『その時歴史が動いた』で9年間、歴史を語り続けた松平定知アナウンサー。
あの落ち着いた語り口を聞きながら、「この人の松平って、あの松平?」と思った人は多いはずです。
結論から言うと、本物です。徳川家康の異父弟にまでさかのぼる家系でした。
ただし、検索すると江戸時代の系図ばかりが出てきて、本人の家系にたどり着けません。そこを整理します。
・松平定知アナウンサーの家系図と、久松松平家との具体的なつながり
・従兄である磯村尚徳との縁が、どこで結ばれているのか
・松平定信や、江戸時代の同姓同名の旗本との違い
松平定知の家系図|久松松平家の旗本分家という出自
先に要点をお伝えします。
松平定知さんは、徳川家康の異父弟・松平定勝を祖とする久松松平家の子孫です。
ただし本家である伊予松山藩主家そのものではなく、そこから分かれた旗本の家系にあたります。
松平定知の家系図を先に整理|3世代と親族の一覧
まず表で押さえましょう。
松平定知さんは1944年11月7日、満洲国の新京で生まれました。本籍は現在も愛媛県松山市です。
| 人物 | 松平定知との関係 | 立場 |
|---|---|---|
| 松平定勝 | 家系の祖 | 徳川家康の異父弟 |
| 松平定行 | 定勝の子 | 伊予松山藩の初代藩主 |
| 松平定堯 | 父 | 旧日本陸軍大佐・満洲国駐チタ総領事 |
| 磯村尚徳 | 従兄 | 元NHK記者・外交評論家 |
| 磯村武亮 | 磯村尚徳の父 | 陸軍中将 |
| 磯村年 | 磯村尚徳の祖父 | 陸軍大将 |
本籍が松山であることが、この家系のいちばん分かりやすい証拠です。満洲生まれで東京育ちの人が、なぜ愛媛に本籍を置いているのか。答えは伊予松山藩にありました。
家系の祖は松平定勝|徳川家康の異父弟にあたる
出発点までさかのぼります。
久松松平家の祖は松平定勝という人物で、徳川家康の異父弟にあたります。
もともとは尾張国阿久比城主・久松俊勝の四男でした。俊勝の妻が家康の生母・於大の方だったため、家康とは母を同じくする兄弟という関係になります。
そして家康から直接「松平」の姓を与えられたのが、久松松平家の始まりです。
定勝は1590年に下総で3,000石を得たのを皮切りに、関ヶ原の戦い後は掛川城主、1607年には伏見城代となり4万石へと進みました。
徳川一門の中でも、血のつながりという意味では家康にきわめて近い家です。
伊予松山藩15万石の久松松平家|本家は明治に伯爵へ
次の代で、家は西へ移ります。
定勝の子・松平定行が1635年に伊予松山15万石を与えられ、松山藩主家が始まりました。
それ以前は伊勢桑名の藩主でした。松山へ移ってからは、明治維新まで15代続いています。
親藩(家門)大名として、徳川家に最も近い格の家でした。明治になってからは伯爵に叙せられています。
松平定知さんの本籍が愛媛県松山市にあるのは、この藩主家につながる家系だからです。
ちなみに現在の松山城も、この久松松平家が長く城主を務めた城になります。
松平定知は「旗本分家」の子孫|本家そのものではない
ここが正確に押さえておきたいところです。
松平定知さんは、伊予松山藩主家そのものではなく、そこから分かれた旗本の家系の子孫とされています。
大名家である本家に対して、幕府直属の家臣である旗本として分かれた家、ということです。
久松松平家には複数の旗本分家があり、それぞれ数百石から数千石の知行を持っていました。格としては本家より下がりますが、同じ久松松平家の一族であることに変わりはありません。
「松平家の末裔」と紹介されるとき、本家の当主と混同されがちですが、正しくは分家の旗本家の流れです。
なお、その旗本分家が具体的にどの家で、定知さんが何代目にあたるのかを明示した資料は見つかりませんでした。ここは断定を避けておきます。
父・松平定堯は陸軍大佐から満洲国チタ総領事へ
直近の世代を見ましょう。
松平定知さんの父は松平定堯さんといい、旧日本陸軍の大佐でした。
その後、満洲国の駐チタ総領事を務めています。チタはシベリア南東部の都市で、ソ連との国境に近い要衝でした。
定知さんが満洲国の首都・新京で生まれたのは、父がこうした立場にあったからです。
生まれたのは1944年11月。終戦のわずか9か月前です。
武家の家系が、そのまま近代の軍人・外交官という形で続いていたことがよく分かる経歴になっています。
従兄は磯村尚徳|母方に松平家の娘がいたつながり
親族関係でよく話題になるのがこの人です。
元NHK記者で外交評論家の磯村尚徳さんは、松平定知さんの従兄にあたります。
磯村尚徳さんは1929年8月9日生まれ。パリ支局長やニュースセンター9時のキャスターを務め、NHKの顔として知られた人物です。2023年12月6日に94歳で亡くなりました。
2人は15歳離れており、どちらもテレビの第一線でニュースを伝えたという共通点があります。
では、どこでつながっているのか。手がかりは磯村家の側にありました。
磯村尚徳さんの父・磯村武亮の妻である和代さんは、松平定振という人物の三女と記録されています。
つまり、磯村尚徳さんの母が松平家から嫁いだ人だったということです。これが2人を従兄弟として結んでいる線とみられます。
ただし、和代さんと定知さんの父・定堯さんがどういう関係にあったのかまで明記した資料は見当たりませんでした。ここは推測を挟まずにおきます。
磯村家も軍人の家系|祖父は陸軍大将・磯村年
つながった先の磯村家も、ただの家ではありません。
磯村尚徳さんの祖父・磯村年は陸軍大将、父・磯村武亮は陸軍中将でした。
磯村武亮は1898年生まれで、1945年7月10日に亡くなっています。終戦のひと月前でした。
さらに、磯村尚徳さんの妻・文子さんは東京大学名誉教授の鈴木竹雄さんの長女で、鈴木家は味の素の創業者一族と伝えられています。
松平定知さんの家系図をたどると、久松松平家から磯村家へ、さらに鈴木家へと線が伸びていくことになります。
武家・軍人・実業家。近代日本の上層がそのままつながっている構図です。
家系図をめぐる混同と、松平定知の歩み
ここからは、検索でつまずきやすい点を整理します。
「松平定知 家系図」で調べると、江戸時代の系図が大量に出てきます。
実は同じ名前の人物が歴史上に実在するため、話がややこしくなっているのです。
江戸時代にも「松平定知」がいた|1645年生まれの旗本
まずこれを知っておくと混乱が減ります。
江戸時代に、まったく同じ「松平定知」という名前の旗本が実在しました。
生まれは正保2年(1645年)、亡くなったのは宝永5年(1708年)です。
父は三河国刈谷藩2万石の藩主・松平定政。ところが定政は1651年、徳川家光の死後に幕政へ意見を述べたうえ、無届で寛永寺に出家してしまい、改易されます。
息子の定知も連座して蟄居させられました。本来なら刈谷藩の2代藩主になるはずだった人です。
その後、父の死から約20年後の1672年に江戸へ召し返され、1697年に下野国安蘇郡で1,500石を与えられて旗本として家を存続させました。
同じ久松松平家の旗本ではありますが、アナウンサーの松平定知さんとの直接の血縁関係を示す資料は確認できませんでした。同名の別人として切り分けて考えるのが安全です。
松平定信とは別の系統|久松松平家の中の枝分かれ
もう一つの混同がこれです。
寛政の改革で知られる松平定信も久松松平家の人物ですが、定知アナウンサーの家系とは枝が違います。
| 人物 | 系統 | 領地 |
|---|---|---|
| 松平定行 | 定勝の子(定行系) | 伊予松山15万石 |
| 松平定信 | 白河藩・久松松平家(定綱系)の養子 | 陸奥白河 |
松平定信はもともと田安宗武の子、つまり八代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人でした。
それが白河藩主・松平定邦の養子となったことで、久松松平家の名跡を継いでいます。血筋としては徳川将軍家の側から来た人物です。
一方、定知アナウンサーの家系は伊予松山につながる定行系。同じ久松松平家でも、たどる線がまったく違います。
検索で松平定信の家系図ばかり出てくるのは、この2つが同じ「久松松平家」という括りに入っているためです。
満洲・新京に生まれ、舞鶴へ引き揚げ
本人の歩みに戻ります。
1944年に新京で生まれた定知さんは、翌1945年に母と姉に連れられて舞鶴へ引き揚げました。
姉は7歳年上だったと記されています。生後1年に満たない乳児を抱えての引き揚げは、相当な苦労だったはずです。
戦後は、母の実家に近い滋賀県大津の三井寺付近で過ごしました。滋賀大学学芸学部附属小学校に入学しています。
その後、東京都文京区へ移り、世田谷区立松原小学校で学びました。
大名家の血を引く家柄でありながら、幼少期は引き揚げと転居の連続だったわけです。
筑駒から早稲田へ、そして1969年NHK入局
学歴と入局の経緯です。
東京教育大学附属駒場中学校・高等学校(現在の筑波大学附属駒場)を卒業し、早稲田大学の商学部へ進みました。
大学では成績が優秀で、学費免除の特待生だった時期もあったといいます。
1969年3月に卒業し、同年4月にNHKへ入局。最初の赴任地は同年6月からの高知放送局でした。
東京へ異動したのは1974年です。地方局で5年を過ごしてから中央へ、という当時のNHKらしい流れになっています。
『その時歴史が動いた』9年間|家系と重なった仕事
最後にキャスターとしての歩みです。
松平定知さんは『NHKニュース7』『NHKモーニングワイド』『NHKニュース11』とメインキャスターを歴任しました。
| 期間 | 番組・役割 |
|---|---|
| 1985〜1989年 | NHKニュース7 メインキャスター |
| 1989年・1991年 | NHK紅白歌合戦 総合司会 |
| 1989〜1991年 | NHKモーニングワイド 平日キャスター |
| 1995〜2000年 | NHKニュース11 メインキャスター |
| 2000〜2009年 | その時歴史が動いた 司会兼ナレーター |
とりわけ『その時歴史が動いた』は9年にわたる長寿番組になりました。
徳川家康の異父弟につながる家系の人が、歴史番組の顔として9年間語り続けた。出自と仕事がこれほど重なった例も珍しいと思います。
2007年11月末にNHKを退職してフリーとなり、その後は早稲田・立教・國學院・京都造形芸術大学で教壇に立ち、「ことばの杜」の活動にも携わっています。
松平定知の家系図についてのまとめ
- 松平定知は1944年11月7日、満洲国の新京で生まれた。本籍は愛媛県松山市
- 家系の祖は徳川家康の異父弟・松平定勝で、久松松平家の始まりにあたる
- 定勝の子・松平定行が1635年に伊予松山15万石の初代藩主となり、松山藩は15代続いた
- 松山藩主家は明治に伯爵となったが、定知の家系はその本家ではなく分家の旗本家の流れ
- 父は松平定堯で、旧日本陸軍大佐から満洲国の駐チタ総領事を務めた
- 元NHK記者・外交評論家の磯村尚徳は従兄にあたる
- 磯村尚徳の父・磯村武亮の妻・和代は松平定振の三女と記録されている
- 磯村家は祖父が陸軍大将・磯村年、父が陸軍中将・磯村武亮という軍人の家系
- 磯村尚徳の妻・文子は東京大学名誉教授・鈴木竹雄の長女で、鈴木家は味の素創業者一族
- 江戸時代にも同姓同名の旗本・松平定知(1645〜1708年)がいたが、直接の血縁は確認できない
- その旗本の父は刈谷藩主・松平定政で、幕政への諫言と無届の出家により改易された
- 松平定信は久松松平家でも白河藩の定綱系で、定知の家系(定行系)とは別の枝
- 1945年に母と7歳上の姉とともに舞鶴へ引き揚げ、滋賀県大津で過ごした
- 東京教育大学附属駒場(現・筑波大学附属駒場)から早稲田大学商学部へ進学
- 1969年4月にNHKへ入局し、6月から高知放送局に赴任、1974年に東京へ異動
- 『NHKニュース7』『NHKニュース11』のメインキャスター、紅白歌合戦の総合司会を務めた
- 2000年から2009年まで『その時歴史が動いた』の司会兼ナレーターを担当した
- 2007年11月末にNHKを退職し、大学教授や「ことばの杜」の活動に取り組んでいる

