桑田佳祐さんといえば、サザンオールスターズのボーカルとして日本の音楽シーンを何十年も牽引してきた国民的アーティストですよね。
でも、今の桑田さんをつくったのは「茅ヶ崎」「満州から引き揚げてきた父親」「義姉のビートルズの子守唄」という、ちょっと意外な要素の組み合わせだったんです。
この記事では、桑田佳祐さんの生い立ちを子供時代から青山学院大学のサザン結成、そしてデビューまで詳しくお伝えします。
・桑田佳祐さんの父・久司と家族の素顔、音楽への影響
・鎌倉学園時代の初ステージからサザンオールスターズ結成までの軌跡
・妻・原由子との馴れ初めや食道がん克服の話
桑田佳祐の生い立ちと音楽への目覚め
桑田佳祐さんの生い立ちには、音楽の才能が育まれた特別な家庭環境がありました。茅ヶ崎という土地、個性的な父親、そして”姉以上・母未満”の存在だった義姉のえり子さん…これらすべてが今の桑田さんをつくった素地です。
父・久司と母・昌子の下に茅ヶ崎で誕生
1956年2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に桑田佳祐さんは生まれました。
父親の桑田久司(くわた・ひさし)さんは、かなり波乱万丈な人生を歩んできた人物です。
もともと満蒙開拓移民として満州鉄道に勤務していた久司さんは、戦後の引き揚げ後に福岡県北九州市若松区へ移り住みます。その後、神奈川県へと転居し、湘南の地方新聞の記者を経て、茅ヶ崎の映画館「大黒館」の支配人に就任。そこで人生の転機を迎えます。
父・久司の多彩な職歴
久司さんの職歴はそれだけにとどまりません。映画館の支配人を経た後も、バー経営、ビリヤードと麻雀の店の運営、洋食屋「grill KONOMI」の雇われ支配人、さらには映画監督・小津安二郎さんの運転手まで、実に幅広いキャリアを歩んでいます。
| 時期 | 職業・肩書き |
|---|---|
| 戦前 | 満州鉄道勤務(満蒙開拓移民として) |
| 戦後 | 北九州市若松区に移住 |
| 神奈川転居後 | 湘南の地方新聞記者 |
| 茅ヶ崎定住後 | 映画館「大黒館」支配人 |
| その後 | バー経営、ビリヤード・麻雀店、洋食屋雇われ支配人、小津安二郎の運転手 |
こんなにいろんなことをやっている父親のもとで育ったわけですから、桑田さんの「型にはまらない」スタイルのルーツはここにある気がしますよね。
久司さんは性格的には「新しもの好きでオシャレ」な人物で、当時まだ一般家庭には珍しかったステレオを自宅に置き、グレン・ミラー楽団のスウィングジャズやペレス・プラード楽団のマンボをLPレコードで日常的に聴いていたといいます。
そんな父親と、ワンピースが似合う美人として知られた母・昌子さんの間に生まれたのが、桑田佳祐さんです。
音楽的なセンスと、物事に縛られない自由な精神性は、久司さんから受け継いだものが大きいのかもしれません。
腹違いの姉・えり子から受けたビートルズの洗礼
桑田さんには、腹違いの姉・岩本えり子(旧姓:桑田えり子)さんがいます。
えり子さんは父・久司の前妻との間に生まれた娘で、桑田さんより4歳年上の1952年8月18日生まれ。異母姉弟ということになります。
ただ、桑田さんにとってのえり子さんの存在感は、「単なるお姉ちゃん」という枠を超えたものでした。共働きで忙しかった父と母に代わり、えり子さんが幼い佳祐さんの面倒を見ていたのです。
そのえり子さんが、子守唄代わりに歌ってくれていたのが、なんとビートルズの曲でした。えり子さん自身がジョン・レノンの大ファンで、幼い佳祐さんはそうして毎日のようにビートルズの音楽を耳にして育ったのです。
これが、後にサザンオールスターズのボーカルとして「体に電気が走った」とまで語るほどビートルズを愛するようになった桑田さんの、音楽人生の原点のひとつだといえるでしょう。
えり子さんの後半生と「いとしのエリー」
えり子さんはその後、1975年に渡米し、モントレー大学で学びながら通訳や子育てをこなす生活を送ります。1996年に帰国してからは、茅ヶ崎の海の景観を守る市民団体「はまけい」の代表も務めていました。
また、作詞家としてサザンおよび桑田さんのソロ楽曲の英語歌詞を補作するなど、音楽面でもしっかり弟をサポートしていた存在です。
しかし2008年初頭、末期の膵臓癌が発覚。同年10月19日、56歳という若さで旅立ちました。
「姉以上、母未満」。桑田さんがえり子さんのことをそう表現したのは有名な話で、その言葉がいかに深い絆を物語っているかがよくわかります。なんか、胸にしみる言葉ですよね。
小中学生時代のエピソードと才能の萌芽
1962年、茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校に入学した桑田さん。子供のころから漠然と「歌手になりたい」という夢を持っていたそうですが、面白いのは先生に対しては「建築家や弁護士になりたい」と答えていたというエピソードです。
「通用しないと思われそうで…」という遠慮から、本当の夢を隠していたのだとか。今や日本を代表するミュージシャンがそんな少年時代を過ごしていたとは、ちょっと想像しにくいですよね。
音楽との決定的な出会いは小学校5〜6年生のころ。入浴中に父・久司さんの勧めで歌謡曲を歌い、「上手いね」と褒めてもらったエピソードが、本人にとっての音楽活動の原点として語り継がれています。
1968年、茅ヶ崎市立第一中学校に入学した桑田さんは、野球部に所属してエースとして活躍しました。ただ音楽好きの片鱗は中学でも随所に見られ、教壇に立ってコンサートさながらに歌ったり、黒板消しをマイク代わりに前川清さんのものまねをしたりと、クラスのエンターテイナー的存在だったようです。
鎌倉学園高校時代と生涯初のステージ体験
1971年、私立・鎌倉学園高等学校に進学した桑田さん。偏差値66の名門校です。
高校時代は友人と2人で「ボウリング部」を名乗り(非公認の同好会ですが)、音楽漬けの日々を過ごします。この頃から小中学校の同級生とも音楽を通じて交流が広がり、互いの家を行き来してビートルズをギターやピアノで演奏する毎日が続きました。
そして1973年、高校3年生の秋に、人生初の大きなステージが訪れます。
知人の宮治淳一さんからのオファーで、神奈川県立鎌倉高校の文化祭ロックコンサートに出演することになったのです。
そこで披露したのは、ビートルズの「マネー」とエルヴィス・プレスリーの「ブルー・スエード・シューズ」。
人前で演奏した生涯初のステージがこの鎌倉高校の文化祭であり、これが桑田佳祐さんという「ロック少年」の正式デビューとも言える瞬間でした。
本人によると3年生のこの時期は珍しく勉強に集中していたようで、英語と日本史は自己採点でほぼパーフェクトだったとか。努力家な一面もあったんですね。
青山学院大学でのバンド活動とサザン結成
1974年の春、桑田さんは青山学院大学経営学部に入学します。実は5校を受験してすべて合格していたそうですが、最初に合格通知の電話が来た青学を選んだというエピソードが残っています。明治学院大学にも合格しており、もし別の大学に進学していたらサザンオールスターズは生まれていなかったかもしれない…というのは、ファンにとっては背筋が凍る話ですよね。
大学では音楽サークル「BETTER DAYS(ベター・デイズ)」に所属し、いよいよ本格的なバンド活動をスタートさせます。
バンド名の変遷と原由子さんとの出会い
このサークルで同じく音楽好きだった関口和之さん(後のサザンベーシスト)と出会い、「温泉あんまももひきバンド」というバンドを結成。オールドロックンロールやビートルズのカバーを演奏する日々でした。
そして1975年、バンドに新たなメンバーが加わります。それが、後に桑田さんの妻となる原由子さんです。英米文学科に進学した原さんは、ある日サークルの部屋からエリック・クラプトンの「バッジ」が流れてくるのを聴いてこのサークルに飛び込んできたのだとか。
その後バンドは「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」とメンバーや名前を変え続け、1976年頃についに「サザンオールスターズ」という名前に落ち着きます。このバンド名は、メンバーの友人が風呂の中で思いついたというのが定説です。
「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを果たすまで
バンドが本格的な活動を始めてから3年ほど経った1977年。転機が訪れます。
ヤマハが主催するアマチュアバンドコンテスト「EastWest(イースト・アンド・ウェスト)」に参加した桑田さんが、ベストボーカル賞を受賞したのです。
この受賞によりビクター音楽産業のディレクター・高垣健さんの目に留まり、メジャーデビューの話が動き出します。
デビューシングル選定の舞台裏
ここで面白いエピソードが一つ。デビューシングルをどの曲にするかで、桑田さんと高垣ディレクターの意見が割れたのです。桑田さんは「勝手にシンドバッド」を推したのに対し、高垣さんは「別れ話は最後に」を推薦。話し合いは平行線をたどりましたが、最終的にアミューズ社長の大里洋吉さんが「勝手にシンドバッド」に決断しました。
「勝手にシンドバッド」というタイトルは、当時ヒットしていた沢田研二さんの「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を組み合わせたもの。後に桑田さんは志村けんさんのネタから拝借したとも語っており、いかにもポップなセンスを感じます。
こうして1978年6月25日、サザンオールスターズは「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを飾り、日本の音楽史に残る旋風を巻き起こしていきます。
なお、桑田さん自身は大学を結局除籍という形で卒業しています。留年の後、学費滞納が原因だったとされています。
桑田佳祐の生い立ちを調べる人向けの関連情報
桑田さんの生い立ちを知ったうえで、さらに気になる情報を集めました。茅ヶ崎への愛、原由子さんとの馴れ初め、そして食道がんを乗り越えた復活劇まで、桑田さんという人物の全体像が見えてきます。
茅ヶ崎への地元愛と音楽の聖地
桑田さんが茅ヶ崎を愛しているのは有名な話ですが、その深さは並ではありません。
サザンオールスターズの楽曲には「勝手にシンドバッド」「希望の轍」「チャコの海岸物語」「HOTEL PACIFIC」など、茅ヶ崎の地名やイメージが随所に織り込まれています。2000年に行われた「茅ヶ崎ライブ」ではステージ上で「茅ヶ崎に生まれて良かったです!」と叫んだほど。
茅ヶ崎市内にはサザン関連スポットが点在し、「サザンビーチちがさき」には茅ヶ崎サザンCのモニュメントも設置されています。
2007年には故郷の少年時代の思い出を歌ったソロ名義の楽曲「MY LITTLE HOMETOWN」を発表。2023年の「茅ヶ崎ライブ2023」ではテーマソング「歌えニッポンの空」を書き下ろすなど、生涯を通じて茅ヶ崎への愛情を音楽で発信し続けています。
茅ヶ崎という町はただの出身地ではなく、桑田佳祐という音楽家のアイデンティティそのものです。
妻・原由子との馴れ初めと結婚エピソード
桑田さんと原由子さんの馴れ初めは前述の通り、青山学院大学の音楽サークル「BETTER DAYS」です。
原さんの第一印象は「怪しいから近づかないようにしよう」だったというから、なかなかですよね。ところが、桑田さんがある日「何か1曲ピアノで弾いてみてよ」とリクエストしたところ、原さんがエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」を弾いてみせたことで、互いの音楽的センスを認め合うようになります。
交際はその後も続きますが、デビュー後の多忙な時期に一度別れ話に発展したことも。2人とも涙が止まらず、握手して別れた後も一晩中電話で話し続けたといいます。そして翌朝、桑田さんが原さんを見るなり「結婚しよう!ずっと一緒にいよう!」とプロポーズ。この時の気持ちを歌ったのが、あの名曲「いとしのエリー」だと言われています。
1982年2月26日(桑田さんの誕生日)に入籍し、2月28日には東京プリンスホテルでタモリさんやラッツ&スターなど多数の芸能人が出席した盛大な披露宴を開催。2人の間には長男・佑宜さん(1986年生)と次男・洋輔さん(1988年生)が生まれ、今も夫婦でサザンオールスターズの活動を続けています。
読んでいてこちらまで温かくなるような、素敵な夫婦の話ですよね。
食道がんを乗り越えた闘病と紅白での復活
2010年7月12日、桑田さんは定期検診で食道がん(扁平上皮がん)が発見されました。
幸い早期発見だったため、腹腔鏡手術で患部を切除することができました。術後の検査でも転移は見受けられず、桑田さんの声・発声への影響もなかったと報告されています。
闘病中の桑田さんを最も支えたのが原由子さんで、本人も「今後は原坊には頭が上がらないでしょう」とラジオで語っています。
そして2010年12月31日、第61回NHK紅白歌合戦に特別ゲストとして出演し、音楽活動への復帰を力強く宣言しました。ソロでの紅白初出場でもあり、この時の桑田さんのパフォーマンスに胸を熱くした視聴者が多かったのは言うまでもありません。
食道がんという大きな壁を乗り越えた桑田さんの姿は、多くの人に勇気を与えました。
桑田佳祐の生い立ちと音楽人生への世間の声
桑田さんの生い立ちや音楽への軌跡については、ファンや音楽関係者から数多くの声が寄せられています。
「ビートルズを子守唄として聴いて育ったというのが、今の桑田佳祐さんのルーツをすべて説明している気がする」「満州から引き揚げてきた父親に、映画好きな母親、義姉のビートルズ…その全部がサザンの音楽につながっているのが面白い」「茅ヶ崎ライブで『茅ヶ崎に生まれてよかった』って叫んだシーン、今でも忘れられない」など、桑田さんの音楽と人生を深く愛するファンの声が後を絶ちません。
また音楽評論家からも「日本の大衆音楽史において桑田佳祐は唯一無二の存在」という評価が定着しており、デビューから50年近くが経った現在も現役で活躍し続ける姿は多くの人を勇気づけています。
桑田佳祐の生い立ちのまとめ
- 1956年2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に誕生
- 父・桑田久司は満州鉄道勤務から映画館支配人まで多彩な職業を歩んだ実業家
- 母・昌子はワンピースが似合う美人で、夫婦でバーを経営したこともある
- 腹違いの姉・岩本えり子は父の前妻の娘で、桑田より4歳年上
- えり子さんが子守唄としてビートルズを歌い聴かせたことが音楽の原点のひとつ
- 小学5〜6年生の時、父に「上手いね」と褒められたことが音楽活動の出発点
- 中学時代は野球部のエースで、同時にクラスのエンターテイナー的存在だった
- 鎌倉学園高校3年時、鎌倉高校の文化祭で人生初のステージを踏んだ
- 青山学院大学経営学部に入学し、音楽サークル「BETTER DAYS」で活動開始
- サザンオールスターズは「温泉あんまももひきバンド」など変遷を経て命名された
- 1977年のヤマハ「EastWest」でベストボーカル賞を受賞しデビューへの道が開いた
- 1978年「勝手にシンドバッド」でメジャーデビュー。大学は後に除籍
- 妻・原由子さんとは大学の音楽サークルで出会い、1982年2月26日(誕生日)に入籍
- 2010年に食道がんが発覚するも早期発見・手術で完治し、紅白歌合戦で復活を遂げた
- 茅ヶ崎への深い地元愛はサザンの楽曲の随所に息づき、今も変わらず歌い続けている

