浅草を拠点に昭和初期の流行歌を歌い継ぐ東京大衆歌謡楽団。実の四兄弟だと知ると、次に気になるのがご両親のことではないでしょうか。
父親は民謡歌手、母親はアコーディオンの先生という話も流れていますが、その出どころを追いかけてみると意外な事実にたどり着きました。
ここでは公表されている情報と噂をきちんと切り分けながら、この楽団が生まれた家庭の背景を整理していきます。
・東京大衆歌謡楽団の両親の名前や職業が公表されているのか
・父が民謡歌手・母が音楽の先生という説にどこまで裏づけがあるのか
・四兄弟が昭和歌謡を歌うようになった家庭の背景と祖母の存在
東京大衆歌謡楽団の両親について分かっていること
四兄弟そろってステージに立つ姿を見ると、どんなご両親に育てられたのか気になりますよね。
ここでは、公表されている情報と、ネット上で広まっている話を切り分けながら整理していきます。
父と母の名前や職業は非公表
まず結論からお伝えしますね。
東京大衆歌謡楽団の両親については、名前も職業も公表されていません。
公式サイト、Wikipedia、雑誌やテレビのインタビュー記事を順に確認しましたが、ご両親に関する記述はどこにも見当たりませんでした。
これ、少し不思議に感じませんか。
というのも、メンバー4人については生年月日から担当楽器、加入時期まで細かく公開されているんですよね。
長男・髙島孝太郎さんが1983年8月15日生まれ、次男・雄次郎さんが1985年4月29日生まれ、三男・龍三郎さんが1987年8月6日生まれ、四男・圭四郎さんが1989年11月28日生まれ。
ここまで揃っているのに、ご両親だけがぽっかり空白になっています。
ただ、これは隠しているというより、ご両親が芸能活動をしていない一般の方だからと考えるのが自然かなと思います。
一般の方のお名前やお仕事を本人の同意なく広めるのは、そもそも配慮すべきところですからね。
父が民謡歌手という情報の出どころ
ネットで検索していると、「父親は富山県の民謡歌手」「母親はピアノとアコーディオンの先生」という記述に行き当たることがあります。
音楽一家だったのか、と納得しそうになる話です。
ただ、この情報の出どころを追いかけてみると、個人ブログ1件にしかたどり着きませんでした。
しかもそのサイト自身が、記事内で推測を含む内容だと断っています。
大手メディア、公式サイト、本人のインタビューのいずれにも、同じ記述は見つかりませんでした。
本人の発言とは食い違っている
ここがいちばん引っかかるところなんです。
長男の孝太郎さんは『散歩の達人』のインタビューで、幼少期の習い事について触れたうえで「熱心ではなかったし、音楽の素地はほぼない」とはっきり語っています。
もしご両親が民謡歌手と音楽教室の先生で、日常的に演奏が飛び交う家だったなら、「素地はほぼない」という言い方にはなりにくいですよね。
時系列と発言を並べて考えると、音楽一家説は本人の言葉と噛み合っていないというのが、現時点での見立てです。
もちろん、本人が謙遜して言っている可能性は残ります。
ただ、裏づけのない情報を事実として受け取るのは避けたほうがよさそうです。
母とアコーディオンをめぐる話
母親については「アコーディオンを弾いていた」「お母さんのアコーディオンという曲がある」という話も流れています。
こちらも調べてみたのですが、公式サイトやレーベルの作品情報の中に、その曲名は確認できませんでした。
では、なぜこういう話が生まれるのか。
推測になりますが、次男・雄次郎さんがアコーディオン担当であるという事実と、昭和歌謡が「親世代・祖父母世代の音楽」であるというイメージが、どこかで混ざったのではないかなと思っています。
楽団の演奏を聴いていると、亡くなった親を思い出したという感想が本当に多いんですよね。
聴いている側の記憶と、演奏している側の家族の話が重なってしまう。
それくらい、この楽団の音には人の家族の記憶を引き出す力があるということかもしれません。
幼少期は長男がヴァイオリンで弟はピアノ
両親そのものの情報ではありませんが、家庭の様子がうかがえる話は残っています。
孝太郎さんによると、幼少期は長男の孝太郎さんがヴァイオリン、下の3人はピアノを習っていたそうです。
4人きょうだい全員に楽器を習わせていたわけですから、音楽に触れさせようという意識のあるご家庭だったことは間違いないと思います。
富山の一般的な家庭で、子ども4人分の月謝を出し続けるのは決して軽い負担ではありません。
そう考えると、ご両親が音楽そのものを大事にしていた家だった、という見方はできそうです。
ただ、当の本人たちは前述のとおり「熱心ではなかった」。
……なんだか、ちょっと微笑ましくないですか。
親が用意してくれた環境を、子どもは当時ちっともありがたがっていない。
その習い事が20年近くたってから、まったく別の形で花開くわけですから、人生って分からないものですよね。
家族がばらばらに暮らしていた時期があった
ここは、この楽団を語るうえで避けて通れない部分です。
孝太郎さんはインタビューの中で、楽団を始める前の心境をこう振り返っています。
「当時、家族がばらばらに暮らしていたこともあり、共に生活していた思い出がすべて失われてしまったような喪失感におそわれていた」
理由や事情については、本人からも周囲からも語られていません。
ですので、ここを深追いするのはやめておきます。
ただ、この一文があるかないかで、彼らの音楽の聴こえ方はまるで変わってくると思うんですよね。
家族が離れて暮らしていた時期があり、その喪失感の中で、昭和15年の一曲が家族と過ごした記憶を丸ごと連れて戻ってきた。
東京大衆歌謡楽団は、失われかけた家族の記憶を取り戻すところから始まったグループです。
正直、この背景を知ってから聴くと、同じ曲でも胸に来るものが違います。
祖母が歌ってくれた歌が結成の原点
ご両親の話が出てこない一方で、祖母の存在は繰り返し語られています。
東京でバンドを組んでいた孝太郎さんは、そのバンドが1年半で解散したあと、21歳で富山の生家に戻ります。
ひとり暮らしをしていた祖母のことが気になったからでした。
そこから半年ほど、祖母と2人の生活が始まります。
孝太郎さんは、祖母が生きた時代の音楽を知りたくて質問攻めにしたそうです。
そのとき祖母が歌ってくれたのが『ストトン節』や『私の青空』でした。
弟から届いた一曲がすべてを変えた
そんな時期に、次男の雄次郎さんから音源が送られてきます。
NHK『ラジオ深夜便』で流れていた、霧島昇さんの『誰か故郷を想わざる』(昭和15年)でした。
孝太郎さんはこの曲の2番を聴いた瞬間、近所の山で兄弟と遊び、日が落ちるからと祖母が呼んでくれた情景を思い出し、涙が止まらなくなったと語っています。
そしてすぐに雄次郎さんへ電話をかけ、この時代の音楽を一緒にやってほしいと伝えた。
これが東京大衆歌謡楽団の結成の瞬間です。
なお、この音源が「MD」だったのか「カセットテープ」だったのかは、記事によって記述が分かれています。
後年、富山テレビの番組では、射水市で暮らす91歳の祖母が今も口ずさむという『誰か故郷を想わざる』を、孫からのサプライズリクエストで演奏する場面も放送されました。
原点の一曲を、原点の人の前で歌う。
……これはもう、じんわり来ますよね。
富山ではチンドン屋として働いていた
もうひとつ、富山時代のエピソードを添えておきますね。
孝太郎さんはこの時期、チンドン屋として働いていたことがあります。
民謡や祭り囃子といった、自分たちが暮らす土地の中で育まれた音楽の知識をもとに、独自の解釈で鳴らす。
その音に「土のエネルギー」を感じたのだと語っています。
祖母との暮らしと、チンドン屋の現場。
この2つが、いまのステージの土台になっているわけです。
老人ホームで気づいた「歌詞の力」
活動を始めてしばらくの頃、老人ホームで『リンゴの唄』を演奏したときの話も印象的です。
入居者の方々は楽しそうにしているのに、どこか物足りない。
歌いたいけれど歌詞が思い出せないのだと気づいた孝太郎さんは、楽器をやめて大きな声で歌ったそうです。
すると、その場が大合唱になった。
当時は懐メロの歌詞を格好悪いと思っていたそうですが、この音楽を必要としている人が求めていたのは「詩」だったと気づいた瞬間だったといいます。
地元局の特集でも両親の話は出てこなかった
「両親の情報が本当にないのか」を確かめるうえで、はっきりした材料がひとつあります。
富山テレビ放送が2016年に放送した特集番組についての、番組審議会の記録です。
そこには、委員から出た意見として「生い立ち、両親との関係などもう少し詳しく知りたかった」という一文が残されています。
地元の放送局が、地元出身の兄弟を丸ごと1本の番組で特集した。
それでもなお、両親との関係は掘り下げられていなかったということです。
つまり、両親の情報が見つからないのは調べ方の問題ではなく、そもそも公にされていないからだと考えてよさそうです。
ネット上の断片的な情報より、この審議会の記録のほうがよほど雄弁だなと感じました。
東京大衆歌謡楽団の両親を調べる人向けの関連情報
ご両親を調べていると、兄弟構成や現在の活動についても気になってきますよね。
ここからは、あわせて検索されることの多い話題をまとめておきます。
高島四兄弟それぞれの担当楽器
まずはメンバー4人の基本情報から整理しておきます。
| 続柄 | 名前 | 生年月日 | 担当 |
|---|---|---|---|
| 長男 | 髙島孝太郎 | 1983年8月15日 | 唄 |
| 次男 | 髙島雄次郎 | 1985年4月29日 | アコーディオン |
| 三男 | 髙島龍三郎 | 1987年8月6日 | ウッドベース |
| 四男 | 髙島圭四郎 | 1989年11月28日 | バンジョー |
面白いのは、三男と四男の入り方なんです。
龍三郎さんは会社勤めをしていたところを、体が大きいからいい音が出るはずだという理由でウッドベースに誘われました。
四男の圭四郎さんは、スケートボードで生活が立ちゆかず苦しんでいたところに、バンジョーは四弦だからギターより簡単だと説得されて加入しています。
……説得の仕方がなかなかですよね。
2人ともほぼ初心者からのスタートで、先生について半年ほど練習し、人前で演奏するようになったそうです。
本当の兄弟なのかという疑問
検索候補に「本当の兄弟は誰ですか」という言葉が並ぶので、気になっている方も多いと思います。
答えははっきりしていて、現在の4人は全員が実の兄弟です。
ではなぜこの疑問が生まれるのか。
2009年4月の結成時は、孝太郎さんと雄次郎さんが高鳥さんという血縁のない方を誘った3人組だったからです。
その後、高鳥さんは2015年に脱退。
同じ2015年3月に三男・龍三郎さんが、2017年11月に四男・圭四郎さんが加わって、現在の四兄弟体制になりました。
つまり、初期の映像や記事を見た方が「あれ、この人は兄弟じゃないのでは」と感じるのは、まったく的外れではないんですよね。
メンバー死亡の噂と現在の活動
「メンバー 死亡」という検索候補も出てきますが、これについても確認しておきます。
2026年9月時点で、メンバーの死亡や脱退は確認できません。
公式サイトの公演情報を見るかぎり、四兄弟そろって全国各地でコンサートを続けています。
浅草を拠点にしている点も変わりません。
浅草神社の神楽殿前では、今も定期的に無料の奉納演奏が行われています。
2024年には結成15周年を迎え、CS放送で特集が組まれるなど、活動はむしろ広がっている状況です。
こうした噂が立つのは、初期メンバーの脱退が「誰かがいなくなった」という記憶として残っているからかもしれませんね。
学歴について分かっていること
学歴も検索されている項目ですが、4人とも出身校は公表されていません。
分かっているのは、孝太郎さんが富山県で育ち、高校を卒業したあとに上京しているという経歴です。
上京後は池袋でスケートボードをしていて、その仲間と街に流れる音楽をつくろうという話になり、電気の使えない屋外向けにアナログ楽器を集めた8人ほどのバンドを組んでいました。
このとき孝太郎さんはヴァイオリン、雄次郎さんはアコーディオンを担当しています。
パンク・ロックやスカを聴いていた青年が、いまや昭和初期の流行歌の歌い手です。
この振れ幅、なかなかすごくないですか。
収入や投げ銭の仕組み
収入面も検索されていますが、金額に関する公表情報はありません。
分かっているのは活動の形態です。
浅草神社での奉納演奏は観覧無料で、その場での投げ銭という形が長く続いています。
一方で、全国のホールでの単独公演やCDのリリース、CS放送での特番など、いわゆる音楽活動としての収入源も持っています。
浅草六区の喫茶店『待合室』2階にある「カナリヤホール」がホームグラウンドで、ここでの公演も定期的に行われてきました。
街頭で無料の演奏を続けながら、ホール公演も満席にする。
昭和の大衆歌謡を、当時に近い距離感のまま届けているスタイルだと言えそうです。
東京大衆歌謡楽団の両親のまとめ
- 東京大衆歌謡楽団の両親は、名前・職業ともに公表されていない
- メンバー4人のプロフィールは詳細に公開されているが、両親の情報だけが空白
- 父親が富山県の民謡歌手という情報は、個人ブログ1件が出どころで裏づけがない
- 母親がピアノとアコーディオンの先生という情報も同じ1件のみで確認できない
- 長男の孝太郎は「音楽の素地はほぼない」と語っており、音楽一家説とは食い違う
- 幼少期は長男がヴァイオリン、下の3人はピアノを習っていた
- 4人全員に楽器を習わせる家庭だった点は、本人の発言から確認できる
- 孝太郎は「家族がばらばらに暮らしていた」時期があったと語っているが、理由は非公表
- 21歳で富山の生家に戻り、ひとり暮らしの祖母と半年ほど暮らした
- 祖母が歌ってくれた『ストトン節』『私の青空』が昭和歌謡との入り口になった
- 弟から届いた霧島昇『誰か故郷を想わざる』を聴いたことが結成の直接のきっかけ
- 富山テレビの番組審議会でも「両親との関係をもっと知りたかった」と指摘されている
- 結成時の3人目は血縁のない高鳥で、2015年に脱退したため兄弟かどうかの疑問が生まれた
- 現在は実の四兄弟体制で、2026年時点でメンバーの死亡や脱退は確認できない
- 浅草神社での奉納演奏は観覧無料で、投げ銭の形が続いている

