劇作家・脚本家として活躍するマキノノゾミさん。カタカナ表記の珍しいお名前から「あの映画一族のマキノ家と関係があるのでは」と気になっている方は多いのではないでしょうか。
実際、津川雅彦さんや長門裕之さんの名前と一緒に検索されることも少なくありません。
ところが家系図をたどってみると、そこには誰も予想しなかったシンプルな答えが待っていました。
・マキノノゾミの家系図に映画一族マキノ家の名前が出てこない理由
・津川雅彦や長門裕之と親戚だと言われるようになったきっかけ
・家系図で唯一つながる芸能人である妻・キムラ緑子との歩み
マキノノゾミの家系図とマキノ一族の関係
マキノノゾミさんの家系図を調べようとすると、必ず「マキノ家」という映画一族の情報にぶつかります。
ここでは、その家系図に本当にマキノノゾミさんが載っているのか、載っていないとすればなぜ結びつけられたのかを順番に見ていきます。
家系図にマキノ省三の名前は出てこない
先に結論からお伝えすると、マキノノゾミさんの家系図に「日本映画の父」と呼ばれたマキノ省三さんの名前は出てきません。
マキノ省三さんを家祖とする映画一族「マキノ家」の系譜は、子や孫の代まで細かく記録として残されています。
しかしその一覧のどこを探しても、マキノノゾミさんの名前は登場しないのです。
つまり、両者に血縁関係を示す記録は確認できません。
同じ「マキノ」を名乗り、どちらも表現の世界で名を成した人物であるため混同されやすいのですが、家系図という点で見れば完全に別の系統ということになります。
本名は牧野望|芸名は本名をカタカナにしただけ
では、なぜカタカナで「マキノ」なのでしょうか。
その答えは本名にあります。
マキノノゾミさんの本名は「牧野望(まきの のぞみ)」さん。
芸名は、この本名をそのままカタカナ表記に置き換えたものです。
凝った由来があるわけでも、映画一族にあやかったわけでもなく、漢字をカタカナにしただけというシンプルな成り立ちでした。
牧野という姓は日本全国に広く分布する一般的な名字です。
それがカタカナになった瞬間、往年の映画ファンには「マキノ」という響きが一族の名として届いてしまう。
家系図の謎に見えていたものの正体は、実は表記の問題だったというわけですね。
マキノ家の家系図はどうなっているのか
比較のために、本家であるマキノ家の家系図も整理しておきましょう。
家祖は1878年生まれのマキノ省三さん。
日本映画の草創期を築いた映画監督・プロデューサーで、1929年に亡くなっています。
その子の代には、映画監督のマキノ雅弘さん、映画プロデューサーのマキノ光雄さん、映画監督のマキノ真三さん、そして女優のマキノ智子さんが並びます。
孫の代になると、俳優の津川雅彦さんと長門裕之さんの兄弟、沖縄アクターズスクールを主宰したマキノ正幸さん、女優のマキノ佐代子さんといった顔ぶれになります。
津川雅彦さんの母がマキノ智子さん、母方の祖父がマキノ省三さんという関係です。
三代にわたって映画界の中心にいた、まさに一族の家系図といえます。
この濃密な系譜のなかに、マキノノゾミさんが入り込む余地はありませんでした。
津川雅彦や長門裕之と親戚だと言われた理由
血縁がないと分かってもなお、なぜ親戚説が根強く語られてきたのか。
理由は大きく2つあると考えられます。
1つは、先ほど触れたカタカナ表記の一致です。
芸能の世界で「マキノ」とカタカナで名乗る人物は決して多くありません。
その希少性が、かえって同族を連想させてしまいました。
もう1つは、活動領域の近さです。
マキノ家が映画、マキノノゾミさんが演劇と脚本という違いはあるものの、どちらも映像・舞台の作り手という点では重なります。
「同じ業界に同じ名前」という条件が揃えば、家系図を疑いたくなるのも自然な流れでしょう。
出身は静岡県浜松市|映画の都との接点はない
出身地から見ても、両者の距離ははっきりしています。
マキノノゾミさんは1959年9月29日生まれ、静岡県浜松市のご出身です。
一方でマキノ家は、日本映画の草創期に京都を拠点として発展してきた一族でした。
マキノノゾミさんの生い立ちのなかに、その京都の映画界とつながる要素は確認されていません。
ご家族についても、芸能界や映画界で活動していたという公表情報は見当たらないのが現状です。
家系図をたどるうえで手がかりになりそうなご両親やご兄弟の情報が公になっていないのは、マキノノゾミさんが一般家庭の出身であることの裏返しともいえるかもしれません。
妻はキムラ緑子|結婚後の本名は牧野緑子
マキノノゾミさんの家系図で唯一、芸能界とつながるのが妻の存在です。
お相手は女優のキムラ緑子さん。
1961年10月15日生まれ、兵庫県洲本市のご出身で、同志社女子大学学芸学部英文学科を卒業されています。
旧姓は木村で、結婚後の本名は「牧野緑子」さん。
芸名のカタカナ表記も、夫と同じ発想でつけられていることが分かります。
お二人が出会ったのは学生時代の演劇がきっかけでした。
キムラ緑子さんは1984年、大学卒業後に上京してマキノノゾミさんが立ち上げた劇団M.O.P.の旗揚げに参加します。
そこから看板女優として劇団を支え、1992年に結婚しました。
一度離婚してから復縁するまでの経緯
お二人の歩みで多くの人が驚くのが、一度離婚を経験している点です。
2005年、それぞれが進む道を優先する形で離婚しています。
いわゆる不仲によるものではなく、円満な離婚だったと伝えられています。
そしてその後、2010年前後に復縁して再び共に暮らすようになりました。
復縁の時期については2010年とする資料と2011年とする資料があり、正確な時点は一致していません。
いずれにしても、劇団の解散という節目とほぼ同じタイミングで二人が再び家族に戻ったことになります。
別々の道を選んだ二人が、もう一度同じ籍に戻る。
家系図としては一行の情報でしかありませんが、そこには表からは見えない長い時間が流れているのですね。
子供についての公表情報
家系図でもう一つ気になるのが、お子さんの有無でしょう。
この点について、マキノノゾミさんもキムラ緑子さんも公の場でお子さんに関する情報を公表していません。
お二人とも創作と演技の第一線に立ち続けてきた方であり、私生活を細かく語るタイプではないため、家族構成の詳細は明らかにされていないのが実情です。
確かな情報が出ていない以上、ここで断定的なことは書けません。
家系図として公に確認できるつながりは、あくまで妻・キムラ緑子さんまでということになります。
マキノノゾミの家系図を調べる人向けの関連情報
家系図の疑問が解けたところで、マキノノゾミさんという人物そのものについても押さえておきましょう。
学歴や劇団の歩み、受賞歴を知ると、なぜ「マキノ」の名が業界で強い印象を残してきたのかが見えてきます。
プロフィールと学歴は浜松日体高校から同志社大学へ
マキノノゾミさんは静岡県浜松市で生まれ、浜松日体高等学校を卒業しています。
その後は同志社大学文学部へ進学しました。
血液型はB型、特技はピアノと紹介されています。
妻のキムラ緑子さんが同志社女子大学の出身であることを考えると、京都での学生生活が二人の出会いの土壌になったことがうかがえますね。
劇団M.O.P.の旗揚げから解散まで
大学卒業の年にあたる1984年、マキノノゾミさんは劇団M.O.P.を旗揚げします。
旗揚げ公演で選んだのは、つかこうへいさんの代表作『熱海殺人事件』でした。
以後は作・演出を担う中心人物として作品を発表し続け、劇団は26年にわたって活動します。
そして2010年、M.O.P.は解散を迎えました。
劇団という形は終わりましたが、マキノノゾミさんはその後も劇作家・演出家として第一線で作品を送り出し続けています。
代表作と受賞歴は読売文学賞から紫綬褒章まで
受賞歴を並べてみると、その評価の高さがよく分かります。
1997年には『東京原子核クラブ』で第49回読売文学賞を受賞。
2010年には『ローマの休日』で第36回菊田一夫演劇賞を受賞しました。
さらに2022年には『昭和虞美人草』で第72回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、同じ年に紫綬褒章も受章しています。
一般の視聴者に名前が広く知られるきっかけとなったのは、2002年後期のNHK連続テレビ小説『まんてん』の脚本でしょう。
現在は日本劇作家協会の常務理事も務めており、業界内での存在感は年々増しています。
沢田研二と一緒に検索される理由
マキノノゾミさんを調べていると、なぜか沢田研二さんの名前が一緒に表示されることがあります。
これは血縁や家系図の話ではなく、舞台という仕事上の接点から生まれた連想と考えられます。
沢田研二さんは音楽活動と並行して舞台に立ってきた方であり、演劇界で名を知られるマキノノゾミさんと文脈が重なる場面があるためです。
少なくとも、家系図の上で両者が結びつくという情報は確認されていません。
マキノノゾミの家系図について分かったことまとめ
最後に、ここまでの内容を整理しておきます。
マキノノゾミさんの家系図に、映画一族マキノ家の名前は登場しませんでした。
マキノ省三さんを家祖とする一族の系譜にマキノノゾミさんの記載はなく、津川雅彦さんや長門裕之さんとの血縁も確認されていません。
親戚説が生まれた最大の理由は、本名「牧野望」をカタカナにしただけという芸名の成り立ちにありました。
出身は静岡県浜松市で、京都を拠点とした映画一族とは土地の面でも接点がありません。
家系図で唯一つながる芸能人は妻の女優・キムラ緑子さんで、1992年に結婚、2005年に円満離婚、その後2010年前後に復縁という歩みをたどっています。
お子さんについては公表情報がなく、断定できる材料はありませんでした。
謎めいた名前の裏側にあったのは、浜松出身の一人の青年が本名のまま歩んできた道のりだったのですね。

