外尾悦郎の実家は福岡市!6歳で父を亡くし母が女手一つで守った家業

外尾悦郎の実家は福岡市!6歳で父を亡くし母が女手一つで守った家業

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スペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリアで主任彫刻家を務める外尾悦郎さん。

あれほど世界的な仕事をしている方が、いったいどんな家に生まれ育ったのか、気になっている方は多いのではないでしょうか。

調べてみると、外尾さんの実家は福岡県福岡市。6歳で父親を亡くし、お母さんが女手一つで商売をしながら4人の子供を育て上げたご家庭でした。しかも15歳のとき、そのお母さんから「家を出て、一人で生きていきなさい」と告げられているんです。

この記事を読むとわかること
・外尾悦郎の実家がある場所と、家業として営まれていた商売
・6歳で父を亡くしてから母が4人きょうだいを育てるまでの家庭事情
・15歳で実家を離れることになった経緯と、その後の進路

外尾悦郎の実家は福岡市|父の死後を母が支えた家

まずは外尾悦郎さんの実家がどこにあり、どんな家庭だったのかを順に見ていきますね。父親の死、母親が守った商売、そして15歳での自立まで、かなり濃い背景があります。

実家があるのは福岡県福岡市

外尾悦郎さんは1953年(昭和28年)に福岡県福岡市で生まれています

本人のプロフィールでも出身地は一貫して福岡県福岡市とされていて、講演会の登壇者紹介や大学の卒業生紹介でも同じ表記です。

幼稚園から高校まですべて福岡市内の学校に通っているので、少なくとも18歳前後まで暮らしの拠点は福岡市だったと考えてよさそうですよ。

ただし、実家の番地レベルの住所や建物の様子については公表されていません。

ご本人はスペイン在住が40年以上と長く、家族もバルセロナで暮らしているため、実家そのものを取材した記事も見当たりませんでした。

つまり「外尾悦郎の実家はどこか」という問いへの答えは、福岡県福岡市までが確かな範囲ということになります。

福岡市のどのあたりかを推測できる手がかり

住所そのものは分からないものの、通っていた学校からある程度の生活圏は想像できます。

外尾さんが通った福岡雙葉小学校附属幼稚園は福岡市中央区、福岡教育大学附属福岡小学校・中学校も福岡市中央区にあります。

さらに進学した福岡県立福岡高校は福岡市博多区です。

いずれも福岡市の中心部に位置する学校ばかりなので、実家も市の中心寄りだった可能性が高いと見るのが自然かなと思います。

もちろんこれはあくまで通学先からの推測で、公式に語られたものではない点は押さえておいてくださいね。

家業は掛け軸や屏風を扱う商売だった

外尾家は、ただのサラリーマン家庭ではありませんでした。

外尾さんご本人がインタビューで、父親の死後に母親が「商売をしながら」4人の子供を育てたと語っています

つまり外尾家には、両親が営む自営の家業があったということですね。

その家業の中身について、一部のメディアでは掛け軸や屏風を仕立てる表具屋だったと紹介されています。

表具屋というのは、書や絵を掛け軸に仕立てたり、屏風や襖を張り替えたりする伝統工芸の職種です。

ただ、この「表具屋」という具体的な業種については、外尾さん本人が語った一次的な発言としては確認できませんでした。

本人の口から出ている表現は、あくまで「商売」までです。

家業があったことは本人発言から確かですが、それが表具屋だったという点は裏付けが一段弱い情報として受け止めておくのが安全だと思いますよ。

家業と彫刻家という職業のつながり

もし本当に表具屋だったとすれば、これはなかなか興味深い話です。

紙や布、木といった素材を扱い、寸法をミリ単位で合わせ、仕上がりの美しさで勝負する仕事。

石を彫って形にしていく彫刻の仕事と、手で素材と向き合うという一点で見事に重なります。

幼い頃から職人の手つきを日常の風景として見ていたとしたら、ものを作ることへの抵抗が最初から無かったとしても不思議ではありません。

……なんだか、じんわりしますよね。ただしこれは筆者の見立てであって、外尾さん自身が家業と彫刻を結びつけて語っているわけではない点は付け加えておきます。

父は6歳のときに44歳で亡くなっている

外尾家の転機は、あまりにも早く訪れました。

外尾さんは致知出版社のインタビューで、6歳のときに父親が心臓を患い、44歳の若さで亡くなったと明かしています。

44歳といえば、子供がまだ全員小さい年代です。

外尾さんは1953年生まれなので、単純に計算すると父親が亡くなったのは1959年から1960年ごろということになりますね。

小学校に上がるかどうかという年齢で父親を失う。

正直、これはきつかっただろうなと思います。

外尾悦郎さんの実家を語るうえで、この父親の早すぎる死は絶対に外せない出発点です。

父親の名前や職業の詳細は公表されていない

父親についてご本人が語っているのは、亡くなった年齢と死因、そして子供たちの教育に対する強い意向までです。

名前や具体的な仕事内容、どんな性格の人だったかといった情報は、メディアにも本人の発言にも出てきませんでした。

家業を営んでいたことから自営業だったとは推測できますが、そこから先は分かっていないというのが実情です。

母が女手一つで商売と4人の子育てを担った

父親を失ったあと、外尾家を支えたのは母親でした。

外尾さんは「母親が女手一つで商売をしながら4人の子供を育ててくれた」と、はっきり言葉にしています。

1960年前後の日本です。

今のように働く女性を支える制度が整っていた時代ではありません。

その中で商売を続けながら、4人の子供を進学させていったわけですから、相当な気力と体力が必要だったはずです。

想像するだけで、胸が締め付けられますよね。

外尾悦郎さんの実家を一言で表すなら、父を早くに失い、母がその穴を商売と子育ての両方で埋め続けた家だと言えます。

後述する15歳での自立の話も、この母親像を知っていると受け取り方がまったく変わってきますよ。

4人きょうだいの末っ子として育つ

外尾悦郎さんの家族構成についても、本人の発言から輪郭が見えています。

ご本人が語っているのは、4人きょうだいの末っ子だったということ。

つまり父・母・子供4人の6人家族だったことになります。

きょうだいの性別や名前、それぞれの職業といった情報は公表されていません。

兄がいるのか姉がいるのかも明かされておらず、一般の方であることを踏まえると、今後も表に出る可能性は低そうです。

項目内容
出身地福岡県福岡市
生まれ年1953年(昭和28年)
外尾さんが6歳のとき、44歳で死去(心臓の病)
商売をしながら4人の子供を育てる
きょうだい4人きょうだいの末っ子
家業自営の商売(表具屋とする報道もあるが本人発言では未確認)

末っ子という立場は、この家庭ではむしろ厳しさとして働いたように見えます

上に3人いる状態で父親が亡くなっているわけですから、母親にとって末っ子まで手をかけ続けるのは簡単ではなかったはずですよね。

父の遺志で雙葉幼稚園から附属の小中へ

経済的には決して楽ではなかったはずの外尾家ですが、子供の教育には力が注がれていました。

外尾さんは、父親の遺志によって福岡雙葉小学校附属幼稚園から福岡教育大学附属の小学校・中学校まで通わせてもらったと語っています。

雙葉はカトリック系の名門として知られる学校です。

また福岡教育大学附属の小中学校も、地元では学力面で評価の高い国立の学校になります。

父親が亡くなったあともこのコースを歩ませたのは、母親が遺志を守り抜いたということですよね。

これは、読んでいてこちらまで背筋が伸びる話だなと思いました。

雙葉との出会いがのちの仕事にも重なる

ここは個人的に面白いと感じた点です。

雙葉はカトリック系の学校で、外尾さんが現在携わっているサグラダ・ファミリアもカトリックの聖堂です。

幼稚園という人生でいちばん最初の学び舎と、生涯をかけている仕事場が、同じ信仰の文脈でつながっている。

もちろん本人が両者を結びつけて語ったわけではないので、あくまで筆者が時系列を並べて気づいた符合にすぎません。

それでも、なかなか味わい深い巡り合わせだと思いませんか。

高校で馴染めず浪人することになった経緯

順調に見えた進学コースは、しかし中学の先で一度つまずきます。

外尾さんは、附属の学校の環境に「どうも馴染めなくて」別の高校を受験したと振り返っています。

そして、その受験がうまくいかず浪人することになりました。

高校受験での浪人というのは、当時でもかなり珍しい選択です。

周囲の同級生がみな高校生になっていく中で、一人だけ立ち止まる時間を過ごしたことになりますね。

ただ、この浪人について外尾さんは後年、浪人してよかったと母に感謝していると語っています。

結果的にこの1年の遠回りが、外尾悦郎さんという人の芯を作ったということなのだと思います

なお最終的に卒業したのは福岡県立福岡高等学校です。

母に告げられた「一人で生きていきなさい」

外尾悦郎さんの実家の話で、もっとも強烈なのがこの場面です。

浪人を経て第二志望の高校に合格したあと、思いがけないことが起きます。

母親が入学金を払い忘れてしまったのです。

そして母親は外尾さんに、こう告げました。

「あなたは家を出て、これから一人で生きていきなさい」

これ、初めて読んだとき正直ぞくっとしました。

合格を勝ち取った直後の15歳に対して、突きつける言葉としてはあまりにも重いですよね。

ただし外尾さんはこの出来事を、恨みや悲しみとしては語っていません。

むしろ人生の転機として、そして母への感謝として振り返っているのが、この家族の関係性を物語っています

払い忘れは本当に「うっかり」だったのか

ここは記事を書いていて考え込んだところです。

父を早くに亡くし、商売をしながら4人を育ててきた母親が、末っ子の入学金だけを失念する。

単なるうっかりだった可能性ももちろんありますが、経済的な事情や、上の子供たちを送り出した末の判断が背景にあった可能性も否定できません。

実際に何があったのかは公表されておらず、外尾さん自身も理由までは語っていません。

ここは断定できない部分として、そのまま受け止めておきたいと思います。

実家を離れた15歳から京都市立芸術大学へ

15歳で自立を求められた外尾さんが選んだ進路は、現実的なものでした。

ご本人は当時を振り返り、「一番安い大学に行くしかない」と考えたと語っています。

そうして進んだのが、公立の京都市立芸術大学美術学部彫刻科でした。

芸術を志したというより、まず自分の食い扶持と学費を成立させるところから逆算した選択だったわけですね。

のちに世界遺産の彫刻を手がける人物のスタートが、この現実的な計算から始まっているというのは、なんだか胸に残ります。

外尾悦郎さんの実家は、経済的な保護を早々に手放させた代わりに、自分の力で立つ習慣を与えた家だったと言えるのではないでしょうか

大学卒業後は中学校と高校定時制の非常勤講師を務め、その後1978年、25歳でスペイン・バルセロナへ渡ります。

外尾悦郎の実家を調べる人向けの関連情報

ここからは、外尾悦郎さんの実家を調べている方が一緒に気にされることの多い情報をまとめていきます。学歴から現在の家族、そしてサグラダ・ファミリアでの仕事までを整理しますね。

高校は福岡県立福岡高校

外尾悦郎さんの出身高校は福岡県立福岡高等学校です。

福岡市博多区にある県立高校で、県内でも屈指の進学校として知られています。

浪人を経て入った第二志望の高校がここにあたる可能性が高いのですが、外尾さん自身は学校名までは明言していません。

高校卒業後は京都市立芸術大学美術学部彫刻科へ進み、1977年に卒業しています。

学歴を並べると次のようになりますよ。

段階学校名
幼稚園福岡雙葉小学校附属幼稚園
小学校福岡教育大学附属福岡小学校
中学校福岡教育大学附属福岡中学校
高校福岡県立福岡高等学校
大学京都市立芸術大学美術学部彫刻科

幼稚園から中学まで私立・国立の名門、高校は県立トップ校という、教育熱心な家庭の軌跡がそのまま出ている学歴です

妻はピアニストの比石妃佐子

外尾悦郎さんの奥さんは、ピアニストの比石妃佐子(ひせき ひさこ)さんです。

結婚したのは外尾さんが32歳のときとされています。

比石さんは国際的に活動するピアニストで、夫婦ともに芸術の世界で仕事をしている形ですね。

2012年1月17日には夫婦そろってテレビ朝日の「徹子の部屋」に出演しています。

石を彫る人とピアノを弾く人。

素材はまったく違うのに、どちらも一生かけて技を磨き続ける仕事だという点は共通していて、……なんだか、いい組み合わせですよね。

実家では早くに父を失った外尾さんが、バルセロナで自分の家族を築いたという流れは、記事全体を通して見るとより味わい深く感じられます

娘はサグラダ・ファミリアの天使像のモデル

外尾さん夫妻には娘さんが1人いて、現在はバルセロナで3人暮らしとされています。

そしてこの娘さん、サグラダ・ファミリアに置かれた天使像のモデルになったと伝えられているんです。

外尾さんは生誕の門に、楽器を持つ天使や歌う子供たちの像を数多く手がけてきました。

その中に自分の娘の面影が刻まれているというのは、父親としてこれ以上ない仕事の残し方だと思いませんか。

世界遺産に自分の子供の姿が残る。

スケールが大きすぎて、ちょっと言葉が出ませんでした。

6歳で父を亡くした人が、自分の娘を石に刻んで世界遺産の中に残したという対比は、外尾悦郎さんという人物を知るうえで象徴的なエピソードです。

25歳で渡ったバルセロナからの経歴

外尾悦郎さんがスペインへ渡ったのは1978年、25歳のときでした。

大学卒業後に1年ほど教員をしたのち、石を彫りたいという一心でヨーロッパへ向かっています。

最初に入ったのはパリでしたが、本人いわく完璧に仕上がった街で可能性を感じられず、バルセロナへ移りました。

興味深いのは、はじめからサグラダ・ファミリアを目指していたわけではないという点です。

ご本人はインタビューで、ガウディだろうがサグラダ・ファミリアだろうがどうでもよかった、そこに石があったことが決め手だったという趣旨の発言をしています。

コネも紹介もない状態から、駐在員を介して主任建築家との面会にこぎつけ、旅立ちから2か月あまりで試験に合格。

15歳で家を出て一人で生きてきた人だからこそ通せた突破の仕方だな、と読んでいて思いました

以降、修復とオリジナルの彫刻の両方を担い、2013年には主任彫刻家に任命されています。

現在の活動と主な受賞歴

2026年時点で外尾悦郎さんは73歳。

サグラダ・ファミリアの主任彫刻家として、彫刻と装飾制作の監督を務めています

これまでに手がけた彫刻作品は500点近いとされ、2005年には外尾さんが携わった生誕の門を含むガウディの作品群が世界遺産に登録されました。

2015年にはブロンズの扉も完成させています。

受賞歴も国内外で積み重なっていますよ。

受賞・表彰
2002年福岡県文化賞
2009年外務大臣表彰
2012年ミケランジェロ・ディ・カララ賞
2024年ラツィンガー賞(日本人初)
2025年京都市文化芸術きらめき大賞

2002年の福岡県文化賞は、まさに実家のある福岡から贈られたものです。

15歳で家を出た人が、40年以上を経て故郷の福岡から表彰される。この一点だけでも、外尾悦郎さんの実家の物語はきれいに一周していると感じます

外尾悦郎の実家のまとめ

  • 外尾悦郎の実家は福岡県福岡市にある
  • 1953年(昭和28年)に福岡市で生まれている
  • 実家の詳しい住所や建物の様子は公表されていない
  • 通った学校はいずれも福岡市中心部で、実家も市の中心寄りだった可能性がある
  • 実家には自営の家業があり、母が商売をしていたと本人が語っている
  • 家業は掛け軸や屏風を扱う表具屋だったとする紹介もあるが、本人発言では未確認
  • 父は外尾が6歳のとき、心臓の病により44歳で死去
  • 父の名前や詳しい職業は公表されていない
  • 母は女手一つで商売をしながら4人の子供を育て上げた
  • 外尾は4人きょうだいの末っ子で、6人家族だった
  • きょうだいの名前・性別・職業は明かされていない
  • 父の遺志で雙葉幼稚園から福岡教育大学附属の小中へ進んだ
  • 附属の環境に馴染めず別の高校を受験して浪人している
  • 合格後に母が入学金を払い忘れ、15歳で家を出るよう告げられた
  • 「一番安い大学」として京都市立芸術大学彫刻科へ進学した
  • 大学卒業後は教員を経て、1978年に25歳でバルセロナへ渡った
  • 妻はピアニストの比石妃佐子で、娘が1人いる
  • 娘はサグラダ・ファミリアの天使像のモデルになったとされる
  • 2013年にサグラダ・ファミリアの主任彫刻家に任命された
  • 2002年に故郷から福岡県文化賞を受賞している

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