尾崎紀世彦の家系図は父方の祖父がイギリス人!両親と兄まで舞台人だった一家の来歴

尾崎紀世彦の家系図は父方の祖父がイギリス人!両親と兄まで舞台人だった一家の来歴

記事内に広告を含みます

『また逢う日まで』の、あの声量。そして日本人離れした顔立ち。

尾崎紀世彦さんを見て「ハーフなのでは」と思った人は、当時からたくさんいました。

答えを先に言うと、尾崎紀世彦さんは日英クォーターです。

ただ、家系図をたどると、外国の血よりも驚く事実が出てきます。両親も兄も、揃って舞台の人だったのです。

この記事を読むとわかること
・尾崎紀世彦の家系図と、イギリス人の祖父から続く3世代のつながり
・父・母・兄がそれぞれどんなダンサーだったのか
・「アイヌの血筋」という噂がどこまで裏づけのある話なのか

尾崎紀世彦の家系図|イギリス人の祖父から続く3世代

まず全体像です。

尾崎紀世彦さんの家系図には、イギリスから来た祖父と、日本の舞踊界で活動した両親が並びます。

芸能一家であり、なおかつ国際結婚の家系でもあった、というのがこの家の特徴です。

尾崎紀世彦の家系図を先に整理|祖父・両親・兄弟の一覧

関係を表にまとめます。

尾崎紀世彦さんは男3人兄弟の次男として、1943年1月1日に東京都渋谷区で生まれました。

続柄 氏名 職業・立場
父方の祖父 ヘンリー・バッキンガム・ルーカス イギリス人。神戸で活動し、同地で死去
繁(芸名・藤田繁) クラシックバレエのダンサー・演出家
礼子 日劇ダンシングチーム一期生
彰彦(芸名・藤田彰彦) クラシックバレエのダンサー・演出家
本人 尾崎紀世彦 歌手(次男)
征彦 茅ヶ崎でステーキ店「繁や」を経営

ポイントは父・母・兄の3人が全員ダンサーだったという点です。

歌手になった紀世彦さんも、育った環境という意味では完全に「その世界の子」だったわけです。

父方の祖父はイギリス人ヘンリー・バッキンガム・ルーカス

家系図をさかのぼった先にいるのがこの人です。

尾崎紀世彦さんの父方の祖父は、Henry Buckingham Lucas(ヘンリー・バッキンガム・ルーカス)というイギリス人でした。

この祖父がいることで、父はイギリス人と日本人のハーフになり、母が日本人であることから、紀世彦さんは4分の1がイギリス系のクォーターということになります。

「ハーフでは」と言われ続けた顔立ちの理由は、ここにありました。実際はクォーターです。

没年は1904年とされており、神戸市立外国人墓地に埋葬されていると伝えられています。

紀世彦さんが生まれたのが1943年ですから、孫の顔を見ることはなかった祖父ということになります。

祖父の職業には諸説|灯台建設・貿易商・英国総領事館

この祖父については、資料によって書かれていることが違います。

ヘンリー・バッキンガム・ルーカスの職業は、少なくとも3通りの説が存在します。

内容 出どころ
灯台建設 明治時代の日本の灯台建設に関わった 日本語版ウィキペディア
貿易商 1869年に来日し、1871年に神戸で貿易会社を共同設立 海外の系譜データベース
領事館勤務 在神戸英国総領事館に在籍していた 一部の芸能系メディア

生年も1837年説と1838年説があり、はっきりしません。

共通しているのは、明治期に来日し、神戸を拠点にして、神戸で亡くなった人物だという点です。

ここは断定できる情報がないため、「そう言われている」という範囲にとどめておきます。ネット上の記事も出典が示されていないものが多く、注意が必要な部分です。

父・繁は日本バレエ黎明期のダンサー「藤田繁」

次の世代へ進みます。

尾崎紀世彦さんの父は繁さんといい、「藤田繁」の芸名でクラシックバレエのダンサー・演出家として活動していました。

資料によっては「繁一」と表記されているものもありますが、芸名が藤田繁であることはどの資料も一致しています。

活動時期は日本のバレエがまだ根づいていない時代です。1948年の東京バレエ団による『白鳥の湖』全曲日本初演に出演していたという記述もあります。

日本のバレエ史の、いちばん最初のあたりにいた人だったということです。

ちなみに、紀世彦さんに13歳でウクレレを買い与えたのもこの父でした。ハワイアンバンドを組んだのが音楽人生の出発点になっています。

踊りの家に生まれた子が、歌の道へ進むきっかけを作ったのが父親だったというのは、なかなか面白い巡り合わせです。

母・礼子は日劇ダンシングチームの一期生

母もまた、舞台の人でした。

母の礼子さんは、日劇ダンシングチームの一期生です。

日劇ダンシングチームは日本劇場の専属ダンスチームで、戦前から戦後にかけて日本のショービジネスの中心にいた存在でした。

その第1期のメンバーだったということですから、日本のショーダンスの草創期を担った一人ということになります。

バレエの父と、レビューの母。紀世彦さんは、この2つが交わったところに生まれた子どもでした。

のちに紀世彦さん自身が日劇の舞台に立つのは1963年のことです。母が立った舞台に、20年後に息子が上がったことになります。

兄・彰彦もバレエダンサー|弟・征彦は茅ヶ崎で飲食店経営

兄弟についても見ておきましょう。

兄の彰彦さんは、父と同じく「藤田彰彦」の芸名でクラシックバレエのダンサー・演出家として活動しました。

つまり父の道をそのまま継いだのが長男です。

一方、弟の征彦さんは芸能の道には進みませんでした。神奈川県茅ヶ崎市でステーキ店「繁や」を経営していたと紹介されています。

店名の「繁」は、父・繁さんの名前から取られたとみられます。芸の道には進まなくても、父の名を看板に掲げていたわけです。

3兄弟の進路は、バレエ・歌・飲食業とそれぞれ分かれました。

姓が「ルーカス」ではなく「尾崎」である理由

ここで一つ疑問が浮かびます。

父方の祖父がイギリス人ルーカス氏なのに、なぜ一家の姓は「尾崎」なのでしょうか。

実はこの点について、はっきり説明した資料は見当たりませんでした。

考えられるのは、父が日本人である母方の姓を名乗る形になったというケースです。明治から大正にかけての国際結婚では珍しいことではありません。

ただし、これはあくまで一般論からの推測です。尾崎家の場合にどうだったかを示す資料は確認できませんでした。

なお、父と兄がバレエで「藤田」を名乗っていたのは芸名であり、本来の姓は尾崎です。ここも混同されやすいところなので、押さえておきたいポイントです。

家系図から見える尾崎紀世彦の歩みと家族

ここからは、その家系図の中で本人がどう生きたかを追います。

芸能一家に育った少年が、どうやって『また逢う日まで』にたどり着いたのか。

そして本人が作った家族についても整理します。

東京・渋谷に生まれ茅ヶ崎で育つ|13歳のウクレレが原点

出発点から見ていきます。

尾崎紀世彦さんは1943年1月1日に東京都渋谷区で生まれ、神奈川県茅ヶ崎市で育ちました。

元日生まれというのも印象的です。

音楽との出会いは13歳のとき。父からウクレレを買ってもらい、中学の同級生6人でハワイアンバンドを結成しました。

17歳でセミプロとしてデビューし、1963年には日劇の舞台に立ちます。

茅ヶ崎という土地柄もあって、ハワイアンやポップスが身近にあったことがうかがえます。バレエの家に生まれながら、進んだのはバンドの道でした。

1971年『また逢う日まで』でレコード大賞

そして代表曲が生まれます。

1971年3月に発売された『また逢う日まで』は、第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞をダブル受賞しました。

作詞は阿久悠さん、作曲は筒美京平さん。オリコンシングルチャートで1位を獲得し、売上はミリオンセラーに達しています。

同年の第22回NHK紅白歌合戦には初出場し、白組のトップバッターを務めました。

あの伸びやかな高音と圧倒的な声量は、今も歌謡曲の一つの基準として語られています。

両親が舞台で培ってきたものが、息子の代で歌という形になって花開いた瞬間でした。

2度の結婚と3人の子ども|ハワイの家族との関係

本人の家族についても触れておきます。

尾崎紀世彦さんは2度結婚し、合わせて3人の子どもをもうけました。

時期 相手 子ども
1度目(1973年) ハワイ出身の女性 長男・長女の2人
2度目(1991年) 日本人女性 次女1人(1993年生)

1度目の結婚は1991年に、2度目は2006年に離婚したと伝えられています。

注目したいのは、離婚後もハワイ在住の家族との交流が続いていたことです。

晩年の療養時には、そのハワイの家族が献身的に看病したと記されています。

祖父がイギリスから海を渡ってきた家系の人が、自身もハワイに家族を持った。世代をまたいで海の外とつながり続けた一族と言えます。

「アイヌの血筋」という噂の真偽

家系図を調べていると、必ず出てくる噂があります。

尾崎紀世彦さんにアイヌの血が入っているのではないか、という話です。

結論から言うと、これを裏づける証拠は見当たりません。

噂の出どころは、彫りの深い顔立ちと豊かな髭という外見的な印象だとみられます。

ただ、その外見はイギリス人の祖父を持つクォーターという出自で十分に説明がつきます。わざわざ別の説を持ち出す必要はありません。

家系図の話題では、こうした外見からの推測が事実のように広まることがよくあります。出典のない話は切り分けて考えたいところです。

2012年に69歳で死去|最期を支えたのもハワイの家族

最後に晩年についてです。

尾崎紀世彦さんは2012年5月30日、肝臓がんのため69歳で亡くなりました。

その2年ほど前に胃がんの手術を受けており、その後に肺と肝臓へ転移していたと報じられています。

2012年4月には「失踪したのではないか」という報道も出ましたが、実際は病気療養のために活動を止めていたというのが実情でした。

1995年にはバイク事故で右足を複雑骨折しながら、3か月で復帰したという逸話も残っています。丈夫な人という印象が強かっただけに、訃報は驚きをもって受け止められました。

イギリス人の祖父、バレエの父、レビューの母。その血と環境の先に生まれた歌声は、69年で幕を閉じました。

尾崎紀世彦の家系図についてのまとめ

  • 尾崎紀世彦は1943年1月1日に東京都渋谷区で生まれ、神奈川県茅ヶ崎市で育った
  • 男3人兄弟の次男にあたる
  • 父方の祖父はイギリス人のヘンリー・バッキンガム・ルーカスで、本人は日英クォーター
  • 祖父は明治期に来日して神戸を拠点にし、神戸で亡くなったと伝えられる
  • 祖父の職業は灯台建設・貿易商・英国総領事館勤務と資料によって説が分かれる
  • 父は繁(芸名・藤田繁)で、クラシックバレエのダンサー・演出家だった
  • 1948年の東京バレエ団『白鳥の湖』全曲日本初演に出演したという記述がある
  • 母は礼子で、日劇ダンシングチームの一期生だった
  • 兄・彰彦も「藤田彰彦」の芸名でバレエダンサー・演出家として活動した
  • 弟・征彦は茅ヶ崎でステーキ店「繁や」を経営していた
  • 父と兄の「藤田」は芸名で、本来の姓は尾崎である
  • 姓が「ルーカス」でない理由を説明した資料は確認できなかった
  • 13歳で父にウクレレを買ってもらい、中学の同級生6人でハワイアンバンドを結成した
  • 1971年の『また逢う日まで』で日本レコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞した
  • 同年の第22回NHK紅白歌合戦に初出場し、白組トップバッターを務めた
  • 2度結婚し、1度目の妻との間に1男1女、2度目の妻との間に1女をもうけた
  • 晩年の療養時にはハワイ在住の家族が看病したと記されている
  • アイヌの血筋という噂に裏づけとなる証拠はない
  • 2012年5月30日、肝臓がんのため69歳で死去した

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)