山下太郎の家系図は養子でつながる!息子3人が別姓になった理由

山下太郎の家系図は養子でつながる!息子3人が別姓になった理由

記事内に広告を含みます

山下太郎さんの家系図、調べ始めるとまず「どっちの山下太郎?」でつまずくんですよね。

この記事で扱うのは、サウジアラビアで油田を掘り当てて「アラビア太郎」と呼ばれたアラビア石油の創業者のほうです。実はこの人、自分自身が近藤家から山下家へ養子に入った人で、しかも息子3人のうち2人をまた別の家へ養子に出しているんです。

生家から妻・子ども・子孫まで、山下太郎さんの家系図を順番にたどっていきます。

この記事を読むとわかること
・山下太郎の旧姓と、山下家へ養子に入った生い立ち
・妻・小島文子と、息子3人(水野惣平・山下耕平・正木烝司)の行き先
・孫より下の世代の情報と、山下汽船・山下亀三郎との違い

山下太郎の家系図|アラビア太郎と呼ばれた実業家の系譜

山下太郎の家系図は、本人が養子として山下家に入り、さらに息子たちもそれぞれ別の家へ出ていくという、かなり珍しい形をしています。

まずは人物の特定から始めて、生家・妻・子どもたち・子孫の順に整理していきますね。

アラビア石油の創業者で、山下汽船の一族とは別人

最初にここをはっきりさせておきます。

この記事で扱う山下太郎さんは、アラビア石油の創業者で「アラビア太郎」と呼ばれた実業家のほうです。

1889年に秋田県平鹿郡大森村(現在の横手市大森町)で生まれ、1967年6月9日に78歳で亡くなりました。

検索していると山下汽船の話が混ざってくることがあるのですが、あちらの創業者は山下亀三郎さん(1867-1944)という愛媛県出身の別人です。

姓が同じで、どちらも一代で財を築いた実業家なので、家系図を調べていると本当にまぎらわしいんですよね。

名字が同じというだけで、血縁関係はありません

山下太郎さんの異名も少しややこしくて、時期によって3つあります。

異名 由来
満洲太郎 満鉄の社宅建設で満州を舞台に大きくなった時期
山師太郎 事業の当たり外れが激しかった時期の評
アラビア太郎 サウジアラビアで油田を掘り当てた晩年

呼び名だけで人生が3幕あるのが分かるのが、この人の面白いところだと思います。

生家は近藤家、山下家へ養子に入った生い立ち

家系図をたどるうえで一番大事なのがここです。

山下太郎さんの旧姓は近藤で、山下家には養子として入っています

Wikipediaによれば、実の父母は近藤正治さん・みつさん夫妻で、太郎さんはその長男。

養父母は山下太惣吉さん・ひささん夫妻とされています。

秋田県立博物館の紹介ページにも「旧姓・近藤」とはっきり書かれているので、ここは公的な資料でも確認できる部分です。

さらに、祖父は早くに亡くなっており、祖母に育てられたとも記されています。

つまり山下太郎という名前そのものが、生まれたときのものではないわけですね。

学歴については資料によってばらつきがあります。

大森小学校を4年で修了したあと、慶應義塾普通部を経て、北海道帝国大学(旧・札幌農学校)の農学部農芸学科へ進んだという流れは共通しています。

ただ卒業年は、Wikipediaが1909年3月、顕彰育英会の年譜が明治42年(=1909年)、秋田県立博物館が1912年としていて一致しません。

生年月日も、Wikipediaは1889年4月24日、顕彰育英会の年譜は明治22年4月9日となっていて、実は日付が違うんですよ。

明治期の記録なので仕方ない部分もありますが、基本情報の段階ですでに揺れがあるというのは頭に入れておいてください。

札幌農学校ではクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」に強く感化されたと伝えられていて、その開拓者気質がのちの油田開発につながっていきます。

妻・小島文子と、遺志を継いだ顕彰育英会

妻については資料が一致しています。

妻は小島文子さんで、大正5年(1916年)に結婚しました。

この年は山下太郎さんにとって節目の年で、結婚と同時に東京・深川で山下商店を立ち上げています。

穀物と鉄鋼の海外貿易に目をつけ、28歳で数百万円の財を成したと年譜には記されています。

大正時代の数百万円ですから、感覚としては相当なものですよね。

文子さんの名前が今も残っているのは、夫の死後の動きがあったからです。

山下太郎さんの遺志を継いで、文子夫人の厚志により財団法人山下太郎顕彰育英会が設立されました。

秋田県民の子弟を対象に、大学進学時の奨学金を出す制度がいまも続いています

学術研究奨励賞や地域文化奨励賞といった顕彰も行われていて、家系というより「遺したもの」の形で名前が受け継がれている感じですね。

もともと山下太郎さん自身が、大正13年から20年間にわたって郷里の大森町へ奨学金を寄付し続けていて、その功績で紺綬褒章を受けています。

奨学金への強いこだわりは、夫婦二代で貫かれたテーマだったのかもしれません。

子供は20人近く、息子3人はそれぞれ別の家へ

ここが山下太郎の家系図でいちばん驚くところです。

複数のまとめ記事によると、男子3人のほかに女子が十数人おり、子どもは全部で20人近くいたとされています。

ただしこれは一次資料で確認できる数字ではないので、あくまで「そう伝えられている」というレベルの話として受け止めてください。

はっきり名前が判明しているのは息子3人です。

名前 立場 家系上の位置
水野惣平 元アラビア石油社長・会長 水野成夫の養子に入り水野姓
山下耕平 公共建物社長 山下姓のまま
正木烝司 株式会社泰正社長 正木家の養子に入り正木姓

見ていただくと分かる通り、3人のうち2人が他家へ養子に出ていて、山下姓を名乗っているのは1人だけなんですよ。

自分自身が近藤家から山下家へ養子に入った人が、息子たちを別々の家へ出している。

家系図として描くと、線が外へ外へ伸びていく形になります。

これ、当時の財界では珍しくない結び付き方ではあるのですが、それにしても徹底しているなと感じます。

娘たちについては記録が乏しい

女子が十数人いたとされる一方で、名前や嫁ぎ先が具体的に記録として残っているものはほとんど見当たりません。

戦前の実業家の家系では、男子の事業継承だけが記録に残り、娘の系統は追いにくくなるという傾向があります。

山下家についても、その典型的なパターンになっているようです。

水野惣平は水野成夫の養子でアラビア石油社長に

息子のなかで最も経歴がはっきりしているのが水野惣平さんです。

1923年9月6日生まれで、実父が山下太郎さん、養父が水野成夫さん。

養父の水野成夫さんは「財界四天王」の一人として池田勇人首相を支えたとされる人物で、実父も養父も戦後日本の財界を動かした側の人間という、なかなかすごい環境ですね。

経歴を追うと、富国生命保険、日本開発銀行を経て、小林中事務所で秘書役を務めています。

そして1964年に富士石油の専務、1968年にアラビア石油の専務へ。

1971年にはアラビア石油の社長になり、そのわずか2年後には会長へ昇格して経団連理事にも就いています。

父が創業した会社のトップに、養子に出た息子が就いたという形です。

姓は違っても、事業としてはまっすぐ受け継いだ形になっているんですよね。

……ここ、家系図と事業承継の線がねじれながら重なっていて、個人的にすごく面白いポイントだと思っています。

山下耕平は公共建物の社長を務めた

3人の息子のうち、山下姓を残したのが山下耕平さんです。

肩書は公共建物株式会社の社長。

公共建物は山下太郎さんが関わった不動産・建設系の企業で、満鉄の社宅建設で培った事業の流れをくむ会社にあたります。

石油ではなく建物のほうを引き継いだ形ですね。

ただ、耕平さんについては公開されている情報が少なく、生年や詳しい経歴を確認できる資料は見つかりませんでした。

山下記念館やアラビア石油関連の資料でも、名前が挙がるにとどまっています。

山下姓を継いだ人ほど、記録上は目立っていないというのは、なんだか不思議な話です。

正木烝司は正木家の養子で正木ひろしとも縁戚

3人目の息子が正木烝司さんです。

正木家の養子に入り、株式会社泰正の社長を務めました。

そしてこの養子縁組によって、山下家は弁護士の正木ひろしさんと縁戚になっています。

正木ひろしさん(1896-1975)は、第二次大戦中に個人雑誌『近きより』を刊行して軍国日本を批判し続けた人物として知られる弁護士です。

石油の実業家と、反骨の弁護士が親戚同士というのは、なかなか組み合わせが強烈ですよね。

家系図の枝の先で、まったく違う世界の人物とつながっているわけです。

正木烝司さんについては、ちょっと変わった逸話も語られています。

これは後半で詳しく触れますが、堀江貴文さんのニッポン放送買収の件に絡んで名前が出てくるんですよ。

ただし出典が個人ブログなので、話半分で読んでおくのが正解だと思います。

孫・子孫について分かっていること

「山下太郎 孫」「山下太郎 子孫」で検索する人が多いのですが、正直なところ、孫世代以降の情報はほとんど公開されていません

理由はいくつか考えられます。

まず、山下太郎さんが亡くなったのが1967年で、すでに半世紀以上前だということ。

そして息子3人のうち2人が別姓になっているため、孫の代になると「山下太郎の子孫」として名前が結びつきにくくなっていること。

さらに、芸能人ではなく実業家の家系なので、そもそも家族が表に出る機会が少ないということ。

この3つが重なって、系譜としては水野惣平さんや正木烝司さんの世代で情報が途切れている状態です。

一方で、家名ではなく事業のほうを見ると、系譜ははっきり残っています。

アラビア石油は2000年代にサウジアラビア・クウェートの利権を失ったのち、2003年に富士石油などとの経営統合でAOCホールディングスとなりました。

家系図としての「山下家」よりも、郷里に残る山下記念館と顕彰育英会のほうが、実質的な継承の形になっていると言えそうです。

山下太郎の家系図を調べる人向けの関連情報

家系図と一緒に検索されているのが、資産の話や自宅の場所、そして山下汽船との関係です。

ここからはその周辺をまとめて見ていきますね。

資産はどれくらいあったのか

「アラビア太郎 資産」はよく検索されているワードですが、はっきりした総額を示す資料は見つかりませんでした。

分かっているのは、資産が3回大きく動いているということです。

まず大正5年、山下商店を興して穀物と鉄鋼の貿易に乗り出し、28歳で数百万円の財を成したと年譜に記されています。

次が満州時代で、1924年に満鉄の社宅2万戸の建設管理を受注したことをきっかけに、事業網は満州・中国・朝鮮・台湾へ拡大しました。

戦前は日魯漁業、日東化学、日本軽金属といった企業にも関与しています。

ところが1945年の敗戦で、在外資産はすべて没収され、ここで一度ゼロになります

そして3回目が、67歳から始めたアラビア石油です。

1960年にカフジ油田で日産1,000キロリットルの産油に成功し、日本の海外自主開発原油第1号を掘り当てました。

一代で財を築いて、失って、また築いた人なんですよね。

ちなみに没後には、民間人としては異例とされる従三位勲一等瑞宝章が追贈されています。

自宅と山下記念館が残る秋田・横手

「山下太郎 自宅」で調べる人が多いのですが、現在たどれるのは郷里の施設のほうです。

秋田県横手市大森町に、山下記念館があり、業績を伝える資料が公開されています

横手市の公式サイトにも施設案内が載っている、れっきとした公共施設です。

同じ大森町には菩提寺の大慈寺があり、こちらに墓所があります。

山下太郎さんは昭和40年に大慈寺へ梵鐘を寄贈していて、生前から郷里との縁を切らさなかった人でした。

昭和11年には山下学館という施設も寄贈しています。

東京での豪邸の話ではなく、秋田の田舎町にこれだけの足跡が残っているというのが、この人らしいなと思うんですよね。

正木烝司とホリエモンの意外な接点

サジェストに「アラビア太郎 息子 ホリエモン」が出てくるので、こちらにも触れておきます。

個人ブログの記述によると、堀江貴文さんがニッポン放送の買収を進めていた時期に、正木烝司さんから「買った額と同額で売らないと大変なことになる」という趣旨の忠告を受けたとされています。

父・山下太郎さんが政財界に太いパイプを持っていた影響力が、息子の代まで残っていた、という文脈で語られている話ですね。

ただ、この逸話の出典は個人ブログで、一次情報での裏付けは取れていません

堀江さん本人が公式に語ったものとして確認できる形にはなっていないので、事実として断定するのは避けたほうがいいでしょう。

とはいえ、こういう話が出てくること自体が、山下家の当時の立ち位置を物語ってはいますよね。

山下汽船の現在と山下亀三郎との違い

最後に、混同されやすい山下汽船の話を整理しておきます。

山下汽船を創業したのは山下亀三郎さん(1867-1944)で、愛媛県の出身。

第一次大戦期の海運好況で「船成金」と呼ばれた人物です。

アラビア石油の山下太郎さんとは、血縁も姻戚関係もありません

山下汽船そのものは、今はもう存在していません。

出来事
1911年 山下亀三郎が山下汽船を設立
1964年 新日本汽船と合併し山下新日本汽船に
1989年 ジャパンラインと合併しナビックスラインに
1999年 大阪商船三井船舶と合併し現在の商船三井に

つまり山下汽船の現在は商船三井ということになります。

「山下太郎 家系図」で検索して山下汽船の家系図が出てきた場合、それは別の家の話なので、そこだけは注意してくださいね。

山下太郎の家系図のまとめ

  • この記事の山下太郎はアラビア石油の創業者で「アラビア太郎」と呼ばれた実業家
  • 山下汽船の山下亀三郎とは別人で、血縁関係はない
  • 1889年に秋田県平鹿郡大森村(現・横手市大森町)で生まれた
  • 旧姓は近藤で、山下家には養子として入っている
  • 実父母は近藤正治・みつ夫妻、養父母は山下太惣吉・ひさ夫妻とされる
  • 生年月日は4月24日説と4月9日説があり資料が割れている
  • 妻は小島文子で、大正5年(1916年)に結婚した
  • 子どもは男子3人・女子十数人で20人近いと伝えられる
  • 息子は水野惣平・山下耕平・正木烝司の3人
  • 水野惣平は水野成夫の養子となりアラビア石油社長・会長を務めた
  • 山下耕平は公共建物の社長で、山下姓を継いだ
  • 正木烝司は正木家の養子で、弁護士・正木ひろしとも縁戚になった
  • 孫より下の世代についてはほとんど公表されていない
  • 遺志は文子夫人が設けた山下太郎顕彰育英会に受け継がれている
  • 郷里の横手市大森町には山下記念館と墓所の大慈寺がある

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)