、そこから家系図を読み解くことができます。
直接つながりをたどれる最も古い先祖は、高祖父にあたるダニエル・ハーンという人物です。
ダニエルは1731年に英国から渡ってきたアイルランド総督付きの牧師だったと伝えられています。
さらにさかのぼると「サー・ヒュー・ド・ヘルン(ハーン)」という、イギリス北東部ノーサンバーランド州フォードに居城を構えていた人物の名前も登場します。
この人はケルト人とサクソン人の混血とされていて、記録に残っている中では最も古い祖先ということになるそうです。
正直、こんなに遠い先祖の記録まで残っているとは、ちょっと驚きですよね。
つまり小泉八雲の家系図は、遠くアイルランドの牧師の家系から、ギリシャ、そして最終的に日本の松江へとつながる、世界を股にかけた系譜だということがわかります。
ちなみに祖父はダニエル・ジェイムズ・ハーンという軍人で、スペインとのビトリア戦争時に第四十三連隊長を務めた大佐でした。
曽祖父はロバート・ハーン、祖母はエリザベス・ホームズという名前が伝えられています。
こうした先祖の存在があって、のちに父チャールズ・ブッシュ・ハーンが生まれ、小泉八雲へとつながっていくわけです。
両親の出会いと別離
父はチャールズ・ブッシュ・ハーン(1818〜1866年)、アイルランド・ダブリン出身で、地元の医学部を卒業してイギリス陸軍の軍医補になった人です。
母はローザ・アントニウ・カシマチ(1823〜1882年)、ギリシャ・イオニア諸島キシリ島出身で、地元の名士を父に持つ裕福で美しい女性だったとされています。
赴任先のギリシャでチャールズとローザは恋に落ち、駆け落ち同然の結婚のすえ、1850年6月27日、ラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が生まれました。
ところが、夫チャールズは軍務で忙しくほとんど家に帰れず、ローザはほぼワンオペ育児の状態だったといいます。
ラフカディオが2歳になると、夫の故郷アイルランド・ダブリンへ移住しますが、地中海育ちのローザは寒く陰鬱な北国の気候や言葉に馴染めず、次第に精神を病んでいきました。
第3子を身ごもると、静養を理由にギリシャへ帰されてしまい、出産直後には夫チャールズから結婚無効の申し立てを受けてしまいます。
正直、読んでいて胸が痛くなる話ですよね。
その後ローザはイタリア系男性と再婚しますが、生まれたばかりの息子は乳母とともにアイルランドへ返されることになりました。
結局、ラフカディオが最後に母と会ったのは、弟の里帰り出産の前、4歳のときだったといいます。
ローザはその後どんどん宗教に傾倒し、躁うつ病と診断されて、晩年の10年間を精神病棟で過ごしたそうです。
一方の父チャールズも、黄熱病にかかって帰省した際に初恋の女性アリシア・ゴスリン・クロフォードと再会し、身重の妻ローザとの結婚無効を申し立てて、アリシアと連れ子を連れてインドへ赴任してしまいます。
ラフカディオが最後に父と会ったのは7歳のときで、生涯、自分たちを捨てた父を許すことはなく、インドからの手紙にも一度も返事を書かなかったと伝えられています。
つまり小泉八雲は、幼いころに両親どちらとも生き別れ、家庭の温かさを知らないまま少年時代を過ごすことになったのです。
兄と弟の存在
小泉八雲には、実は兄と弟がいたことをご存知でしょうか。
兄のジョージ・ロバート・ハーンは、ラフカディオより1歳上でしたが、ラフカディオが誕生してから1ヶ月半後という早い時期に病死してしまったそうです。
弟のジェイムズ・ダニエル・ハーンは、ラフカディオより4歳年下で、母ローザがアイルランドからギリシャへ里帰りした際に生まれました。
母の再婚の条件としてアイルランドに返されたジェイムズは、ラフカディオが大叔母に引き取られたのと同じ時期に、大叔母の婿が経営する学校に送られて16歳まで過ごしています。
その後、兄弟ともにまったく会うことも連絡を取ることもないまま、ジェイムズも渡米し、偶然にも兄と同じオハイオ州ギブスンバーグという町で農業を営んでいたというから驚きです。
著名になったラフカディオは、弟ジェイムズからの手紙で初めてその事実を知ったと伝えられていて、なんとも数奇な兄弟の縁ですよね。
また、父チャールズと後妻アリシアとの間には、エリザベス、ポージー、ミンニー・アトキンソンという3人の異母妹がいました。
エリザベスとポージーはラフカディオが手紙を送っても返事をもらえなかったそうですが、ミンニーとは書簡のやり取りが続いていたようです。
ミンニーは1909年、ラフカディオの死から5年後に、娘のドロシーを連れて来日し、東京西大久保の小泉家を訪ねてお墓参りをしています。
異国から遠路はるばる訪ねてきたミンニーさんのことを思うと、なんだかしみじみするものがありますね。
大叔母に育てられた幼少期
両親と離ればなれになったラフカディオを引き取ったのが、父方の大叔母にあたるサラ・ブレナンという女性です。
サラは祖母エリザベス・ホームズの妹で、子どものいない裕福な未亡人であり、敬虔で厳格なカトリック信者でもありました。
ダブリンで精神を病んだローザとラフカディオ親子の面倒をみたうえ、両親が離婚したあとはラフカディオを引き取り、夫の遺した莫大な資産を継がせるために厳格な宗教教育を施したといいます。
ただ、この厳しい宗教教育が裏目に出て、ラフカディオにキリスト教への反感を植え付けてしまったというのは、なんとも皮肉なエピソードです。
さらに、サラは遠縁にあたるヘンリー・モリヌーという青年実業家の事業に投資をして失敗し、1866年に破産してしまいます。
破産のあおりを受けてラフカディオは全寮制神学校の退学を余儀なくされ、大叔母のもとには戻らず、送られてきたお金でアメリカへと渡りました。
その後、大叔母サラと二度と会うことはなく、1871年、ラフカディオはブレナン夫人が亡くなったという知らせを受け取ったそうです。
育ての親であった大叔母との別れも、若きラフカディオにとって大きな人生の転機だったといえるでしょう。
最初の結婚と離婚
大叔母のもとを離れて渡米したラフカディオは、シンシナティの下宿屋で暮らしていた時期に、アリシア(マティ)・フォリーという料理人の女性と出会います。
マティは、黒人奴隷と白人農場主の間に生まれた混血の女性でした。
1874年、ラフカディオ24歳のときから同棲を始め、翌1875年、周囲の反対を押し切って結婚したとされています。
ところが、当時のオハイオ州法では異人種間結婚が禁じられており、この結婚がもとでラフカディオは職を失ってしまいました。
夫婦仲もその後冷え込み、結婚からわずか2年、1877年に破局を迎えています。
これは、のちに日本で家庭を築く八雲さんにとって、若き日の苦い経験だったのではないでしょうか。
松江で出会った小泉セツとの結婚
1890年、ラフカディオはアメリカの出版社の通信員として来日しますが契約は破棄され、英語教師として島根県松江の学校に赴任することになります。
そこで出会ったのが、松江藩士・小泉湊の次女として生まれた小泉セツ(1868年2月4日〜1932年2月18日)でした。
セツさんは生後まもなく親類の稲垣家へ養女に出され、「お嬢」と呼ばれて大切に育てられますが、稲垣家が没落してしまい、思うように進学もできなかったといいます。
18歳で士族の前田為二さんと結婚するものの、その結婚は解消となり、22歳で小泉家に戻ったのち、一人暮らしをしていたラフカディオの家に住み込み女中として働き始めました。
「怪談好き」という共通点のあった2人は意気投合し、同居から半年後の1891年8月、ラフカディオ41歳・セツさん23歳で結婚します。
セツさんとは「パパさん」「ママさん」と敬意と愛情を込めて呼び合い、「ヘルン言葉」と呼ばれる独特の日本語で会話していたというエピソードは、なんだか微笑ましいですよね。
1896年に日本へ帰化した際には「小泉八雲」を名乗りますが、この「八雲」という名前は、出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」にちなんで義父(セツさんの父)が名付けたものだそうです。
結婚によって、それまでずっと一人身だったラフカディオは、セツさんの実母や養父母を含む大家族を養う家長となりました。
三男一女の子どもたち
セツさんとの間には、三男一女、合わせて4人の子どもが生まれています。
下の表に、それぞれの生まれた年と簡単なプロフィールをまとめました。
| 続柄 | 名前 | 生年 | 特記事項 |
|---|---|---|---|
| 長男 | 小泉一雄 | 1893年 | 『父小泉八雲』の著者。早稲田大学卒業 |
| 次男 | 稲垣巌 | 1897年 | 4歳で稲垣家の後継に。40歳で死去 |
| 三男 | 小泉清 | 1899年 | 洋画家。62歳で死去 |
| 長女 | 小泉寿々子 | 1903年 | 3歳のとき脳髄炎を患う |
小泉八雲が1904年に54歳で亡くなったとき、長男一雄さんは10歳、次男巌さんは6歳、三男清さんは4歳、そして長女寿々子さんはわずか1歳でした。
長男一雄さんが著書『父「八雲」を憶う』の中で「父が逝いたのは私が数え年十二歳の秋でしたから」と振り返っているように、子どもたちにとって八雲は厳かな学者ではなく、優しく、時にユーモラスで子どものような心を持つ、愛する父だったようです。
つまり小泉八雲は、若い頃に家庭を失った経験を経て、晩年になってようやく心から愛する妻と子どもたちに囲まれた家庭を築くことができたのです。
読んでいて、なんだかじんわりしてしまうエピソードですよね。
小泉八雲の家系図を調べる人向けの関連情報
ここからは、家系図の本筋からもう一歩踏み込んで、現在の子孫や関連する家族の情報、そして話題の朝ドラとの関係についてもまとめて紹介していきます。
子孫は現在どうしているか
小泉八雲の子孫は、長男・一雄さんの家系(小泉家)と、次男・巌さんの家系(稲垣家)で、それぞれ現在も続いているとされています。
現在、名前を挙げて紹介されることが多いのが、曾孫にあたる小泉凡さんと、玄孫にあたる守谷天由子さんのお二人です。
それぞれどんな活動をされているのか、詳しく見ていきましょう。
曾孫・小泉凡の活動
小泉凡さんは1961年、東京都世田谷区生まれの民俗学者です。
長男・一雄さんの息子である小泉時さんの長男として生まれ、八雲から数えると曾孫(ひ孫)にあたります。
成城大学で民俗学を専攻したのち、1987年に八雲ゆかりの地・島根県松江市へ移住し、島根県立大学短期大学部で教鞭を執ってきました。
現在は同大学の名誉教授で、小泉八雲記念館にも深く関わっており、館の運営や展示の刷新にも携わってきたとされています(肩書きは顧問または館長と紹介されることが多く、情報源によって表記に差があるようです)。
2017年には、日本とアイルランドの友好親善への貢献が認められ、小泉祥子さんとともに外務大臣表彰を受賞しています。
著書『怪談四代記―八雲のいたずら』では、八雲から子孫へと語り継がれてきた怪異なエピソードがつづられていて、八雲の精神性が今も家系の中に息づいていることがうかがえます。
玄孫・守谷天由子の活動
守谷天由子さんは、小泉八雲の五代目・玄孫にあたる方で、次男・稲垣巌さんの家系に連なっています。
現在はジュエリーデザイナーとして活動されていて、「小泉八雲の好奇心を受け継ぎ世界を2周した末裔のブログ」を運営し、八雲ゆかりの地を巡る旅の様子を発信しています。
ご主人はアイルランド人で、「ラフカディオ・ハーンの庭園」のスタッフをされているそうです。
八雲の足跡をたどる旅の途中、大叔母サラ・ブレナンの別荘地があったアイルランドのトラモアという場所でご主人と出会ったというエピソードも伝えられていて、まるで八雲さんが引き合わせたご縁のようで素敵ですよね。
妻・小泉セツ自身の家系図
小泉セツさんは、1868年に出雲・松江藩の家臣である小泉家に生まれ、父は小泉弥右衛門湊さん、母はチエさんという方でした。
生後7日目という早さで、子どものいなかった親類の稲垣家に養女に入り、大切に育てられます。
18歳で前田為二さんを婿に迎えますが、前田さんが家を出てしまい、22歳で婚姻を解消して小泉家に戻りました。
そして1891年、単身で暮らしていたラフカディオ・ハーンの家に住み込み女中として働き始め、同じ年の8月に結婚しています。
なお、セツさん自身の実家(小泉家・稲垣家)や、養家である稲垣家、さらにゆかりのある高浜家をめぐる家系図はかなり複雑で、松江藩の上級武士の家系にまつわる人物が多岐にわたっています。
セツさん側の詳しい家系図については専門的に扱っている記事も多いので、興味のある方はあわせて調べてみるのもおすすめです。
夫の死後は、遺言によって全財産を譲られたこともあり、三男一女を育てながら生活には困らなかったとされ、1932年に64歳で亡くなりました。
次男・稲垣巌の家系図
次男の稲垣巌さんは1897年2月15日生まれで、蛙が苦手で長身のイケメンだったと伝えられています。
4歳のときにセツさんの養母・稲垣トミさんと養子縁組を結び、稲垣家の後継になりました。
長男・一雄さんの回想によると、幼少期は元気で闊達な子どもだったようです。
成長した巌さんは、妻となる翠さんと大恋愛の末に結ばれますが、出席日数が足りず京都帝国大学工学部を除籍になってしまいます。
翌年、娘の八重子さんが誕生すると、今度は京都帝国大学文学部に入り直し、英語教師になりました。
ですが、その後ある令嬢との実らない恋に落ちてしまい、妻子は巌さんのもとを去っていったといいます。
その後、巌さんはがんにより40歳という若さで、孤独な死を迎えました。
正直、これはなかなかつらい人生ですよね。
巌さんの子孫としては、息子の稲垣明男さん(その子に明浩さん・つくしさん)、娘の種市八重子さん、もう一人の娘・佐々木京子さんがいて、京子さんの長男の家系が、玄孫にあたる守谷天由子さんにつながっています。
長男・小泉一雄の人物像
長男の小泉一雄さんは1893年11月17日生まれで、著書『父小泉八雲』などを通して、父・八雲の姿を後世に伝えた人物です。
早稲田大学を卒業したのち、父の親友であるマクドナルドさんが経営する横浜グランドホテルに勤務しました。
栗色の髪と青い目、父親似の鼻を持っていた一雄さんを、八雲は夢中で可愛がっていたそうです。
名前の由来は「ラフカディオ」の「カディオ」という音からきているといわれています。
父の死後は、遺稿の整理や書簡集の編集などにも携わり、教え子たちの思い出の中でも人格円満な良き教師として語られています。
一雄さんの息子が小泉時さんで、その長男が、現在も八雲の思想を伝える活動を続けている小泉凡さんです。
朝ドラばけばけとの関係
2025年後期のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」は、小泉セツさんと小泉八雲さんの夫婦をモデルにした作品として放送され、話題になりました。
ヒロイン・松野トキのモデルが小泉セツさん、そしてヒロインの夫であるレフカダ・ヘブン(演:トミー・バストウ)のモデルが小泉八雲さんです。
ドラマでは、幼少期の家族との別れや、松江での出会い、そして家庭を築いていく様子が描かれ、多くの視聴者が2人の実話に興味を持つきっかけになりました。
ドラマをきっかけに「小泉八雲 家系図」で検索する人が増えたのも、こうした背景があってのことなんですね。
知ったときびっくりしませんでしたか、実はこんなに壮大な家族の物語がドラマの裏側にあったなんて。
小泉八雲の家系図のまとめ
- 小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンである
- 高祖父ダニエル・ハーンまで家系図をさかのぼることができる
- 父はアイルランド出身の軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンである
- 母はギリシャ出身のローザ・アントニウ・カシマチである
- 両親は八雲が幼いころに離婚し、それぞれと生き別れになった
- 兄ジョージは誕生から間もなく病死し、弟ジェイムズとは長年音信不通だった
- 父の再婚相手との間に3人の異母妹がいた
- 大叔母サラ・ブレナンに引き取られ厳格な教育を受けて育った
- 最初の結婚相手はアリシア(マティ)・フォリーで2年で離婚した
- 1891年、松江で出会った小泉セツと結婚した
- 帰化して名乗った「小泉八雲」の八雲は義父が名付けた
- セツとの間に三男一女(一雄・巌・清・寿々子)をもうけた
- 曾孫の小泉凡は民俗学者として八雲の思想を伝えている
- 玄孫の守谷天由子はジュエリーデザイナーとして活動している
- 家系は長男一雄の小泉家と次男巌の稲垣家、両方で現在も続いている

