「ここに幸あり」で今も歌い継がれる大津美子さんですが、その実家が愛知県豊橋市の焼き鳥屋だという話をご存じでしょうか。
しかも、15歳のころは毎週土曜の夜行列車でその豊橋から東京へ通っていたというから、驚きますよね。
この記事では、実家の店の場所や今誰が継いでいるのかから、両親の情報、故郷・豊橋との長い縁まで、順番に整理していきます。
・大津美子の実家が豊橋市のどこにある何の店なのか
・実家の店を今誰が営んでいるとされているのか、両親の情報はどこまで公表されているのか
・疎開先の寺で歌を習った幼少期から、ふるさと大使就任まで続く豊橋との縁
大津美子の実家は豊橋市の焼き鳥屋
「ここに幸あり」で知られる大津美子さんの実家は、愛知県豊橋市にある焼き鳥屋だと伝えられています。
ここでは、その店がどこにあってどんな店なのか、そして実家のある豊橋がどう歌手・大津美子を育てたのかまで、順番に見ていきますね。
実家は豊橋市神明町の焼き鳥店
大津美子さんの出身地は、複数の資料で一致しています。
Wikipediaも、本人のオフィシャルサイトも、豊橋市の公式サイトも、そろって愛知県豊橋市出身と記しています。
その豊橋の実家が焼き鳥屋だ、という話が広く伝わっています。
芸能情報を扱うメディアの記事では、屋号まで踏み込んで鳥善(とりぜん)という店名が挙げられています。
美術関係のブロガーが大津さんと直接交流した記録の中にも、豊橋の実家に焼き鳥屋があるという一文が出てきます。
つまり、性格のまったく違う複数の書き手が、同じ豊橋の焼き鳥屋という話を書いているわけです。
ここ、けっこう大事なポイントですよね。
一方で、注意しておきたいこともあります。
店側の公式サイトには大津美子の実家という記載は見当たりません。
あくまで外部の記事や交流記録から伝わっている話、という受け止め方が正確だと思います。
鳥善の場所と営業情報
その鳥善という店が、実際どんな店なのかも見ておきましょう。
公式サイトによると、住所は愛知県豊橋市神明町11。
最寄りは豊橋鉄道の新川駅で、駅から徒歩約5分という立地です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県豊橋市神明町11 |
| アクセス | 新川駅より徒歩約5分 |
| 営業時間 | 月〜土 17:00〜23:30(料理L.O.23:00) |
| 定休日 | 日曜日 |
| 席数 | 全71席(禁煙) |
| 電話 | 0532-52-5738 |
看板は炭火の焼き鳥で、錦爽鶏・名古屋コーチン・三河赤どりといった鶏を使い分けているそうです。
焼き鳥は税抜200円から、名古屋コーチンたまごのだし巻き卵が902円(税込)、晩酌セットが2,310円(税込)。
個室や座敷もあって、最大36名までの宴会に対応できるとのこと。
カウンターもあるので、ひとりでふらっと飲みに寄れる店でもあります。
歌謡曲の大歌手の実家、と聞くと構えてしまいますが、実態は地元の人が普通に晩ごはんを食べに行く、まちの焼き鳥屋さんなんですね。
……なんか、いいですよね。
店を継いだのは弟という情報
では、その店を今誰が回しているのか。
これについては、大津美子さんの弟が経営しているという記述が芸能メディアの記事にあります。
多くの客で賑わっている、とも書かれていました。
ただ、この弟が経営という話が確認できたのは、今回調べた範囲では1つのソースだけです。
本人の公式サイトにも、豊橋市の公式ページにも、きょうだいの話は出てきません。
なので、弟さんが継いだという話は、確定した情報ではなく1つのメディアが伝えている内容という位置づけになります。
とはいえ、時系列で考えると自然な話ではあります。
大津さんは17歳でレコードデビューして、そのまま東京を拠点に活動していますから、豊橋の家業を継ぐ立場にはいなかったはずです。
家業が続いているなら、別のきょうだいが引き受けたと考えるほうが素直ですよね。
このあたりは推測を含みますが、少なくとも本人が店に立っているという話ではない、というのは押さえておいていいと思います。
秘伝のタレは創業当時から継ぎ足し
実家の焼き鳥屋の話で、いちばん語られているのがタレです。
芸能メディアの記事によると、秘伝のタレは創業当時から継ぎ足しで作られているとのこと。
深い味わいが魅力だと紹介されています。
店の公式サイトのほうも、秘伝のタレという言い方で焼き鳥を紹介しています。
創業がいつなのかについては、ちょっと食い違いがあります。
| ソース | 創業についての記述 |
|---|---|
| 芸能メディアの記事 | 1946年創業の老舗 |
| 店の公式サイト | 70年以上の歴史を持つ老舗(創業年の明示なし) |
70年以上、という店側の書き方と、1946年創業という記事の書き方は、大きくは矛盾していません。
ただ、創業年をピンポイントで1946年と言い切れるだけの裏づけは、公式側には見当たらないのが実情です。
もし1946年創業が正しいとすると、これはなかなか味わい深い年です。
大津美子さんが生まれたのは1938年1月。
終戦の翌年に店が始まったとすれば、大津さんは8歳前後で、家に焼き鳥屋ができるところを見ていたことになります。
戦後の混乱期に一から店を立ち上げた家で育った、ということですね。
……そう考えると、後年の粘り強さの原型が見えるような気もします。
両親の職業や資産は公表されていない
実家の話題でよく聞かれるのが、両親についてです。
父親は何をしていた人なのか、母親はどんな人だったのか。
正直に書きますが、大津美子さんのご両親の名前・職業・資産について、公表されている情報は見当たりませんでした。
Wikipediaにも、オフィシャルサイトのプロフィールにも、豊橋市のふるさと大使紹介ページにも、両親の記述はありません。
分かるのは、実家が焼き鳥屋だと伝えられていることから逆算できる範囲だけです。
つまり、飲食店を営む家庭で育った可能性が高い、というところまで。
ここから先を断定するのは無理があります。
デビューが1955年ですから、もう70年以上前の話です。
当時は芸能人の家族が今のように取材される時代でもありませんでしたし、記録が残っていないこと自体は不思議ではありません。
なお、大津さんが15歳で東京の作曲家に弟子入りを志願し、毎週土曜の夜行列車で豊橋から通っていたことは複数の資料で一致しています。
15歳の娘が毎週夜行で上京することを、家族が黙って見ていたとは考えにくいですよね。
このあたり、家族の側の判断があったはずですが、それを語る資料は残っていません。
疎開先の寺で歌を習った幼少期
実家そのものの話から少し広げて、大津美子さんがどう歌に出会ったかを見ていきます。
きっかけは戦争でした。
オフィシャルサイトのプロフィールによると、疎開先だった愛知県新城市のお寺で歌を習い始めたとあります。
豊橋の実家を離れて、山あいの新城へ。
その疎開先の寺が、歌手・大津美子の出発点になったわけです。
終戦後は赤十字のボランティアに参加しています。
孤児院、病院、老人ホームを回って歌を披露していたそうです。
システムブレーンのプロフィールでは、この奉仕活動を中学時代から続けていたと書かれています。
中学生が孤児院で歌う。
……ちょっと想像してみてください。
戦争が終わったばかりの時期に、親を亡くした子どもたちの前で歌っていたということですよね。
これは、なかなか重い出発点だと思います。
そのうちに、のど自慢大会で勝ちまくるようになります。
オフィシャルサイトには東海ののど自慢荒らしと呼ばれていた、という記述があります。
歌のプロを目指す前に、まず誰かのために歌う人だった——この順番が、後の「ここに幸あり」につながっていく気がしてなりません。
15歳で豊橋から夜行列車で上京
実家のある豊橋と、歌手・大津美子をつなぐいちばん強い話がこれです。
15歳のとき、作曲家の渡久地政信さんに弟子入りを志願しました。
いきなり訪ねていったので、最初は門前払いされたとオフィシャルサイトに書かれています。
それでも本人が引き下がらず、押し切る形で受け入れられたそうです。
15歳でこれをやるの、相当ですよね。
そこから始まったのが、豊橋と東京の往復生活です。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1938年1月12日 | 愛知県豊橋市に生まれる |
| 戦時中 | 愛知県新城市へ疎開、寺で歌を習う |
| 終戦後〜中学時代 | 赤十字のボランティアで孤児院・病院などを訪問 |
| 15歳(1953年) | 作曲家・渡久地政信に弟子入り、毎週土曜に夜行で上京 |
| 17歳(1955年7月) | キングレコードから「千鳥のブルース」でデビュー |
| 1955年9月 | 2作目「東京アンナ」が大ヒット |
| 1956年 | 「ここに幸あり」が空前の大ヒット、紅白初出場 |
毎週土曜、豊橋から夜行電車に乗って東京へ。
レッスンを受けて、また帰る。
これを10代の少女が続けていたわけです。
実家のある豊橋は、大津美子にとって出て行った場所ではなく、毎週そこへ帰ってきていた拠点だったんですね。
デビュー後に一気に売れてしまうので見落とされがちですが、下積みのほとんどは豊橋で暮らしながらのものでした。
実家のある豊橋のふるさと大使に就任
そして、実家との関係を示すいちばん公的な事実がこれです。
1999年9月、大津美子さんは豊橋ふるさと大使に就任しました。
豊橋市の公式サイトによると、認定は1999年9月11日。
Wikipediaにも同じく1999年9月の就任と記載があり、複数のソースで一致している事実です。
デビューから44年経ってなお、故郷から名指しでうちの人と呼ばれた形になります。
さらにその後も、豊橋との関わりは続いています。
2006年には、豊橋市制100周年記念の市民音楽劇「豊橋オーレ!」に出演しました。
市民の劇に、全国区の歌手が出る。
これ、なかなかできることじゃないですよね。
70周年コンサートも豊橋で予定されていた
もうひとつ、豊橋との縁を示す出来事があります。
2024年10月2日、穂の国とよはし芸術劇場PLATで、歌手生活70周年記念コンサートが予定されていました。
70周年という節目のステージを、東京ではなく実家のある豊橋で開こうとしていたわけです。
ただ、このコンサートは残念ながら中止になりました。
劇場の発表によると、公演直前に体調不良を訴え、検査の結果、開催が困難だと診断されたためとのことです。
……これは、本人がいちばん悔しかっただろうと思います。
実家のある豊橋は、大津美子さんにとって出身地というだけでなく、節目の舞台に選ぶ場所でもある。
そう考えると、実家の焼き鳥屋の話も、単なる小ネタではなく、この人の芯につながる話に見えてきませんか。
大津美子の実家を調べる人向けの関連情報
実家のことを調べていると、家族の話や現在の様子も気になってきますよね。
ここからは、夫や息子さんのこと、代表曲、そして今の活動まで、関連する情報をまとめて見ていきます。
夫は実業家の中條政人
大津美子さんは1969年、31歳のときに実業家の中條政人さんと結婚しています。
Wikipediaは1969年に実業家と結婚と記し、芸能メディアの記事では相手の名前まで中條政人さんと特定されています。
中條さんの肩書については、記事によって書き方が違います。
| ソース | 中條政人さんの肩書 |
|---|---|
| 芸能メディアの記事 | 当時、六本木のレストランなどを経営 |
| 音楽系ブログ | 六本木のレストラン支配人を経て事務所社長 |
経営者なのか支配人なのか、そこは一致していません。
ただ、結婚後に大津美子さんのマネジメント事務所オフィス大津の代表になったという点は、両方の記述が重なっています。
飲食の世界にいた人が、妻の事務所を率いる立場になった、ということですね。
夫婦仲は非常に良かったと伝えられています。
2013年に肺がんで死去
その中條政人さんは、2013年に肺がんで亡くなっています。
芸能メディアの記事と音楽系ブログの両方に同じ記述があります。
結婚が1969年ですから、44年連れ添ったことになります。
しかも、ただの夫婦ではなく、事務所の代表とその所属歌手という関係でもありました。
仕事も生活も一緒だった相手を失う。
これは、想像するだけでも相当こたえる出来事だったはずです。
一人息子の仁人はIT企業の副社長
大津美子さんには、一人息子の仁人(ひろと)さんがいます。
大津さんと直接交流のあるブロガーの記事には、仁人さんが社員70名のIT企業の副社長だと書かれていました。
芸能の世界ではなく、まったく別の業界へ進んだんですね。
ちなみに、この出産にはひとつ事情があったと伝えられています。
芸能メディアの記事によると、大津さんは心臓に持病があり、出産にはリスクがあったそうです。
それでも息子さんを産んでいます。
この心臓の持病の話は今回1つのソースでしか確認できなかったので、そのまま事実として断定はできません。
ただ、もしそうだったとすれば、歌手として声を張る仕事を続けながら、リスクを引き受けて出産したことになります。
なかなかできる選択じゃないと思います。
くも膜下出血で息子の記憶を失った
大津美子さんの人生でいちばん大きな山場が、これです。
1980年、くも膜下出血で倒れています。
この事実は複数のソースが伝えていて、システムブレーンのプロフィールには奇跡的に回復と記されています。
デビューから25年、42歳のときのことです。
さらに踏み込んだ話も伝わっています。
芸能メディアの記事によると、このとき記憶障害が出て、当時9歳だった息子さんのことを思い出せなくなったそうです。
自分の子どもが分からない。
……これ、本人にとっても息子さんにとっても、どれだけつらかっただろうと思います。
そして記憶は、約1か月後に戻ります。
きっかけは息子さんの言葉だった、と書かれていました。
忘れてしまった相手の声で、記憶が戻ってきたということですよね。
読んでいて、じんわりきました。
なお、この記憶障害の詳細についても、確認できたのは1つのメディアの記事です。
倒れた、回復したという骨格は複数ソースで一致していますが、記憶の話はそこまでの裏づけがない、という点は添えておきます。
学歴は私立桜丘高等学校を卒業
出身校についても触れておきます。
大津美子さんは私立桜丘高等学校(豊橋市)を卒業しています。
これはWikipedia、オフィシャルサイト、豊橋市の公式ページのすべてに記載があり、確度の高い情報です。
ちょっと計算してみると、この学歴はなかなかすごいことになります。
デビューは1955年7月、17歳のとき。
高校在学中に「千鳥のブルース」でレコードデビューして、その2か月後に「東京アンナ」が大ヒットしているわけです。
つまり、全国区のヒット歌手になりながら、高校を最後まで通って卒業しているということですね。
夜行列車で上京していた15歳の頃から数えると、学校と歌を並行させた期間はかなり長いことになります。
ここに幸ありは結婚式の定番曲に
大津美子さんの代表曲といえば、やはり「ここに幸あり」です。
1956年に発表され、空前の大ヒットとなりました。
Wikipediaには、国内では結婚式用ソングとして親しまれ、ハワイやブラジルの日系人にも愛唱された、と書かれています。
日本の中だけで終わらず、海を越えて歌われたわけですね。
代表曲は他にもあります。
| 曲名 | 発表・位置づけ |
|---|---|
| 千鳥のブルース | 1955年7月、キングレコードからのデビュー曲 |
| 東京アンナ | 1955年9月、2作目にして大ヒット |
| ここに幸あり | 1956年、空前の大ヒット。結婚式の定番曲に |
| 銀座の蝶 | 昭和33年(1958年)の作品。ミリオンセラーとの記述あり |
紅白歌合戦には通算7回出場していて、初出場は1956年です。
受賞歴も並べておきます。
| 年 | 受賞・栄誉 |
|---|---|
| 1983年 | 「ここに幸あり」でロングセラー賞 |
| 1997年 | 文化庁長官賞 |
| 1998年 | 第40回日本レコード大賞 功労賞 |
| 1999年 | 豊橋ふるさと大使に就任 |
| 2009年 | 古賀政男音楽博物館の顕彰者としてレリーフ展示 |
| 2018年 | キングレコードより特別功績賞 |
豊橋の焼き鳥屋の娘が、結婚式で全国が歌う曲を残した——そう並べると、あらためて大きな道のりですよね。
現在の年齢と70周年コンサート中止
最後に、今の大津美子さんについて。
生年月日は1938年1月12日ですから、2026年8月時点で88歳になります。
活動は長く続いていました。
2014年にはNHKの「BS日本のうた」に出演していますし、オフィシャルサイトのプロフィールには、ディナーショーや企業の創立イベント、結婚式などで全国を回っていると書かれています。
キングレコードからベスト盤をリリースし、バスツアーも計画されていた時期があったとも伝えられています。
一方で、直近の状況は少し心配な流れです。
先ほど触れたとおり、2024年10月2日に予定されていた歌手生活70周年記念コンサートは、体調不良のため中止となりました。
会場は実家のある豊橋の穂の国とよはし芸術劇場PLAT。
直前に体調不良を訴え、検査の結果、公演の開催が困難と診断されたという発表でした。
その後、新たな公演や活動の発表は今回調べた範囲では確認できていません。
88歳でなお節目のコンサートを組んでいたこと自体が、この人の現役ぶりを物語っていると思います。
またステージの知らせが届くといいですよね。
大津美子の実家のまとめ
- 大津美子の出身地は愛知県豊橋市で、複数の公式資料が一致している
- 実家は豊橋市にある焼き鳥屋だと複数の記事・交流記録が伝えている
- 屋号は鳥善とされるが、店の公式サイトに大津美子の実家という記載はない
- 鳥善の所在地は豊橋市神明町11で、新川駅から徒歩約5分
- 営業は月〜土の17時から23時半、日曜定休で全71席
- 秘伝のタレは創業当時から継ぎ足しと紹介されている
- 創業年は1946年とする記事と、70年以上とだけ記す公式サイトで表記が異なる
- 現在は弟が店を経営しているとされるが、確認できたのは1つのメディアのみ
- 両親の名前・職業・資産についての公表情報は見当たらない
- 戦時中は愛知県新城市へ疎開し、寺で歌を習い始めた
- 中学時代から赤十字のボランティアで孤児院や病院を訪ね歌っていた
- 15歳で作曲家・渡久地政信に弟子入りし、豊橋から毎週夜行で上京していた
- 1955年に17歳でデビューし、翌1956年のここに幸ありが空前のヒットとなった
- 1999年9月に豊橋ふるさと大使へ就任し、2006年には市民音楽劇にも出演した
- 2024年10月に豊橋で予定された歌手生活70周年記念コンサートは体調不良で中止となった

