「上を向いて歩こう」の作詞者として、そして『誰かとどこかで』のパーソナリティとして、長く親しまれた永六輔さん。
放送作家、作詞家、タレント、旅の名人と、肩書きがいくつあっても足りない人でしたよね。
ただ、その永六輔さんの家系図をたどると、芸能とはまったく関係のない場所にたどり着きます。生まれた家は、浅草のお寺だったんです。
・永六輔の家系図を、先祖・父・兄弟・妻・娘2人・孫まで一枚で整理した全体像
・生家が浅草の寺で、本人が「在日外国人17代目」と名乗っていた理由
・寺を継がなかった永六輔の血筋を、娘と孫がどんな形で受け継いだのか
永六輔の家系図|生家は浅草の寺、先祖は中国から渡ってきた学僧
まず結論からお伝えします。
永六輔さんの生家は東京・元浅草にある浄土真宗の寺「最尊寺」で、本人は江戸時代初期に日本へ渡ってきた中国の学僧を先祖に持つ「在日本外国人17代目」と自称していました。
芸能一家でも、文化人の家系でもありません。代々、僧侶の家です。
永六輔の家系図を一枚で整理すると
血縁関係を整理すると、次のようになります。
| 続柄 | 名前 | 職業・肩書き |
|---|---|---|
| 先祖 | (中国から渡来した学僧) | 江戸初期に来日した僧。本人いわく17代前 |
| 父 | 永忠順 | 最尊寺の住職(1900年生まれ・1991年没) |
| 本人 | 永六輔(本名・永孝雄) | 放送作家・作詞家・タレント |
| 兄弟 | 6人兄弟 | 永六輔はその2番目・次男 |
| 妻 | 永昌子 | 2000年代初頭にがんで死去 |
| 長女 | 永千絵 | 映画エッセイスト |
| 次女 | 永麻理 | 元フジテレビアナウンサー・フリーアナウンサー |
| 孫(麻理の長男) | 岡﨑育之介 | 俳優・モデルを経て映画監督・脚本家 |
| 孫(麻理の次男) | 拓実 | 東京大学へ進学。『大遺言』の著者 |
寺の家に生まれた人が放送の世界へ出て、その娘と孫がそれぞれ映画・放送・文章の世界にいる。そういう並びになっています。
生家は元浅草の「最尊寺」|浄土真宗の寺だった
永六輔さんが生まれたのは、1933年(昭和8年)4月10日。東京・元浅草の最尊寺です。
宗派は浄土真宗。この点は、後年の永六輔さんを理解するうえで案外大きい部分でした。
亡くなったあとにつけられたのも「戒名」ではなく、浄土真宗の「法名」でした。法名は「釋孝雄」。本名の孝雄がそのまま入っています。
お墓も、生まれた寺である最尊寺にあります。葬儀・告別式も、この実家の寺で行われました。
外へ出ていった人ではありましたが、最後は生まれた場所に戻ってきたことになります。
父・永忠順は最尊寺の住職だった
父親は、永忠順(えい ちゅうじゅん)さん。1900年生まれで、1991年に亡くなっています。
代々この最尊寺の住職を務めてきた家で、忠順さんもその住職でした。
つまり永六輔さんは「住職の息子」として生まれています。ラジオで軽妙に語っていたあの語り口の下には、寺の子として育った時間があったわけですね。
永六輔は6人兄弟の次男|長男ではなかった
ここが、家系図を見るときの大事なポイントです。
永六輔さんは6人兄弟の2番目、次男でした。
寺の跡取りといえば長男というのが通例ですから、次男である永六輔さんは、そもそも「継ぐ側の位置」にはいなかったことになります。
「六輔」という名前から6番目の子だと思われがちですが、実際の並びは2番目です。名前の印象と実際の家系図がずれている珍しいケースでした。
先祖は江戸時代初期に渡来した中国の学僧
永六輔さんは生前、自分のことをこう名乗っていました。
「江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ、在日本外国人17代目」。
冗談のような言い回しですが、家系そのものは本当に江戸初期の渡来僧までさかのぼるものでした。
永六輔さんが晩年まで差別や国籍の問題に強い関心を持ち続けたことは知られていますが、その根っこには、自分の家系図がそこから始まっているという自覚があったわけです。
「17代目」という数え方には、寺を継いだ人の系譜という意味も重なっています。
本名は永孝雄|「永六輔」は仕事の上での名前
本名は永孝雄(えい たかお)さん。「永」は芸名ではなく、生家の姓そのものです。
学歴は、早稲田大学第二文学部史学科へ1952年に入学し、中退。学生時代からラジオの投稿常連で、そのまま放送の世界へ入っていきました。
寺の次男が、大学を途中でやめて放送作家になる。当時としてはかなり型破りな進路だったはずです。
永六輔の家族|妻・娘2人・孫が受け継いだもの
ここからは、永六輔さんが自分でつくった側の家系図です。
寺は継ぎませんでしたが、「伝える仕事」という意味では、娘にも孫にもはっきり受け継がれていました。
妻・昌子との出会いは日本テレビの廊下だった
永六輔さんが結婚したのは1955年。相手は永昌子さんです。
出会った場所は、日本テレビの廊下。永六輔さん自身が「一目惚れだった」と語っています。
放送作家として局に出入りしていた時期ですから、仕事場での出会いということになりますね。20代前半での結婚でした。
亡き妻へ書き続けた1500通のハガキ
その昌子さんは、2000年代の初めにがんで先立ちます。
ここからの永六輔さんの行動が、家族の話としてはいちばん知られている部分です。
永六輔さんは妻の遺骨を長く自宅に置いたまま、亡き妻宛てに日記代わりのハガキを書き続けました。その数は1500通を超えたといわれます。
投函して、自宅に届く。宛先も差出人も自分の家という往復を、何年も続けたわけです。
寺に生まれた人が、供養ではなく手紙という形で妻と向き合い続けた。家系図の上には出てこない話ですが、この家の空気をいちばん伝えている出来事だと思います。
長女・永千絵は映画エッセイスト
長女は、永千絵(えい ちえ)さん。1959年、東京都の生まれです。
職業は映画エッセイスト。成城大学文芸学部英米文学科を卒業しています。
映画への熱中は高校時代から。高校生のうちに「キネマ旬報」へ寄稿し、大学時代には「SCREEN」に原稿を書いていました。卒業後は「an・an」「LEE」といった雑誌で映画ページの連載を担当しています。
父親が放送と歌詞の人なら、長女は映画と文章の人。畑は違いますが、書いて伝える仕事という点は同じでした。
千絵が書いた『父「永六輔」を看取る』
永六輔さんが亡くなってから1年後の2017年7月、千絵さんは一冊の本を出しています。
『父「永六輔」を看取る』(宝島社)。永眠までの10年間を、娘の視点で初めて綴った本です。
晩年の永六輔さんは、パーキンソン病と前立腺がんを抱えながらラジオに出続けていました。その10年を、介護する側から書いたことになります。
家族の記録を家族が書ける。これも、この家が「書く家」だったことの表れですね。
次女・永麻理は元フジテレビアナウンサー
次女は、永麻理(えい まり)さん。結婚後の本名は岡崎麻理さんです。
経歴は、慶應義塾女子高等学校からハワイのプナホウ・スクールへ留学し、慶應義塾大学文学部人間学科を卒業。1985年にフジテレビへアナウンサーとして入社しました。
その後フリーとなり、現在もアナウンサーとして活動しています。
マイクの前に立つという意味では、父親といちばん近い仕事を選んだのが次女でした。
孫・岡﨑育之介は俳優から映画監督へ
麻理さんの長男が、岡﨑育之介(おかざき いくのすけ)さん。1993年の生まれです。
青山学院大学に在学中の2012年、「タワーボーイズ」で芸能界デビュー。モデル・俳優として活動していました。
その後は表に出る側から作る側へ移り、現在は映画監督・脚本家として名前が出ています。
祖父が放送作家、母がアナウンサー、伯母が映画エッセイスト。その組み合わせの先に映画監督が出てくるのは、家系図として見るとかなり筋が通っています。
もう一人の孫・拓実は東大へ進み『大遺言』を書いた
麻理さんの次男が、拓実(たくみ)さんです。
2015年3月に東京大学文科二類へ合格したことが当時話題になりました。
そして拓実さんは、祖父・永六輔さんとの日々をまとめた『大遺言』の著者としても名前が出ています。
祖父の最期を、娘の千絵さんが書き、孫の拓実さんも書いた。永六輔という人は、亡くなったあとまで家族に書かれ続けた人でした。
永六輔の家系図まとめ|寺を継がなかった血筋が残したもの
永六輔さんの家系図を、最後にもう一度たどっておきます。
| 世代 | 受け継いだもの |
|---|---|
| 先祖〜父・永忠順 | 元浅草・最尊寺の住職としての家業(本人いわく17代) |
| 永六輔(次男) | 寺は継がず、放送・作詞の世界へ。法名「釋孝雄」で生家の寺に眠る |
| 長女・永千絵/次女・永麻理 | 映画エッセイスト/アナウンサー。書く・話すという仕事 |
| 孫・岡﨑育之介/拓実 | 映画監督・脚本家/東大進学と著作。作る・書く仕事 |
17代続いた寺の家に生まれ、次男として外へ出て、まったく別の場所で名前を残した人。
それでも法名は生家の寺で、お墓もそこにある。そして子と孫は、形を変えて「伝える仕事」を続けています。
永六輔さんの家系図がおもしろいのは、継がなかったはずの血筋が、別の家業になって続いているところなんですよね。

