東海大相模高校を率いる原俊介監督について調べていると、必ずと言っていいほど出てくるのが「実家はどこ?」という疑問です。
元巨人のドラフト1位という華やかな経歴の裏側に、どんな家庭があったのか気になりますよね。
調べてみると、原俊介さんの実家はただの野球好きの家ではなく、父・康夫さんもまた東海大相模のユニホームを着て甲子園の土を踏んだ人でした。
生後9カ月でバットを握らされたという話まで出てきて、正直これには驚きました。
・原俊介監督の実家がある場所と、地元でどう語られているか
・父・原康夫さんの経歴と、息子に施した徹底的な野球英才教育
・実家に今も飾られているプロ初本塁打のボールにまつわる話
原俊介の実家は神奈川県秦野市の野球一家
まずは実家がある場所と、そこで育った家庭の中身から見ていきましょう。
父・康夫さんの経歴を知ると、原俊介さんが東海大相模の監督になった意味がまるで変わって見えてきますよ。
実家があるのは神奈川県秦野市
原俊介さんの実家があるのは、神奈川県秦野市です。
Wikipediaをはじめ、球歴.comや週刊ベースボールONLINEといった選手データを扱う媒体でも、出身地は一貫して秦野市と記載されています。
秦野市は神奈川県の西寄り、丹沢の山あいに広がる盆地の街です。
名水の里として知られ、落花生やタバコの栽培で栄えてきた土地でもあります。
横浜や川崎のような都会的なイメージとは少し違い、山と畑が近い、のびのびとした環境で少年時代を過ごしたことになりますね。
東海大相模高校があるのは同じ神奈川県の相模原市なので、高校進学のタイミングで自宅から通える距離の学校を選んだことになります。
つまり原俊介さんは、地元・秦野で育ち、地元の名門校に進み、最終的にその母校の監督として戻ってきた「地元一筋」の指導者だということです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 原 俊介(はら しゅんすけ) |
| 生年月日 | 1977年8月30日 |
| 出身地 | 神奈川県秦野市 |
| 身長・体重 | 180cm・88kg |
| 出身高校 | 東海大学付属相模高等学校 |
| 出身大学 | 早稲田大学人間科学部(通信教育課程) |
| 現在の肩書 | 東海大相模高校 硬式野球部監督・保健体育科教員 |
地元で語られている実家の姿
秦野市の地元情報を扱う個人ブログには、市内の団地の一角にある酒屋を指して「元巨人の原俊介選手の実家」と紹介すれば地元の人には通じる、という趣旨の記述が残っています。
ただしこれは2016年に書かれた個人発信の情報で、大手メディアの報道や公式なプロフィールで裏づけが取れているわけではありません。
ご家族は一般の方ですから、この記事では場所を特定するような細かい情報までは踏み込まないでおきますね。
地元でそう語られるくらい、原俊介さんが秦野の誇りだったという話として受け取っておくのがちょうどいいのかなと思います。
父・原康夫は東海大相模のOB捕手
実家の話でいちばんの核心は、父・原康夫さんの存在です。
神奈川新聞(カナロコ)が2024年8月に報じた記事によると、康夫さんは東海大相模高校のOBで、現役時代のポジションは息子と同じ捕手でした。
2024年の取材時点で72歳と紹介されていますので、1950年代前半の生まれということになります。
親子二代で同じ高校、しかも同じキャッチャーというのは、なかなかない巡り合わせですよね。
原俊介さんが高校時代に「強肩強打の捕手」として全国区の評価を受けたのも、こうして家の中に捕手の先輩がいたことと無縁ではないはずです。
原俊介さんにとって東海大相模は「憧れの強豪校」である以前に、父が現役でプレーした家族の原点だったわけです。
父が原貢監督から学んだ「まず人間性」
康夫さんが東海大相模で指導を受けたのは、同校の礎を築いた名将・原貢監督でした。
康夫さんは神奈川新聞の取材に対し、原貢監督から「野球よりもまず人間性」を学んだと語り、「貢先生に出会ったことで、人生が良い方向に変わった」と振り返っています。
この言葉、なんだかじんわりきませんか。
自分の人生を変えてくれた学校だからこそ、息子にも同じ場所で野球をやらせたかった。
あとで紹介する少し極端に見える英才教育も、この一文を知ってから読むと、まるで印象が変わってくるんですよね。
父が1969年夏に立った創部初の甲子園
康夫さんの経歴でとくに大きいのが、甲子園出場の実績です。
神奈川新聞によると、康夫さんは1969年夏、東海大相模の創部初となる甲子園出場に貢献しています。
いまでこそ東海大相模は全国屈指の強豪として知られていますが、その歴史のいちばん最初の扉を開けたメンバーの一人が、原俊介さんの父だったということです。
そして2024年夏、原俊介さんは監督として同じ甲子園のグラウンドに立ちました。
この日、康夫さんは三塁側アルプス席から息子の初勝利を見守り、「甲子園はどんな強い学校でも出場するのは難しい。夢の舞台」と語っています。
選手として立った父と、監督として立った息子。
同じ学校の名前を背負って、55年の時間をまたいで同じ場所にたどり着いたことになります。
原俊介さんの実家は、単に野球が好きな家庭というより、東海大相模の歴史そのものと結びついた家だったのです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1969年夏 | 父・康夫さんが東海大相模の創部初の甲子園出場に貢献(捕手) |
| 1977年 | 原俊介さんが神奈川県秦野市で誕生 |
| 1995年 | 東海大相模から巨人にドラフト1位で指名される |
| 2021年9月 | 母校・東海大相模の監督に就任 |
| 2024年夏 | 監督として甲子園に出場し、父がアルプス席から観戦 |
生後9カ月からバットを握らされた幼少期
ここからは、実家でどんな育てられ方をしたのかという話です。
神奈川新聞の取材で康夫さんが明かしたところによると、息子には生後9カ月の頃からプラスチックバットを持たせていたそうです。
生後9カ月といえば、ようやくつかまり立ちを始めるかどうかという時期ですよね。
歩くより先にバットを握っていたことになります。
「野球をやらせたい」と考える親御さんは世の中にたくさんいますが、ここまで早いスタートはなかなか聞きません。
正直、初めて読んだときは笑ってしまいました。
ただ、笑い話で終わらないのは、その子が本当にプロ野球へ進み、しかもドラフト1位で指名されたという結果が出ていることです。
原俊介さんの野球人生は、本人の記憶が生まれるより前から始まっていたということになります。
志望校を3つとも東海大相模と書かせた父
父・康夫さんの教育で、もうひとつ強烈なエピソードがあります。
康夫さんは息子に対し、幼い頃から「お前は東海大相模に行くんだ」と繰り返し言い続けていました。
そして中学の進路希望調査では、第一志望から第三志望まで、すべて「東海大相模高校」と書かせたといいます。
本来なら滑り止めを含めて複数の学校を書く欄ですから、先生も面食らったのではないでしょうか。
受験する側の常識からすると、かなり思い切った選択ですよね。
それでも康夫さんにとっては、自分の人生を変えてくれた学校に息子を送り出すことが何よりの願いだったのだと思います。
結果として原俊介さんは東海大相模に進学し、そこで全国区の捕手へと成長していきました。
父が示した進路は一本道でしたが、その道の先で息子はドラフト1位という結果を出してみせたわけです。
「巨人の星みたいな親だった」と語る親子関係
ここまで読むと、かなり厳しい父親像が浮かんできますよね。
実際、原俊介さん自身も父について、「(人気アニメの)巨人の星みたいな親だった」と表現しています。
巨人の星といえば、父・星一徹が息子の飛雄馬を野球一筋に育て上げる物語です。
この例えを本人が使っているあたり、家庭内の空気がどんなものだったかは想像がつきます。
ただ、この言葉が語られたのは、監督として甲子園で初勝利を挙げた2024年夏のタイミングでした。
厳しさを恨み言として言っているのではなく、どこか懐かしさを込めた言い方に読めるんですよね。
父はアルプス席から見守り、息子はグラウンドで指揮を執る。
スパルタと呼ばれそうな育て方の先に、こういう景色があったというのは、なんだかいい話だなと思います。
実家に飾られたプロ初本塁打のボール
実家にまつわる話でもうひとつ、忘れてはいけないものがあります。
ベースボールチャンネルの記事によると、原俊介さんのプロ初本塁打のボールが、今も実家に大切に飾られているそうです。
この一発が出たのは、プロ8年目の2003年でした。
入団から7年間は一軍出場すらなく、ようやくつかんだ一軍で開幕2戦目に代打初安打、その翌日に中日の野口茂樹投手から初アーチを放ちました。
そしてこのボールには、高校の大先輩でもあり当時の監督でもあった原辰徳さんの手で、「お前の野球人生は始まったばかりだ」という言葉が記されているといいます。
7年待った選手にかける言葉として、これ以上のものはちょっと思いつきません。
読んでいて、こちらまで胸が熱くなりました。
実家に飾られているのは記録としての一本ではなく、報われるまでの7年間ごと残された記念品だということですね。
ボールが生まれた2003年の成績
初本塁打を放った2003年は、原俊介さんにとって現役生活で最も出場機会に恵まれたシーズンでした。
この年は40試合に出場し、打率.267、3本塁打、8打点という成績を残しています。
通算成績が68試合・打率.224・3本塁打・10打点ですから、キャリアの数字のほとんどをこの1年で稼いだ計算になりますね。
原俊介の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家と合わせてよく検索されている話題をまとめていきます。
原辰徳さんとの関係や、青山学院大学の原晋監督との噂など、名字がきっかけで広まった話も整理しておきますね。
東海大相模で強肩強打の捕手だった高校時代
高校時代の原俊介さんは、強肩強打の捕手として全国的に注目される存在でした。
その評価は1995年のドラフト会議で形になり、読売ジャイアンツから1位指名を受けます。
東海大相模から高卒でドラフト1位のプロ入りを果たしたのは、原俊介さんが初めてでした。
父が創部初の甲子園に出場し、息子が高卒ドラフト1位の一番手になる。
親子で学校の歴史に一つずつ足跡を残したことになりますね。
巨人のドラフト1位から一軍まで7年
華やかな入団とは裏腹に、プロでの道のりは長いものでした。
背番号は入団時が38、2000年からは62をつけています。
一軍初出場は2003年3月29日で、入団から一軍のグラウンドに立つまでに7年かかりました。
7年目のシーズンオフには、アメリカ・フロリダ州のIMGアカデミーで約3週間のトレーニングに参加しています。
この武者修行で身体の動かし方が変わったことが、翌年の一軍定着につながったと語られています。
その後は出場機会が減り、2006年6月9日の試合を最後に、同年オフに戦力外通告を受けて現役を退きました。
通算68試合・打率.224という数字だけを見ると寂しく映りますが、その7年の停滞こそが今の指導に生きているというのが本人の考えです。
原辰徳との関係は血縁なし
検索でとても多いのが、巨人の監督を務めた原辰徳さんとの関係です。
同じ「原」という名字で、しかも出身高校まで同じ東海大相模、さらに巨人では監督と選手という関係でしたから、親戚だと思ってしまうのも無理はありません。
ただ、2人に血縁関係はありません。
Wikipediaをはじめ各媒体でも、同姓かつ同じ高校の出身だが血縁上のつながりはない、と明記されています。
なお、原辰徳さんの父である原貢さんは、前述のとおり原俊介さんの父・康夫さんを指導した東海大相模の監督です。
血のつながりはなくても、東海大相模という一本の線で二つの原家がつながっているのは面白いところですね。
青学の原晋監督と兄弟という噂
もうひとつ、青山学院大学陸上競技部の原晋監督と兄弟なのでは、という噂もあります。
こちらは同じ名字であることに加えて、顔立ちの雰囲気が似ていると感じた人がいたことから広まったようです。
ただ、原晋監督は広島県の出身で、神奈川県秦野市で育った原俊介さんとは生まれ育った土地が違います。
2人が兄弟や親戚であることを示す情報は、公式にも報道にも見当たりません。
名字と雰囲気の一致から生まれた噂と考えるのが自然でしょう。
結婚や子供について公表されていること
結婚や子供についても検索されていますが、こちらは事情が違います。
原俊介さんの結婚については、公式な発表も大手メディアの報道も確認できません。
監督就任が話題になった2021年の時点でも、家族構成に触れた情報は見当たらない状態でした。
高校野球の指導者はあくまで教育の現場にいる人ですから、私生活が積極的に語られないのは自然なことでもあります。
つまり結婚や子供に関しては非公表、というのが現時点で言えるすべてです。
東海大相模の監督として歩んだ道のり
最後に、現役引退から母校の監督に就くまでの流れを整理しておきます。
引退後の原俊介さんは、「頭には限界がないから、勉強してみたら?」と勧められたことをきっかけに、早稲田大学人間科学部へ進学しました。
トレーニング指導の資格に学士号が必要だったことと、キャッチボールを人間科学の視点から研究したいという関心が重なっての選択だったといいます。
大学では情報科と保健体育の教員免許を取得しました。
当時、元プロ選手が高校野球を指導するには教員生活10年が必要とされていましたが、制度が変わったことで免許取得から2年で指導に立てるようになります。
2016年4月に東海大学付属静岡翔洋高校の監督に就任し、2021年には静岡大会の決勝で静岡高校に惜敗。
そして2021年9月、母校・東海大相模の監督に就任しました。
2024年夏には監督9年目で母校を5年ぶりの甲子園へ導き、その舞台を父・康夫さんがアルプス席から見守ることになります。
秦野の実家で始まった野球人生が、父と同じ甲子園に戻ってくるまで、実に半世紀以上の物語があったわけです。
原俊介の実家のまとめ
- 原俊介の実家があるのは神奈川県秦野市
- 秦野市は丹沢のふもとに広がる名水の里として知られる街
- 市内の団地にある酒屋が実家として地元で語られているが個人発信の情報にとどまる
- 父は原康夫さんで、2024年の取材時点で72歳と紹介された
- 康夫さんは東海大相模高校のOBで現役時代は息子と同じ捕手
- 康夫さんは名将・原貢監督の指導を受けた世代
- 康夫さんは1969年夏、東海大相模の創部初の甲子園出場に貢献
- 康夫さんは原貢監督から「野球よりもまず人間性」を学んだと語っている
- 息子には生後9カ月からプラスチックバットを持たせていた
- 中学の進路希望調査では第一志望から第三志望まで東海大相模と書かせた
- 原俊介は父を「巨人の星みたいな親だった」と表現している
- プロ初本塁打のボールは今も実家に飾られている
- そのボールには原辰徳から「お前の野球人生は始まったばかりだ」と記されている
- 巨人の監督だった原辰徳とは同姓・同校だが血縁関係はない
- 青学の原晋監督との兄弟説は出身地が異なり裏づけとなる情報はない
- 結婚や子供については公表されておらず報道も確認できない
- 2021年9月に母校・東海大相模の監督に就任し2024年夏に甲子園出場を果たした

