箱根駅伝でおなじみの青山学院大学、原晋監督。
あの明るいキャラクターと大作戦ネーミングの裏に、どんな家で育った人なのか気になったことはありませんか。
調べてみると、実家は瀬戸内の港町にあって、なんと窓から釣り糸を垂らせるほど海が近かったそうなんです。
しかも走り始めたきっかけは、実家のすぐそばを通る道にありました。
・原晋監督の実家がある広島県三原市糸崎町松浜東という場所
・海のすぐそばで3人兄弟の末っ子として育った家庭の様子
・実家周辺の環境が陸上を始めるきっかけになった経緯
青学の原監督の実家は広島県三原市糸崎町
まずは一番知りたいところ、実家の場所からいきましょう。
原晋さんの実家がある土地の様子、そしてそこでどんな子ども時代を過ごしたのかを順番に見ていきます。
実家があるのは瀬戸内の港町・糸崎町松浜東
原晋さんの実家があるのは、広島県三原市糸崎町松浜東です。
三原市は広島県の南東部、瀬戸内海に面したエリアにあります。
その中でも糸崎は昔からの港がある地区で、瀬戸内の古い港町という表現がぴったりくる場所ですよ。
県庁所在地の広島市とはまた雰囲気が違って、海と暮らしがすぐ隣り合っているような土地柄です。
つまり原監督は、海のある港町で生まれ育った人なんですね。
プロフィールを整理すると、こんな形になります。
| 項目 | 内容 |
|---|
|—|—|
| 名前 | 原晋(はら すすむ) |
|---|---|
| 生年月日 | 1967年3月8日 |
| 出身地 | 広島県三原市糸崎町松浜東 |
| 出身高校 | 広島県立世羅高等学校 |
| 出身大学 | 中京大学 |
| 実業団 | 中国電力(1989年入社) |
| 現職 | 青山学院大学陸上競技部監督(2004年〜) |
生まれは1967年3月8日ですから、三原の海を見ながら昭和40年代から50年代を過ごしたことになります。
三原市立糸崎小学校に通った少年時代
小学校は地元の三原市立糸崎小学校に通っていたとされています。
当時からやんちゃ坊主で、とにかく外で遊ぶのが大好きな子どもだったそうですよ。
家の周りが遊び場そのものだったわけですから、これはもう外に出ないほうが難しいですよね。
窓から釣り糸を垂らせるほど海が近い家
実家の環境で一番驚くのがここです。
原晋さん自身が語ったところによると、実家は自宅の窓から釣り糸を垂らすことができるほど海に近かったといいます。
……これ、なかなか聞かないですよね。
海の近くに住んでいる、というレベルではなく、家の窓がそのまま釣り場になっているという話ですから。
港町の中でも、かなり水際に建っている家だったことがうかがえます。
子ども時代の原晋さんは、とにかく外遊びに夢中だったと振り返っています。
窓の外がすぐ海という家に育てば、そうなるのも当然という気がしませんか。
原監督の実家は、遊び場と生活の場が地続きになっているような海辺の家だったわけです。
のちに小学2年生で足を大けがすることになるのですが、その現場も漁港でした。
それくらい、日常の行動範囲に海と港があったということですね。
3人兄弟の末っ子として育った家庭
家族構成についても本人が語っています。
原晋さんは3人兄弟の末っ子で、性格はガキ大将タイプだったそうです。
末っ子でガキ大将というのは、なかなか珍しい組み合わせですよね。
上にきょうだいがいる環境で揉まれたぶん、外に出たときの押しの強さが育ったのかもしれません。
友だちを集めては、ルールや戦略を練って遊ぶのが好きだったといいます。
勝負にこだわる負けん気の強さは人一倍だった、というのも本人の弁です。
ここ、面白いところだと思うんですよ。
子どもの遊びの段階でルールと戦略を作る側に回っていたわけで、今のチームづくりや大作戦のネーミングにつながる原型が、すでに実家の周りにあったように見えます。
いっぽうで、物欲はあまりないタイプだったとも語られています。
モノより勝ち負け、そして仲間と作戦を練ることに喜びを見いだす子どもだった、というのが実家時代の原監督の姿です。
両親の職業や家業は公表されていない
気になるのがご両親のことですが、こちらは事情が違います。
原晋さんの父親・母親の名前や職業について、公的なプロフィールや本人のインタビューでは公表されていません。
指導者としてこれだけ露出のある方でも、ご両親については語られる場面がほとんどないんですね。
実家が港町にあることから漁業関係を連想する人もいるようですが、それを裏づける発表は見当たりません。
現時点では、両親は表に出ていない一般の方と考えるのが自然です。
小2の大ケガが走り始めたきっかけ
原晋さんが走る人になった出発点は、実は明るい話ではありません。
小学2年生のとき、漁港で遊んでいる最中に不慮の事故で足を複雑骨折し、長期入院をしています。
複雑骨折で長期入院ですから、小学2年生の体にはかなりの負担だったはずです。
これは正直、読んでいて痛々しくなりました。
外遊びが何より好きな子どもが、動けない時間を長く過ごしたわけですから。
そして退院後、リハビリを兼ねて町内を走るジョギングを始めます。
これが陸上との最初の接点になりました。
その後は陸上部に入部し、長距離を専門にしていくことになります。
つまり原監督にとって走ることは、最初から夢ではなく、ケガから体を戻すための手段として始まったんですね。
ちなみに小学生のころはソフトボールで4番でピッチャー、相撲では主将を務めるなど、運動能力そのものが抜群だったとも伝えられています。
三原市立第一中学校で寄せ集めチームを優勝に導く
中学校は三原市立第一中学校に進んだとされています。
ここで早くも、のちの監督業を思わせるエピソードが登場します。
中学3年のとき、三原市中学校駅伝大会に出るために、テニス部やバスケ部の生徒を誘って寄せ集めチームを作ったというんです。
そしてそのチームで優勝してしまいました。
……なんかもう、この時点で監督ですよね。
陸上部の枠を超えて人を集め、勝つところまで持っていく。
青学で見せている選手起用や区間配置のうまさは、三原の中学時代からすでに片鱗があったと言えそうです。
実家のそばを走っていた中国駅伝への憧れ
もうひとつ、実家の立地そのものが原点になっている話があります。
原晋さんの実家の近くを通る国道2号線は、中国駅伝のコースになっていました。
つまり家のすぐそばを、実業団のトップ選手たちが走り抜けていったわけです。
その中には宗兄弟の姿もあり、原晋さんは彼らに憧れて陸上を始めたと語っています。
これ、想像するとちょっとぐっときませんか。
ケガのリハビリで走り始めた少年が、家の前の道を駆けていく一流ランナーを見て、こうなりたいと思う。
原監督にとって実家は、単に生まれ育った場所というだけでなく、陸上という道が目の前を通り過ぎていった場所でもあったんです。
のちに世羅高校で全国高校駅伝2位、中国電力で全日本実業団駅伝に出場と、憧れた側から走る側へ回っていくことになります。
地元三原市のふるさと大使に就任
実家を離れて長い原晋さんですが、地元との縁は今も続いています。
現在、原晋さんは広島県三原市のふるさと大使を務めています。
三原市の公式サイトでもふるさと大使の一人として紹介されており、市の情報発信に協力している立場です。
つまり実家のある三原市とは、今も公式な形でつながり続けているということですね。
箱根駅伝で青学が話題になるたび、三原市側でも地元出身者として盛り上がる。
そんな関係が続いています。
箱根駅伝100回大会に向けた市長とのWeb対談
2024年1月に開催された第100回箱根駅伝の際には、完全優勝を祈願して三原市長と原晋監督がWeb対談を行っています。
ふるさと大使としての活動が、駅伝シーズンにきちんと形になっている例ですね。
市の公式YouTubeでも、三原市民へ向けたメッセージ動画が公開されています。
青学の原監督の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家と一緒に検索されることが多い話題をまとめていきます。
兄弟や現在の住まい、子どものこと、そして経歴まで一気に見ていきましょう。
兄弟は兄が2人いるとされる
本人が3人兄弟の末っ子と語っていることから、上に2人のきょうだいがいる計算になります。
ネット上の情報では兄が2人いるとされていますが、名前や職業といった具体的な情報は確認できませんでした。
一般の方であれば公表されないのは当然ですよね。
なお、同じ姓の野球指導者と兄弟ではないかという話がネット上に出たこともありますが、これを裏づける情報はありません。
確実に言えるのは、原監督が3人兄弟の末っ子だという本人の言葉までです。
自宅は選手と暮らす町田寮
青学の原監督の自宅を検索する人も多いのですが、この方の場合は少し特殊です。
原晋さんは東京都町田市にある青山学院大学陸上競技部の町田寮で、選手たちと一緒に生活しています。
妻の美穂さんが寮母を務めているため、夫婦そろって寮での暮らしなんですね。
指導者が寮に住み込んで、朝から晩まで選手と同じ空間にいる。
青学の強さの土台には、この距離の近さがあると言われています。
なお具体的な住所についてはプライバシーに関わるため、ここでは触れません。
子どもはおらず学生が家族代わり
原晋さんと妻・美穂さんの間にお子さんはいません。
美穂さんは1967年に広島市で生まれ、大学卒業後は証券会社に勤務していた方です。
当時中国電力の社員だった原晋さんとは一本の間違い電話がきっかけで出会い、出会って3〜4か月というスピード婚だったと伝えられています。
え、間違い電話からですか、って思いますよね。
2004年に原晋さんが青学の監督に就任すると、美穂さんは広島から移り住んで町田寮の寮母になりました。
以来、寮生たちの食事や生活を支え、カリスマ寮母と呼ばれる存在になっています。
子どもはいませんが、寮の学生たちが家族同然という暮らしを続けているわけです。
原晋さんは学生の恋愛や就職の相談にも乗っており、子どもがいないままベスト・ファーザー賞を受賞したこともあります。
……なんか、いい話だなと思いました。
世羅高校と中京大学を経た経歴
実家を出たあとの歩みも整理しておきましょう。
三原の中学を卒業した原晋さんは、駅伝の名門である広島県立世羅高等学校に進学し、寮生活を送りながら陸上に打ち込みます。
そして3年生だった1984年、主将として第35回全国高校駅伝に出場し、4区で6人抜きの区間2位という走りで総合2位に貢献しました。
その後は世羅高校OBが監督を務めていた中京大学に進み、3年時には日本インカレ5000メートルで3位に入っています。
主な経歴を時系列でまとめると、次のようになります。
| 時期 | 出来事 |
|---|
|—|—|
| 1967年3月8日 | 広島県三原市糸崎町松浜東に生まれる |
|---|---|
| 小学2年 | 漁港での事故で足を複雑骨折し長期入院 |
| 中学3年 | 三原市中学校駅伝大会で寄せ集めチームを優勝に導く |
| 1984年 | 世羅高校3年・主将として全国高校駅伝で総合2位 |
| 大学3年 | 中京大学で日本インカレ5000メートル3位 |
| 1989年 | 中国電力に入社し陸上競技部の創設に参加 |
| 1993年 | 主将として全日本実業団駅伝への初出場に貢献 |
| 1995年 | 27歳で現役引退し社業のサラリーマンとして再スタート |
| 2004年 | 中国電力を退職し青山学院大学陸上競技部監督に就任 |
注目してほしいのが1989年です。
原晋さんが入社した中国電力は、郷里である広島県の企業で、しかも当時は陸上競技部を立ち上げるタイミングでした。
つまり原監督は、地元企業でゼロからチームを作る側として社会人生活をスタートしているんですね。
1995年に27歳という若さで引退したあとは、同じ会社で営業マンとして働き直しています。
広島で生まれ、広島の高校で走り、広島の企業でチームを立ち上げる。原監督のキャリアの前半は、まるごと地元で完結しているんです。
大学教授としての顔と推定年収
現在の原晋さんには、監督以外の顔もあります。
青山学院大学の教授として教壇にも立っており、テレビ出演や講演も数多くこなしています。
年収については公表されていませんが、大学教授としての給与に講演料やメディア出演料を合わせて数千万円規模ではないかという推定がネット上では語られています。
ただしこれはあくまで外部の試算で、公式に発表された数字ではありません。
確かなのは、監督業だけでなく教育者・講演者としても活動の幅を広げているという点です。
窓から釣り糸を垂らせる家で育った少年が、いまは大学教授として教壇に立っている。
そう並べてみると、なかなかの道のりですよね。
青学の原監督の実家のまとめ
- 青学の原晋監督の実家は広島県三原市糸崎町松浜東にある
- 三原市は瀬戸内海に面した港町で、糸崎は古くからの港がある地区
- 実家は自宅の窓から釣り糸を垂らせるほど海に近い家だった
- 生まれは1967年3月8日
- 3人兄弟の末っ子で、性格はガキ大将タイプだったと本人が語っている
- 友だちを集めてルールや戦略を練って遊ぶのが好きな子どもだった
- 両親の名前や職業は公表されておらず、一般の方とみられる
- 小学2年で漁港での事故により足を複雑骨折し長期入院している
- 退院後のリハビリを兼ねたジョギングが陸上との出会いになった
- 実家近くの国道2号線が中国駅伝のコースで、宗兄弟らに憧れて陸上を始めた
- 小学校は三原市立糸崎小学校、中学校は三原市立第一中学校とされる
- 中学3年では他部活の生徒を集めた寄せ集めチームで市の駅伝大会を制した
- 世羅高校では主将として1984年の全国高校駅伝で総合2位に貢献
- 中京大学を経て1989年に中国電力へ入社し陸上競技部の創設に参加した
- 現在は三原市のふるさと大使を務め地元とのつながりが続いている

