あべ静江の実家は松阪市中町の阿部小間物店!母が歌手の道を諦めて嫁いだ経緯とは

あべ静江の実家は松阪市中町の阿部小間物店!母が歌手の道を諦めて嫁いだ経緯とは

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あべ静江さんの実家がどこにあって、どんなお店だったのか気になっていませんか。

実は三重県松阪市の商店街にある老舗の小間物店で、ご両親はそろって地元ラジオ局の仕事をしていたという、ちょっと珍しい家庭だったんです。

しかもお母さんは、歌手として大きなチャンスを目の前にしながらこの家に嫁いできました。

この記事を読むとわかること
・あべ静江の実家がある場所と店の正体
・父と母がそれぞれ何をしていた人なのか
・両親の駆け落ちと母方の家系にまつわる話

あべ静江の実家は松阪市中町の阿部小間物店

あべ静江さんの実家がどこで何をしていたお店なのか、ここが一番気になるところですよね。

まずは場所と屋号をはっきりさせたうえで、ご両親の仕事や家族構成、母方の家系まで順番に見ていきます。

実家は松阪市中町の阿部小間物店

あべ静江さんの実家は、三重県松阪市中町の商店街にあった「阿部小間物店」です。

松阪といえば松阪牛で全国的に知られる町ですが、あべ静江さんが生まれ育ったのはその中心部にあたる中町でした。

生まれたのは1951年(昭和26年)11月28日。

出生した場所については、伊勢赤十字病院だったという記述も残っています。

実家があった中町商店街は、現在は「よいほモール」という名前のアーケード商店街になっています。

昔ながらの個人商店が並ぶ通りで、そこに軒を連ねる一軒があべ静江さんの生家だったというわけですね。

なお、資料によっては実家の場所を「伊勢神宮の参道沿いの商店街」と説明しているものもあります。

ただ、複数の資料で一致しているのは「三重県松阪市中町」という所在地のほうなので、ここでは松阪市中町として扱います。

つまりあべ静江さんの実家は、三重県松阪市中町の商店街で小間物店を営む商家だった、ということです。

実家のお店は今も残っているのか

読者の方が一番知りたいのは「そのお店、今もあるの?」という点かもしれません。

ここについては、閉店したのか、あるいは代替わりして続いているのか、はっきり書いている資料が見当たりませんでした。

あべ静江さん本人も、実家の店の現状をわざわざ公にはしていないようです。

一方で、あべ静江さんは「松阪市ブランド大使」と「みえの国観光大使」を務めており、松阪市の公式サイトにも大使として紹介されています。

生まれ育った町との縁は、店という形ではなく本人の活動という形で今も続いているんですね。

……なんか、いいですよね。

大正元年創業の和装小物と化粧品の店

阿部小間物店がどんなお店だったのかも、けっこう具体的に分かっています。

創業は大正元年(1912年)

あべ静江さんが生まれた1951年の時点で、すでに40年近い歴史を持つ老舗だったことになります。

扱っていたのは、羽織紐・帯揚げ・帯締めといった和装小物と、化粧品でした。

「小間物」という言葉自体が今はあまり使われませんが、要するに日用の細々とした装身具や化粧まわりの品を扱う店のことです。

項目 内容
屋号 阿部小間物店
所在地 三重県松阪市中町の商店街(現・よいほモール)
創業 大正元年(1912年)
取扱品 羽織紐・帯揚げ・帯締めなどの和装小物、化粧品
現在 営業状況を明記した資料は確認できず

着物を日常的に着る人が多かった時代の松阪で、帯まわりの小物を買いに来るお客さんの顔が浮かんできそうな品ぞろえです。

代々続く商家に生まれた、というのがあべ静江さんの出発点だったわけですね。

父はラジオ三重の専属ミュージシャン

ここからが、あべ静江さんの実家の面白いところです。

実家は小間物店を営む商家でしたが、父・榮之助さんは家業とは別に、ラジオ三重(現・東海ラジオ)の専属ミュージシャンでした。

つまり昼は商売、そして音楽の仕事も持っていた、という二本立ての父親だったんです。

しかも演奏できた楽器がひとつではありません。

ヴァイオリン、ピアノ、ギター、アコーディオンと、複数の楽器を弾きこなす人だったと伝えられています。

ラジオ番組の専属バンドの一員として演奏していたという証言もあり、いわば地元の放送局を支えるプロの演奏家だったわけですね。

生年は1926年、亡くなったのは2011年とされています。

亡くなった日については2011年9月2日、死因は誤嚥性肺炎だったと書いている資料もありますが、こちらは一つのソースにしか見当たらない情報なので、参考程度に受け止めておくのがよさそうです。

娘を歌手にするつもりはなかった父

意外なのは、これだけ音楽に近い父親でありながら、娘を歌手にしようとはしていなかったという点です。

あべ静江さん自身が「両親は私を歌手にしようとは思わなかったようで、歌を指導されたことはありません」と語っています。

音楽一家なのに、歌の英才教育はまったくなかったんですね。

ただし演奏の技術そのものには厳しい人だったという伝え方もされていて、プロとしての線引きははっきりしていた様子がうかがえます。

「教えないけれど、いい加減なことは許さない」という職人肌の父親像が浮かんできます。

母は東海ラジオの専属歌手・松本ひさ

母親も、これまた放送局の人でした。

母・ひささん(旧姓・松本)は、ラジオ三重(現・東海ラジオ)の専属歌手です。

歌手名は松本ひさ。

戦後まもない時期に、歌で地元の人たちに希望を届けた歌手だったと紹介されています。

あべ静江さんが11歳になるころまで、母親はラジオの専属歌手として自分の番組を持っていたそうです。

ところが娘のあべ静江さんは、母が歌手であることは知っていても、ラジオの仕事をしていることまでは知らなかったと振り返っています。

家では母親の顔しか見せていなかった、ということなのかもしれません。

生年は1930年、亡くなったのは2013年とされています。

こちらも没日を2013年4月16日、死因を肺動脈血栓塞栓症としている資料がありますが、単独ソースの情報です。

のど自慢とレコードデビューの話

母・ひささんの経歴で必ず出てくるのが、NHKののど自慢大会の話です。

ただ、この部分は資料によって書きぶりが割れています。

資料 書かれ方
Wikipedia 第4回NHKのど自慢大会で優勝する予定だったが、あべ静江を身ごもったため出演を断念
まとめ系サイト・インタビュー記事 のど自慢大会で優勝し、全国大会優勝とレコードデビューの話が出ていた

「優勝した」のか「優勝が確実視されるところで辞退した」のかで食い違っているので、ここは断定を避けておきます。

ただ、どの資料も一致しているのはレコードデビューの話が現実に動いていて、あべ静江さんを妊娠したことでその道を手放した、という一点です。

自分の歌手デビューと引き換えに娘を選んだ、ということになりますよね。

……これ、あとから知ったら重いと思います。

なお、母親はのど自慢で得た賞品を引き揚げ者に寄付していたという話も残っています。

歌がうまいだけの人ではなかったわけです。

両親は反対を押し切り駆け落ちした

そして、あべ静江さんの実家の話でいちばん劇的なのがここです。

ご両親は結婚を反対され、駆け落ちして松阪の小間物店に入ったと伝えられています。

歌手として全国区に出るかどうかという場面にいた母親が、周囲の反対を押し切って、父親の実家である松阪の商店に嫁いだ。

そして1951年11月28日、あべ静江さんが生まれます。

反対したのは母方の祖父母だったという書き方もされています。

母方は地元の名士の家系だったので(後述します)、演奏家の息子との結婚に難色を示す事情があったのかもしれません。

ここは資料が理由まで書いていないので、そう考えるとつじつまは合う、という程度に留めておきます。

あべ静江さんの実家は、家業を継ぐ商家であると同時に、母親が歌手の道を捨てて飛び込んだ場所でもあった、ということです。

母方は伊勢新聞を創業した名家の家系

実家を語るうえで外せないのが、母方の家系です。

これがかなりすごい。

母方の松本家は、江戸時代に現在の三重県津市周辺を管轄した大庄屋の家系で、明治以降も地元の名士として名前が残っています。

具体的な顔ぶれを並べると、こうなります。

続柄 名前 主な肩書
6代前 松本安親(1749〜1810) 津藩の郷士・土木技術者
5代前 松本恒久 一志郡矢野村の大庄屋
高祖父 松本宗一(1842〜1889) 伊勢新聞の創業者
曽祖伯父 松本恒之助(1866〜1926) 衆議院議員
曽祖父 松本宗吾(1877〜1945) 衆議院議員

新聞社の創業者に、衆議院議員が2人。

三重県の近代史にそのまま名前が出てくるような一族です。

え、そうだったの!?って感じですよね。

上海で事業に成功した祖父

祖父の代も、なかなか波乱があります。

祖父は伊勢新聞の仕事を手伝っていたのち、戦時中に上海へ渡って事業で成功したとされています。

敗戦後は日本に戻り、引揚者の支援活動にあたったという話も残っています。

さらに、新聞の仕事をしていた時期には軍や警察に目を付けられ、逮捕されたこともあるとあべ静江さん本人が明かしています。

言論に関わる家だったからこその苦労、ということなんでしょうね。

こうして見ると、母方の家系は「地方の名家」という一言では収まらない、時代に押し出されて動き続けた一族だったことが分かります。

12歳年下の弟がいる家族構成

家族構成もまとめておきます。

あべ静江さんは、父・母・本人・12歳年下の弟という4人家族で育ちました。

12歳差というのは、姉弟というより親子に近い年の離れ方ですよね。

あべ静江さんが中学生になるころに弟が生まれた計算になります。

弟の名前は阿部幸久さんで一般の方、姉弟の仲は良好だという記述もありますが、こちらは一つのソースにしか見当たらない情報です。

芸能活動をしているわけではないので、表に出てくる情報が少ないのは当然といえば当然ですね。

続柄 名前 職業・肩書
阿部榮之助 阿部小間物店/ラジオ三重の専属ミュージシャン
阿部(旧姓・松本)ひさ ラジオ三重・東海ラジオの専属歌手
本人 あべ静江 歌手・女優
12歳年下(一般人) 公表情報なし

商家の看板と放送局の仕事、その両方が同居している家庭だった、というのがあべ静江さんの実家の姿です。

実家で育った幼少期と子役時代

こんな家に生まれたら、子どもがどう育つのか。

幼いころのあべ静江さんは、体が弱くておとなしい子だったと伝えられています。

病気がちで、あまり前に出るタイプではなかったそうです。

転機になったのは小学校時代で、書道と絵画のコンクールで入賞したことをきっかけに自信がつき、積極的な性格に変わっていったといいます。

きっかけが歌ではなく、書道と絵だったというのが個人的にちょっと面白いところです。

そして芸能一家の環境も効いてきます。

小学校に上がる前から少女歌手としてステージの営業に参加し、その後は子役として名古屋のテレビ局のドラマに出演するようになりました。

共演相手には乙羽信子さんや三ツ矢歌子さんといった大女優の名前も挙がっています。

親が歌を教えなかった代わりに、放送局そのものが遊び場だったという育ち方だったわけですね。

中学で子役をやめた理由

その子役活動は、中学に上がるところで一度止まります。

進学したのは松阪市立第一中学校。

やめた理由として語られているのは「中学1年生で出演したドラマで、自分でも大人っぽくて子役は無理だと感じた」というものです。

まわりに言われたのではなく、自分で見切りをつけたところがこの人らしいなと思います。

なお中学時代は正義感が強く、番長グループを相手に立ち回るような一面もあったと本人が振り返っています。

おとなしかった子が、ずいぶん変わりましたよね。

実家を出るまでの学歴

中学卒業後の進路も、まっすぐではありません。

社会勉強のために松阪工業高校の定時制商学科へ進み、昼は働きながら通っていました。

ところが生活リズムの変化で体調を崩し、入学から8か月で中退。

翌年4月に高田高校へ入り直しています。

高田高校では弁論部に所属し、気の強さそのままに先生とぶつかることもあったようですが、成績は優秀だったと伝えられています。

その後は東海学園女子短期大学へ進学しました。

時期 学校
中学 松阪市立第一中学校
高校(当初) 松阪工業高校 定時制商学科(8か月で中退)
高校(編入) 高田高校(弁論部)
短大 東海学園女子短期大学(2年時に中退)

実家をめぐる世間の声

あべ静江さんの実家の話は、ファンの間でもよく話題になります。

とくに反応が大きいのは、やはり母方の家系です。

伊勢新聞の創業者や衆議院議員が並ぶ家系図が知られるようになってからは、「あべ静江って由緒ある家の人だったのか」と驚く声が出ています。

もうひとつ話題になりやすいのが、両親そろって放送局の仕事をしていたという点です。

商店街の小間物屋さんという素朴なイメージと、ラジオの専属ミュージシャン・専属歌手という華やかな肩書のギャップが、意外性として受け止められています。

そして母親がレコードデビューの話を手放してあべ静江さんを産んだというエピソードは、「娘があとから歌手になったのが運命的」といった受け止め方をされることが多いようです。

実家の話がここまで語られるのは、あべ静江さんの歌手人生そのものが実家の延長線上にあるように見えるからなんでしょうね。

あべ静江の実家を調べる人向けの関連情報

実家や家族の話が分かったところで、あべ静江さん本人の歩みも押さえておきましょう。

デビューのきっかけから現在の活動まで、実家の話とつながる部分が意外と多いんです。

若い頃はラジオの人気DJだった

歌手としてのデビューより先に、あべ静江さんはラジオの世界で名前を知られていました。

東海学園女子短期大学に在学中、東海ラジオとエフエム愛知でDJを担当し、これが大きな人気になります。

放送局に専属歌手の母と専属ミュージシャンの父がいた家の娘が、自分もマイクの前に座ることになったわけです。

人気が高まった結果、短大2年生の夏に大学を中退しています。

学業を捨てて仕事を取った形ですが、この選択がなければ歌手デビューもなかったことになりますよね。

デビュー曲コーヒーショップでの誕生

歌手デビューのきっかけも、実は実家と地続きでした。

東海ラジオの制作部長が父・榮之助さんの仲間で、その縁から歌手デビューの話が持ち上がったと伝えられています。

意外なことに、本人は最初この話に消極的だったそうです。

それでも話は進み、1973年5月25日、キャニオン・レコードから「コーヒーショップで」でデビューします。

この曲が大ヒットし、続く2枚目のシングル「みずいろの手紙」で日本レコード大賞の新人賞を受賞。

1974年12月31日には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしました。

デビューから1年半ほどで紅白まで到達しているので、当時の勢いはすさまじいものがあります。

母親が手放したレコードデビューを、娘が別の形で実現した格好になったわけですね。

現在は日本歌手協会理事として活動

あべ静江さんは現在も現役です。

2005年からは日本歌手協会の理事を務めています。

約200組の歌手が参加する歌謡祭の運営などに関わる立場で、歌う側だけでなく歌手全体を支える側の仕事も担っているということですね。

加えて、冒頭でも触れたとおり「みえの国観光大使」と「松阪市ブランド大使」も務めています。

実家のあった松阪市の公式サイトにブランド大使として名前が載っているというのは、地元にとっても誇りなんだろうと思います。

TwitterやInstagram、ブログでの発信も続けていて、ドラゴンクエストXなどのゲームを楽しんでいることでも知られています。

70代でオンラインゲーム、というのはなかなか痛快です。

2022年の脳梗塞から復帰した経緯

現在の活動を語るうえで触れておきたいのが、健康面の出来事です。

2022年3月、あべ静江さんは脳梗塞で緊急搬送され入院しました。

ファンにとってはかなり心配なニュースだったはずです。

ただ、早期に発見できたことが幸いし、後遺症も残らなかったと伝えられています。

約2か月のリハビリを経て、同年5月には退院して仕事に復帰しました。

大きな病気を経てなお、歌手協会の理事として、また地元の大使として活動を続けている。

……正直、頭が下がります。

あべ静江の実家のまとめ

  • 実家は三重県松阪市中町の商店街にあった「阿部小間物店」
  • 中町商店街は現在「よいほモール」と呼ばれるアーケード商店街
  • 阿部小間物店は大正元年(1912年)創業の老舗
  • 扱っていたのは羽織紐や帯揚げなどの和装小物と化粧品
  • 実家の店が現在も営業しているかを明記した資料は確認できない
  • 父・榮之助はラジオ三重(現・東海ラジオ)の専属ミュージシャン
  • 父はヴァイオリン・ピアノ・ギター・アコーディオンを演奏できた
  • 母・ひさ(旧姓・松本)はラジオ三重/東海ラジオの専属歌手
  • 母はのど自慢大会をめぐる経歴があり、レコードデビューの話を妊娠で手放したとされる
  • 両親は結婚を反対され、駆け落ちして松阪の小間物店に入ったと伝えられる
  • あべ静江は1951年11月28日生まれで、12歳年下の弟がいる
  • 母方の松本家は江戸時代に津周辺を管轄した大庄屋の家系とされる
  • 母方の高祖父・松本宗一は伊勢新聞の創業者
  • 母方の曽祖父・松本宗吾と曽祖伯父・松本恒之助は衆議院議員
  • あべ静江は現在、日本歌手協会理事・みえの国観光大使・松阪市ブランド大使を務めている

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