名古屋を拠点に約30社のヘラルドグループを築いた実業家・古川為三郎さん。日本ヘラルド映画の名前を知っている方は多いと思いますが、その創業家が名古屋の一族だったことはあまり知られていません。
そして家系図をたどると、いきなり意外な事実にぶつかります。実は為三郎さん自身が、3歳で古川家に入った養子だったんです。
3人の息子と孫たちへ、事業ごとに分けて渡していったこの一族の系譜を整理していきます。
・古川為三郎の家系図に並ぶ3人の息子と孫たちの立場
・養子だったのは長男ではなく為三郎本人だったという事実
・映画・ゴルフ・スキーと事業ごとに分かれた一族の構造
古川為三郎の家系図でたどるヘラルド一族三代
名古屋を拠点に約30社のヘラルドグループを築いた実業家・古川為三郎さん。
その家系図をたどると、一代で築いた事業が息子や孫の代でどう分かれていったのかがはっきり見えてきます。
家系図で見る古川家三代の広がり
まず全体の並びを押さえておきましょう。
古川為三郎さんには妻の志まさんとの間に3人の息子がいました。
長男が古川勝巳さん、二男が古川博三郎さん、三男が古川善次郎さんです。
そして長男・勝巳さんの子どもとして、孫の代に古川為之さんと古川博三さんが登場します。
ここまでが古川家の三代です。
面白いのは、この3人の息子がそれぞれ別の会社を持ち、グループが枝分かれしていったことです。
ひとつの会社を長男がまるごと継ぐ、という形にはなっていません。
家系図がそのまま事業の分割図になっている、めずらしいケースだと思います。
| 続柄 | 氏名 | 主な立場 |
|---|---|---|
| 本人 | 古川為三郎 | ヘラルドグループ創業者 |
| 妻 | 志ま | ― |
| 長男 | 古川勝巳 | 初代 日本ヘラルド映画 社長 |
| 二男 | 古川博三郎 | 今池土地建物 社長 |
| 三男 | 古川善次郎 | エフワン 社長 |
| 孫(勝巳の次男) | 古川為之 | ヘラルドコーポレーション 初代社長 |
| 孫(勝巳の三男) | 古川博三 | 3代目 日本ヘラルド映画 社長 |
孫の「為之」さんという名前、少し注目してください。
祖父の「為三郎」から一字を取っているように見えますよね。
家系図としては、名前のうえでも祖父とのつながりが意識されている印象を受けます。
3歳で養子に入って始まった家系
古川為三郎さんの家系図には、実はスタート地点に大きな仕掛けがあります。
為三郎さん自身が、幼いころに養子として古川家へ入った人だからです。
生まれたのは1890年(明治23年)1月18日、愛知県中島郡萩原村。
いまでいう一宮市にあたる場所です。
そして1893年10月、名古屋市矢場町に住む遠縁の古川己之助さんの養子になりました。
3歳のときですね。
養父の己之助さんは、宝石や貴金属を扱う「古川己之助商店」を営んでいた人でした。
つまり為三郎さんは、生まれた家ではなく、養子に入った先の商家で育っています。
ここ、家系図を見るときにとても重要なポイントです。
ネット上では「古川勝巳が養子」と書かれているものを見かけることがありますが、これは逆です。
養子だったのは為三郎さん本人で、勝巳さんは実の長男にあたります。
商家の空気の中で育った少年が、のちに30社規模のグループを築くことになる。
そう考えると、この養子縁組が古川家の家系図の実質的な出発点だと言っていいと思います。
妻・志まと3人の息子たち
為三郎さんの妻は志まさんといいます。
残念ながら、志まさんについて公開されている情報はほとんどありません。
生年も出自も、表には出てきていない状態です。
ただ、家系図のうえで確かなのは、この夫婦から3人の息子が生まれていることです。
長男・古川勝巳さん、二男・古川博三郎さん、三男・古川善次郎さん。
3人がそれぞれ実業家となり、父の事業のなかで別々の領域を担当していきました。
創業者の子どもが全員経営側に回るというのは、かなり珍しいことだと思います。
しかも兄弟が同じ会社の中で椅子を取り合うのではなく、会社そのものを分けているんですね。
このあたりのやり方は、あとで詳しく見ていきます。
なお、娘がいたかどうかについては、はっきりした情報が見つかりません。
家系図として公表されているのは息子3人の系統だけ、というのが現状です。
長男・古川勝巳が映画で広げた事業
3人の息子のなかで、いちばん名前が知られているのが長男の古川勝巳さんです。
1914年(大正3年)生まれ、1986年(昭和61年)に亡くなっています。
勝巳さんは父・為三郎さんとともに日本ヘラルド映画を設立し、初代の代表取締役社長を務めました。
そして映画の世界で大きな仕事をしています。
当時の日本では短編映画が主流でしたが、そこへ長編の外国映画を持ち込んだのが勝巳さんでした。
配給した作品には『エマニエル夫人』のような大ヒット作があります。
そして最後に手がけたのが、黒澤明監督の『乱』でした。
……この並びだけで、映画にどれだけ深く関わっていたかが伝わってきますよね。
1985年には勲三等旭日中綬章を受章しています。
父が興行から始めた映画事業を、配給という形で世界とつなげたのが勝巳さんだったと言えます。
亡くなったのは1986年7月12日。
このとき、あとを継ぐことになったのが息子の古川為之さんです。
二男・古川博三郎と三男・古川善次郎
二男の古川博三郎さんは、今池土地建物の社長を務めた実業家です。
三男の古川善次郎さんは、エフワンの社長を務めました。
映画の名前が出てこないので地味に見えるかもしれませんが、そんなことはありません。
古川グループの事業は映画だけではなかったからです。
為三郎さんは1960年代に名古屋駅前や中区栄で映画館を開いたあと、ボウリング場、ゴルフ場、スキー場といったレジャー産業へも手を広げています。
そして家系図と会社の対応を見ると、こうなります。
長男一族がヘラルドグループ。
二男がフジオカ開発、つまり藤岡カントリークラブ。
三男一族が株式会社平安(ダイナランド)と株式会社エフワン(今池国際劇場)。
映画は長男、ゴルフは二男、スキーと劇場は三男という具合に、事業ごとにきれいに分かれているんです。
これ、かなり計画的な分け方だと思いませんか。
兄弟で同じパイを奪い合わないように、最初から別の領域を割り当てているように見えます。
孫の古川為之と古川博三で分かれた
家系図の三代目にあたるのが、長男・勝巳さんの息子たちです。
古川為之さんは1944年2月5日生まれ。
1966年に慶應義塾大学法学部を卒業し、コマ・スタジアムに入社しています。
1979年に代表取締役副社長、そして1986年7月12日に父・勝巳さんが亡くなったことで代表取締役社長になりました。
翌1987年にはヘラルドコーポレーションを設立し、その初代社長に就いています。
一方、弟の古川博三さんは日本ヘラルド映画の3代目代表取締役社長になりました。
つまり長男一族のヘラルドグループも、孫の代で名古屋のヘラルドグループと日本ヘラルド映画の2つに分かれたということです。
祖父が1つで始めたものが、息子の代で3つに、孫の代でさらに枝分かれしていく。
家系図と組織図がここまで重なる一族は、なかなかないと思います。
一族はなぜ会社ごとに分かれたのか
ここからは少し推測を交えて考えてみます。
古川家の分かれ方には、はっきりした特徴があります。
同じ会社の中で役職を分けるのではなく、会社そのものを分けているという点です。
普通の同族企業なら、長男が社長で弟たちが副社長や専務、という形が多いですよね。
ところが古川家は、映画、ゴルフ、スキー、劇場と、事業ごとに独立した会社を作って割り当てています。
これは想像ですが、為三郎さん自身が養子として家に入った経験と関係があるのかもしれません。
生まれた家を出て、別の家で自分の力を試した人です。
自分の子どもたちにも、それぞれ独立した場所を用意しようと考えたとしても不思議ではありません。
もちろん、これは公式に語られたことではないので、経歴と系図から読み取れる範囲の話です。
ただ、兄弟げんかで会社が割れたのではなく、最初から分けて渡している構造であることは、家系図と会社の対応を見れば見て取れます。
創業者としては、かなり冷静な設計だと思います。
古川為三郎の家系図を調べる人向けの関連情報
ここからは、家系図とあわせて調べられることが多い為三郎さん本人の歩みと、いま残っているものについてまとめます。
太陽館の買収から始まった映画人生
古川為三郎さんが映画の世界に入ったのは1920年のことでした。
名古屋・大須にあった活動写真館「太陽館」を買収したのが始まりです。
養父の商売は宝石と貴金属でしたから、まったく違う業種への転身ですね。
そこから映画館の経営を広げ、戦後は配給事業へ進みます。
1957年には、欧米映画配給社がヘラルド映画株式会社へと社名を変更しました。
ここから「ヘラルド」という名前が本格的に動き出します。
1960年代には名古屋駅前や中区栄に映画館を開き、さらにレジャー産業へ。
最終的には約30社を数えるヘラルドグループができあがりました。
映画館1つの買収から30社へ。
一代でここまで持っていった人はそう多くありません。
103歳まで生きた世界最高齢の富豪
古川為三郎さんを語るうえで外せないのが、その長寿です。
1890年生まれで、亡くなったのは1993年5月19日。103歳でした。
そして1988年、アメリカの経済誌『フォーチュン』が為三郎さんを「世界最高齢の富豪」として紹介しています。
このとき98歳です。
98歳で現役の富豪として世界の雑誌に載る。
これには正直、驚きました。
なお、ネット上には「108歳で亡くなった」という記述も見かけますが、生没年から計算すると103歳が正しい数字になります。
家系図の話に戻すと、この長寿は一族にとって大きな意味を持ちました。
というのも、長男の勝巳さんは1986年に亡くなっており、為三郎さんは自分の息子を先に見送っているからです。
創業者が生きているうちに、後継ぎだった長男が先に逝く。
……これは、こたえたと思います。
孫の為之さんが早い時期にグループの中心へ立つことになったのも、この順番が関係していました。
古川美術館と爲三郎記念館に残るもの
為三郎さんが遺したもので、いまも誰でも訪ねられるのが古川美術館です。
1991年11月7日に開館し、為三郎さん自身が初代館長を務めました。
このとき101歳です。
101歳で美術館の館長に就任するというのも、なかなか聞かない話ですよね。
集めた美術品を自分のところに抱え込まず、公開する形にしたわけです。
そして為三郎さんが亡くなったあと、2007年には住まいだった主屋や庭園が古川美術館分館の爲三郎記念館として公開されるようになりました。
数寄屋づくりの建物と庭園が、そのまま残されています。
家系図の観点で見ると、ここが少し面白いところです。
事業は3人の息子と孫たちに分けて渡した一方で、自分の名前を冠した美術館と記念館は、家族ではなく一般に開かれる形で残した。
会社は分ける、文化は残す。
そういう線の引き方をした人だったのかなと思います。
勝巳と勝己で表記が分かれる名前
家系図を調べていて引っかかるのが、長男の名前の書き方です。
Wikipediaや日本ヘラルド映画の年譜では「古川勝巳」、古川美術館の公式ページでは「古川勝己」と書かれています。
「巳」と「己」。
見分けがつきにくい漢字ですが、別の字です。
どちらが正式なのかを断定できる資料は、今回の調べ方では見つかりませんでした。
ただ、美術館は古川家が関わる施設ですから、そちらの表記にも相応の重みがあります。
家系図を書き写すときや検索するときは、どちらの表記でも情報にたどり着けるよう、両方を覚えておくのが確実だと思います。
有名人の家系図を調べていると、こういう表記ゆれにはよくぶつかります。
同じ人物なのに別人のように扱われてしまうこともあるので、注意したいところですね。
家系図をめぐる世間の声
古川為三郎さんの家系図については、ネット上でいくつか目立つ反応があります。
いちばん多いのが、「ヘラルドがもともと名古屋の会社だと知らなかった」という驚きです。
日本ヘラルド映画は東京の会社という印象が強いので、創業家が名古屋の一族だと知って意外に思う人が多いようですね。
次に多いのが、為三郎さん本人が養子だったという点への反応です。
一族の始まりが養子縁組だったと知ると、家系図の見え方がだいぶ変わってきます。
そして103歳という長寿と、98歳で「世界最高齢の富豪」と紹介された話も定番の驚きポイントです。
一方で、二男の古川博三郎さんや三男の古川善次郎さんについては情報が少なく、家系図の全体像がつかみにくいという声もあります。
孫の代についても、為之さんと博三さん以外の情報はほとんど出てきません。
調べてみて感じたのは、古川家は会社の名前は世に出しても、家族の名前は必要以上に出さない一族だったのだろうということでした。
古川為三郎の家系図のまとめ
- 古川為三郎は1890年1月18日生まれ、1993年5月19日に103歳で死去した実業家
- 出身は愛知県中島郡萩原村で、現在の一宮市にあたる
- 1893年10月、3歳で名古屋・矢場町の遠縁である古川己之助の養子となった
- 養父の己之助は宝石・貴金属商の古川己之助商店を営んでいた
- 養子だったのは為三郎本人であり、長男の勝巳は実子である
- 妻は志まで、詳しい情報は公表されていない
- 長男は古川勝巳(1914年〜1986年)で初代日本ヘラルド映画社長
- 勝巳は長編外国映画の導入や『エマニエル夫人』のヒットで知られる
- 二男は古川博三郎で今池土地建物の社長
- 三男は古川善次郎でエフワンの社長
- 孫の古川為之は1944年生まれでヘラルドコーポレーションの初代社長
- 孫の古川博三は3代目の日本ヘラルド映画社長
- 古川グループは息子3人の代で映画・ゴルフ・スキーと事業ごとに分かれた
- 1988年に米フォーチュン誌が「世界最高齢の富豪」として紹介した
- 1991年に古川美術館が開館し101歳の本人が初代館長を務めた

