静岡・清水を拠点に、物流から食品、航空まで手がける鈴与グループ。
そのトップの名前を調べると「鈴木与平」という人物に行き当たります。
ところがこの名前、検索しても生年が1864年だったり1883年だったり1941年だったりと、まるで人物像が定まりません。
それもそのはずで、鈴木与平は個人の名前ではなく、鈴与の当主が代々受け継いできた「襲名」だからです。
・鈴木与平の家系図を、初代から現在の9代目まで一枚で整理した全体像
・6代目・7代目・8代目それぞれが何を残し、どんな家から妻を迎えたのか
・実子ではなく養子が家を継いだ時期があること、そして9代目が「与平」を名乗っていない理由
鈴木与平の家系図|初代から9代目までの系譜
まずは家系図の縦の流れから見ていきます。
1801年の創業から現在まで、220年以上にわたって続いてきた家です。
鈴木与平は個人名ではなく、鈴与当主が継ぐ名前
鈴木与平(すずき よへい)は、静岡県清水の鈴与グループ当主が代々襲名してきた名前です。
「與平」と旧字で書かれることもあります。
ですから同じ「鈴木与平」でも、江戸時代の廻船問屋の主人を指す場合もあれば、清水エスパルスを支えた現代の経営者を指す場合もあるわけですね。
家系図を読むときに最初につまずくのがここです。
「鈴木与平」という一人の人物を探しても見つからず、代ごとに別人が並んでいるという構造になっています。
ちなみに歴代当主の学歴を並べると、6代目が東京高等商業学校(現在の一橋大学)、7代目が京都帝国大学、8代目が慶應義塾大学と東京大学。
時代ごとの最高峰を通ってきた家であることが分かります。
初代・鈴木与平が1801年に廻船問屋「播磨屋」を創業
すべての起点は江戸時代です。
初代鈴木与平は1801年(享和元年)、駿河国の清水湊で廻船問屋「播磨屋与平」を創業しました。
港屋平右衛門という人物から問屋株を譲り受けたのが始まりだとされています。
問屋株というのは、いまでいえば営業免許のようなものですね。
船で運ばれてきた荷物を扱う権利を買い取って、そこから商売を立ち上げたわけです。
現在の鈴与が物流を本業にしているのは、この初代の商売がそのまま形を変えて続いているからということになります。
創業から220年以上、業種の芯がぶれていない企業は日本でもそう多くありません。
3代目・4代目・5代目|幕末の危機と明治の拡大
初代から数えて3代目以降は、時代の波をそのまま受けた世代です。
| 代 | おもなできごと |
|---|---|
| 3代与平 | 1841年の天保の改革で問屋特許を失うも事業を維持 |
| 4代与平 | 1889年の東海道線開通を契機に事業を拡張 |
| 5代与平 | 貿易を拡大し、1911年に貿易額1,000万円を突破 |
3代目のときに、幕府の改革で商売の根拠だった問屋特許が取り上げられています。
いまでいえば免許取り消しですから、本来なら店がつぶれてもおかしくない場面ですね。
それを乗り切ったうえで、4代目は東海道線という新しい輸送手段の登場を「船の敵」ではなく機会として使いました。
鉄道が来たときに港の問屋が生き残れたのは、陸と海をつなぐ側に回ったからです。
この判断が、現在の総合物流会社としての鈴与につながっています。
養子として家に入った当主もいる
家系図で見落とせないのが、血のつながりです。
閨閥の研究サイトに残る系図によると、初代鈴木与平には娘のたつさん、まつさんがいました。
そして家を継いだのは、初代の長女・たつさんと結婚して鈴木家に入った養子・山梨啓次郎さんです。
山梨啓次郎さんは1864年生まれで、清水銀行の取締役も務めた人物として記録されています。
さらにその跡を継いだのも、養子の山崎通太郎さんでした。
つまり鈴木与平の家系は、男子直系だけで一直線につながってきたわけではありません。
娘に婿を取り、その婿が「鈴木与平」を名乗って家業を継ぐ。
老舗の商家では珍しくない形ですが、この家でもはっきりその型が使われているんですね。
なお、系図に載る養子が何代目にあたるかについては資料によって数え方が分かれます。創業年と生年を突き合わせると、明治期の当主にあたる世代と考えるのが自然です。
6代目・鈴木与平(山崎通太郎)は貴族院議員も務めた
近代の鈴与を作った当主が、この6代目です。
6代目鈴木与平は旧名を山崎通太郎といい、1883年生まれ、1940年に亡くなっています。
経歴を並べると、経営者というより地域そのものの代表という肩書きが並びます。
| 肩書き |
|---|
| 鈴与商店 社長 |
| 清水市会議長 |
| 静岡県会議長 |
| 貴族院議員 |
市議会の議長を務め、県議会の議長も務め、さらに貴族院議員にまでなっています。
貴族院は現在の参議院にあたる機関ですが、選挙で誰でも入れる場所ではありません。
多額納税者として国政に議席を持つところまで、この代で家の格が上がったということになります。
事業の面でも、1930年に清水食品を設立し、1936年には鈴与商店を株式会社に組織変更しました。
妻は影山市郎兵衛さんの三女・まささん。
4人の男子に恵まれ、そのうち長男が次の当主になります。
7代目・鈴木与平(鈴木一郎)は31年間社長を務めた
戦中から高度成長期までを率いたのが7代目です。
7代目鈴木与平は本名を鈴木一郎といい、1910年5月11日生まれ、1993年5月23日に急性心不全で亡くなりました。83歳でした。
学歴は清水尋常高等小学校から静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て旧制成城高等学校へ転学し、1935年に京都大学経済学部を卒業しています。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1935年 | 京都大学経済学部を卒業、山下汽船に入社 |
| 1937年 | 鈴与商店へ移る |
| 1940年 | 鈴与商店・鈴与倉庫・清水食品の社長に就任 |
| 1944年 | 鈴与社長に就任 |
| 1946年 | 清水商工会議所 会頭 |
| 1968年 | 静岡県社会福祉協議会 会長 |
| 1975年 | 鈴与会長に就任 |
| 1978年 | フェルケール博物館を設立し理事長に |
| 1992年 | 清水市名誉市民 |
父である6代目が亡くなったのが1940年ですから、30歳で家業のトップに立ち、1944年から1975年まで31年間社長を務めたことになります。
戦争と戦後復興をまたいだ在任期間ですね。
紺綬褒章、藍綬褒章を受け、勲三等旭日中綬章も受章しています。
港の資料を集めたフェルケール博物館を作ったのもこの人で、地元では福祉と文化の側面で名前が残っている当主です。
8代目・鈴木与平はエスパルスとFDAを生んだ当主
現在いちばん知られている「鈴木与平」がこの8代目です。
8代目鈴木与平は1941年8月8日生まれ、静岡市の出身。旧名は鈴木道弘(資料によっては通弘)です。
学歴が少し変わっていて、大学を2つ出ています。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1960年 | 静岡県立静岡高等学校を卒業 |
| 1965年 | 慶應義塾大学経済学部を卒業 |
| 1967年 | 東京大学経済学部を卒業、鈴与に入社 |
| 1970年 | 取締役 |
| 1974年 | 常務 |
| 1976年 | 副社長 |
| 1977年 | 社長に就任 |
| 2014年 | 会長兼社長 |
| 2015年 | 会長 |
慶應を出てから東大に入り直しているんですね。
入社後は日本郵船へ出向し、そこから取締役、常務、副社長と進んで36歳で社長になっています。
この代で鈴与は、港の会社から一気に世間の目に触れる会社へ変わりました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1992年 | 清水エスパルスの運営支援を開始、球団会長に |
| 1998年 | 鈴与商事が日本初のセルフ式ガソリンスタンド「SELF24」を開店 |
| 2008年 | フジドリームエアラインズ(FDA)を設立 |
| 2009年 | 静岡空港の開港に合わせてFDAが就航 |
Jリーグのクラブを支え、日本初のセルフ式スタンドを出し、地方から航空会社まで作ったのがこの当主です。
清水エスパルスのユニフォームに「Suzuyo」の文字が入っているのを見たことがある方も多いはずですね。
社長在任は1977年から2014年までの37年間。7代目に続いて、また長期政権でした。
9代目・鈴木健一郎は「与平」を襲名していない
そして現在です。
9代目にあたるのは、8代目の長男・鈴木健一郎さん。1975年7月13日生まれで、2015年に鈴与の社長に就任しました。
父が静岡高校から慶應・東大へ進んだのに対し、健一郎さんは静岡高校から早稲田大学社会科学部へ進んでいます。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1994年 | 静岡県立静岡高等学校を卒業 |
| 2000年 | 早稲田大学社会科学部を卒業、日本郵船に入社 |
| 2000年 | 鈴与の非常勤取締役に |
| 2009年 | 日本郵船を退社、鈴与の常勤取締役に |
| 2010年 | 専務取締役 |
| 2013年 | 副社長 |
| 2015年 | 鈴与 社長に就任 |
日本郵船を経てから家業に入る流れは、父である8代目とまったく同じですね。
親子2代で同じ会社に修業に出しているわけです。
2015年の社長交代は38年ぶりのトップ交代として報じられました。
ここで気になるのが名前です。
健一郎さんは社長になっても「鈴木与平」を名乗っていません。
8代目が「与平」のままグループ代表として残っているため、現時点では襲名という形をとっていないという状態になります。
220年続いた名前が次にどう扱われるのかは、まだ答えが出ていない部分ですね。
鈴木与平の家系図に並ぶ姻戚|妻の実家と娘の嫁ぎ先
ここからは横のつながりを見ていきます。
家系図は縦の線だけでは読み切れません。誰と結婚したかで、家の性格がはっきり出ます。
7代目の妻は向坂明子、8代目の母にあたる
7代目鈴木与平(鈴木一郎)の妻は、向坂均一さんの三女・明子さんです。
この明子さんが、8代目鈴木与平の母親にあたります。
6代目の妻が影山市郎兵衛さんの三女・まささんでしたから、2代続けて「三女」を迎えていることになりますね。
当時の商家では、家格の釣り合う家から縁組を進めるのが普通でした。
長女は自分の家を継ぐ婿を取る側に回ることが多いため、他家へ嫁ぐのは次女・三女という形になりやすいわけです。
系図に並ぶ「三女」の文字は、そういう時代の縁組の形をそのまま映しています。
8代目の妻・田中寿美子は大阪府副知事の娘
8代目の縁組は、地元の枠を大きく越えました。
8代目鈴木与平の妻は、大阪府副知事を務めた田中楢一さんの二女・寿美子さんです。
ここまでの代は静岡県内の実業家・地主層との縁組が中心でしたが、この代で行政の高位にいた家と結びついています。
静岡の港の商家から、全国区の企業グループへ移っていく時期の縁組だと見ると分かりやすいですね。
この2人の間に生まれたのが、長男・健一郎さん、長女・菜穂子さん、二女・加奈子さんの3人です。
長女・菜穂子はキッコーマンの茂木修と結婚
家系図でいちばん目を引くのが、この縁組です。
8代目の長女・鈴木菜穂子さんは、キッコーマン取締役の茂木修さんと結婚しています。
茂木家といえば、千葉・野田で醤油醸造を続けてきたキッコーマンの創業家ですね。
茂木家もまた、当主が代々名前を継いできた歴史のある一族です。
220年続く清水の物流の家と、300年以上続く野田の醤油の家がつながっていることになります。
老舗同士の縁組は、単なる個人の結婚ではなく、家と家の距離を縮める意味を持ちます。
鈴木家の家系図を「静岡ローカルの一族」と見ると、この一点で見立てを外すことになりますね。
7代目の弟・鈴木要二と、静甲を率いた鈴木辰衛
6代目の子どもは4人兄弟でした。
長男が7代目を継いだ鈴木一郎さんで、ほかに要二さん、清司さん、辰衛さんがいます。
| 続柄 | 名前 | おもな肩書き |
|---|---|---|
| 長男 | 鈴木一郎 | 7代目鈴木与平、鈴与社長 |
| 次男以下 | 鈴木要二 | 鈴与社長 |
| 次男以下 | 鈴木清司 | — |
| 次男以下 | 鈴木辰衛 | 静甲 社長 |
弟の鈴木要二さんも鈴与の社長を務め、もう一人の弟・鈴木辰衛さんは静甲の社長になっています。
静甲は静岡の包装機械メーカーで、飲料や医薬品の充填ラインを手がける会社です。
兄弟がそれぞれ別の会社のトップに就き、静岡の産業界に一族で広がっている形ですね。
当主の座は長男が継ぎ、弟たちは関連会社やグループ企業を率いる。老舗の家に典型的な役割分担です。
養子と襲名で残った家、鈴木与平という制度
ここまで見てきた家系図を、一本の線でまとめてみます。
初代が清水湊で問屋株を買い、娘婿が家に入り、その養子がまた家に入り、6代目が地域の代表になり、7代目・8代目が長期政権で会社を大きくした。
そして9代目は「与平」を名乗らないまま社長を務めています。
実子がいるかどうかにかかわらず、家業を任せられる人物に名前ごと継がせる。
鈴木与平という名前は、個人ではなく制度に近いものだったと言えます。
養子が2代続いても屋号が揺らがなかったのは、継ぐ対象が血ではなく名前と商売だったからですね。
その意味で、9代目が襲名していない現状は、この家にとってかなり大きな変化点でもあります。
まとめ|鈴木与平の家系図は220年分の名前のリレー
最後に整理しておきます。
| 代 | 名前 | 要点 |
|---|---|---|
| 初代 | 鈴木与平 | 1801年、清水湊で廻船問屋「播磨屋与平」を創業 |
| 3代 | 鈴木与平 | 天保の改革で問屋特許を失うも事業を維持 |
| 4代 | 鈴木与平 | 1889年の東海道線開通を機に事業を拡張 |
| 5代 | 鈴木与平 | 貿易を拡大、1911年に貿易額1,000万円突破 |
| 6代 | 鈴木与平(山崎通太郎) | 1883〜1940年。県会議長・貴族院議員 |
| 7代 | 鈴木与平(鈴木一郎) | 1910〜1993年。31年間社長、清水市名誉市民 |
| 8代 | 鈴木与平(旧名・鈴木道弘) | 1941年生。エスパルス支援、FDA設立 |
| 9代 | 鈴木健一郎 | 1975年生。2015年社長就任、襲名はしていない |
鈴木与平とは、鈴与の当主が受け継いできた名前でした。
途中には養子が家に入った代もあり、血筋だけで一直線につながってきたわけではありません。
それでも屋号と商売は途切れず、清水の港から始まった問屋が、いまでは航空会社まで持つグループになっています。
家系図をたどると、220年分の「名前のリレー」が見えてきますね。

