「ブルー・シャトウ」の井上忠夫さんって、そもそもどこの生まれなんだろう。
調べてみると、実家は東京のど真ん中にある老舗の飲食店でした。
しかも店を築いたのはお祖父さんで、そのお祖父さんは山形から出てきて職を転々とした末に一代で店を持った人。おまけに、あの東京音頭が生まれるきっかけになった盆踊り大会にも関わっていたというから、驚きですよね。
・井上忠夫の実家が有楽町のどんな店だったのか
・店を一代で築いた祖父・忠次郎はどんな人物だったのか
・家業を継がず音楽の道へ進むまでの流れ
井上忠夫の実家は有楽町の寿司店だった
井上忠夫さんの実家は、東京・有楽町の数寄屋橋にあった料理店です。
店の名前から祖父の経歴、少年時代を過ごした街の様子まで、順番に見ていきましょう。
実家は数寄屋橋の寿司店・富可川本店
まず結論からいきますね。
井上忠夫さんの実家は、有楽町の数寄屋橋にあった寿司・おでん料理の店「富可川本店」です。
そしてご本人は、この店の長男として生まれています。
「寿司屋の息子」と一言でまとめられることが多いのですが、正確にいうと寿司だけの店ではありませんでした。
寿司とおでん料理を出す店、という形です。
数寄屋橋といえば、銀座と有楽町のちょうど境目にあたる場所。
戦後の日本でいちばん人が集まった一帯といっていい立地ですよね。
そんな場所に構えた老舗の料理店が、井上忠夫さんの育った家でした。
寿司だけでなく、おでん料理も看板だった
「富可川本店」という屋号だけを見ると、川魚か何かを出す店を想像する方もいるかもしれません。
ただ実際に記録として残っているのは、寿司とおでん料理を出す店だったという内容です。
寿司とおでんという組み合わせは、いまの感覚だと少し珍しく感じるかもしれません。
けれど当時の東京の繁華街では、季節や時間帯で客層が入れ替わる立地の店として、こうした構成はそれほど特殊ではありませんでした。
昼と夜、夏と冬で客の求めるものが変わる街だからこそ成り立つ形だった、と考えると納得しやすいかなと思います。
有楽町に生まれた寿司屋の長男
井上忠夫さんが生まれたのは1941年(昭和16年)9月13日。
出生地は当時の東京市・有楽町です。
1941年というのは、太平洋戦争が始まった年ですね。
つまり、生まれてすぐに戦時下、そして幼少期がまるごと戦後の混乱期と重なる世代ということになります。
有楽町も数寄屋橋も、空襲と復興をまたいだ街です。
その真ん中で、家業の料理店とともに育ったわけですね。
ここ、少し想像してみてください。
店の音、客の声、仕込みの匂い。
音楽家になる前の井上忠夫さんの日常は、繁華街の飲食店の中にありました。
通ったのは銀座の泰明小学校
小学校は泰明小学校。
銀座にある、いわゆる都心の名門校として知られる学校です。
そしてここで、井上忠夫さんはコーラス部に所属していました。
音楽との接点が生まれたのは、この小学校時代だったんですね。
実家が飲食店で、通うのは銀座の小学校。
この時点ですでに、後年の都会的な音楽性の下地になりそうな環境がそろっている気がしませんか。
祖父・忠次郎が一代で築いた店
実家の話をするうえで、外せないのがお祖父さんの存在です。
祖父の名前は井上忠次郎さん(資料によっては忠治郎とも表記されます)。
出身は山形県米沢市で、そこから上京してきた人でした。
そして上京後の経歴が、なかなかすごいんです。
官吏、俳優、土工。
まったく方向性の違う仕事を転々としています。
役所勤めから舞台の世界へ、そこから肉体労働へ。
いまの言葉でいえば、かなり振れ幅の大きいキャリアですよね。
その末にたどり着いたのが、数寄屋橋での店の開業でした。
富可川本店は、この忠次郎さんが一代で築き上げた店です。
代々続いた老舗を受け継いだのではなく、地方から出てきた人が銀座の隣に自分の店を持った。
……なんというか、それだけで一本の物語になりそうな話だと思いませんか。
俳優をしていた祖父と、音楽家になった孫
ここで少し面白いのが、祖父の経歴に俳優が入っていることです。
孫にあたる井上忠夫さんは、後にステージに立つ側の人間になりました。
もちろん、祖父が俳優だったから孫が音楽家になった、という単純な話ではありません。
ただ、人前で表現する仕事に一度身を置いた人物が家系にいた、という事実そのものは、なかなか興味深いところかなと思います。
東京音頭の盆踊りを企画した旦那衆
祖父・忠次郎さんについては、もうひとつ語られていることがあります。
それが東京音頭の元となった盆踊り大会を企画した旦那衆の一人だった、という話です。
東京音頭といえば、いまでも夏の盆踊りやスポーツの応援で流れる、日本でいちばん有名な音頭のひとつですよね。
その原型となった盆踊り大会に、地元の店主たちが企画側として関わっていた。
忠次郎さんは、その旦那衆に名を連ねていたということです。
旦那衆というのは、街の商店主や有力者が集まって祭りや催しを回していく、当時の繁華街ならではの仕組みです。
つまり忠次郎さんは、単に店を持っていただけでなく、街の行事を動かす側にも入っていた人物だったわけですね。
日本を代表する音頭のルーツに、井上忠夫さんの祖父が関わっていた。
ヒット曲を量産した作曲家の家系をたどると、その祖父が街の音楽的な催しに関わっていた。正直、出来すぎているくらいの巡り合わせだと感じます。
実家を見に行ったファンの回想
実家の店については、ファン側からの回想も残っています。
ゲーム作家のさくまあきらさんが、井上忠夫さんの訃報に触れた日の日記の中でこう書いているんです。
昔、井上忠夫さんの実家が有楽町の寿司屋だと雑誌に書いてあったので、店の前まで行ってみたことがある、と。
ただし当時は中学生で、店に入るお金はなかった、という内容です。
この短い回想から分かることが、実は2つあります。
ひとつは、実家の寿司屋の話が、当時の雑誌に載るくらい知られていたということ。
もうひとつは、その情報を読んだ中学生がわざわざ有楽町まで足を運ぶくらい、井上忠夫さんが当時の若者にとって特別な存在だったということです。
店の前まで行って、入れずに帰る中学生。
……なんか、いいですよね、この話。
実家の店は、ファンにとっても一種の聖地のような場所になっていたわけです。
家業を継がず音楽の道へ進んだ経緯
寿司・おでん料理店の長男。
普通に考えれば、家業を継ぐという選択肢が最初にあってもおかしくない立場です。
ですが井上忠夫さんは、音楽の道へ進みました。
流れを整理すると、こうなります。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 小学校時代 | 泰明小学校でコーラス部に所属 |
| 日本大学附属豊山高校2年 | ブラスバンドでクラリネットを始める |
| 大学進学 | 日本大学芸術学部へ。映画学科演出コースから音楽学科作曲部門へ移る |
| 1963年 | ジャズ喫茶で演奏中にスカウトされブルー・コメッツへ |
小学校の合唱から、高校のブラスバンド、そして大学の作曲専攻へ。
段階を追って、着実に音楽側へ寄っていった進路なんですよね。
高校でクラリネットを始めたのが2年生からというのも、地味に重要なポイントかなと思います。
幼少期から英才教育を受けたタイプではなく、途中から本格的に楽器へ入っていった人だということですから。
日大芸術学部で、映画から作曲へ移った
進学先は日本大学芸術学部。
ここで一度、映画学科の演出コースに入っています。
つまり最初に選んだのは、音楽ではなく映画のほうだったわけです。
その後、音楽学科の作曲部門へ移りました。
大学の中で学科をまたいで移るというのは、それなりの決断だったはずです。
この選択があったからこそ、後の作曲家・井上大輔につながっていくことになります。
スカウトはジャズ喫茶での演奏中だった
大学在学中の1963年、ジャズ喫茶で演奏していたところをジャッキー吉川さんと大橋道二さんにスカウトされます。
これがジャッキー吉川とブルー・コメッツへの加入のきっかけです。
担当はテナーサックスとフルート、そして後にリードボーカルも務めるようになりました。
実家の店を継ぐ人生ではなく、ステージの上に立つ人生。
その分かれ道になったのが、この一夜の演奏だったということになりますね。
井上忠夫の実家を調べる人向けの関連情報
ここからは、実家と合わせて検索されることの多い話題をまとめていきます。
代表曲や改名のこと、そしてご夫婦のことまで、順に見ていきましょう。
ブルー・コメッツ時代の代表曲
ブルー・コメッツは、1960年代のグループサウンズを代表するバンドです。
デビュー曲となった1966年の「青い瞳」が大ヒットし、翌年にはさらに大きな一曲が出ます。
1967年の「ブルー・シャトウ」です。
この曲は約150万枚という数字を記録しました。
そして同じ年の第9回日本レコード大賞を受賞しています。
井上忠夫さんは、このブルー・シャトウの作曲を手がけた本人です。
歌っている人であり、作っている人でもあった。
グループサウンズのバンドでこの両方を担っていたというのは、当時としてもかなり強い個性だったといえます。
脱退後は提供曲でヒットを量産した
1972年、井上忠夫さんはブルー・コメッツを脱退し、作曲家に転身します。
そこから先の提供曲が、また見事なんですよね。
| 提供先 | 代表的な曲 |
|---|---|
| フィンガー5 | 恋のダイヤル6700 |
| フィンガー5 | 学園天国 |
| 機動戦士ガンダム関連 | 哀・戦士/めぐりあい |
| 郷ひろみ | 2億4千万の瞳―エキゾチック・ジャパン |
アイドル歌謡からアニメ、そして国民的なキャンペーンソングまで。
ジャンルの幅が非常に広いことが分かると思います。
シャネルズやシブがき隊にも曲を提供していて、まさに職人的な作曲家として活躍した人でした。
井上大輔に改名したのは1981年
検索していると井上忠夫と井上大輔の2つの名前が出てきて、混乱する方もいるかもしれません。
これは同一人物です。
本名であり旧芸名でもある井上忠夫から、1981年に井上大輔へ改名しました。
時期としては、作曲家に転身してから約10年後ということになりますね。
そのため、ブルー・コメッツ時代の作品は井上忠夫名義、ガンダムや郷ひろみさんへの提供曲など1980年代以降の仕事は井上大輔名義で残っているものが多くなっています。
キングレコードの公式サイトには、いまも井上忠夫名義のアーティストページが存在します。
2つの名前が並走して残っているのは、こうした事情があるからです。
妻・洋子はモデルだった
井上忠夫さんの奥さんは、洋子さんという方です。
井上さんより7歳年下で、1950年生まれ。
結婚前はモデルとして活動していたと伝えられています。
ただし、このモデル活動については裏づけが1つの媒体に限られるため、断定はしにくいところです。
なお、名前の表記については注意が必要かもしれません。
大手メディアや百科事典系の記載では洋子さんですが、一部のブログでは葉子さんと書かれているものもあります。
資料の数としては洋子が優勢ですが、こうした表記のゆれがあることは知っておいてよいかなと思います。
20年以上にわたる闘病と、夫の介護
この夫婦について語られるとき、必ず出てくるのが洋子さんの体調のことです。
20年以上にわたって体調を崩し、入退院を繰り返していたと伝えられています。
そしてその看病を担っていたのが、井上忠夫さんご本人でした。
ヒット曲を次々と生み出していた時期と、この長い闘病の期間は重なっています。
華やかな仕事の裏側で、ひとり介護を続けていたわけですね。
これはきつかったでしょうね……。
夫婦に子供はいたのか
結論からいうと、お二人の間に子供はいなかったと伝えられています。
ただ、この情報の出どころは芸能系のまとめメディア1つに限られていて、公式に発表された内容というわけではありません。
公的な記録や大手メディアの報道の中に、お子さんの存在をうかがわせる記述は見当たりませんでした。
後述するように、井上忠夫さんの死後に洋子さんが自宅で亡くなり、発見までに時間がかかっていることを踏まえると、同居していた家族はいなかったと考えるのが自然かなと思います。
ここは断定を避けて、そういう見方ができる、という程度に受け取っていただければと思います。
網膜剥離の手術と妻の看病
晩年の井上忠夫さんには、大きな出来事が2つ重なりました。
ひとつは、これまで書いてきた奥さんの長い闘病と、その看病です。
そしてもうひとつが、ご自身の目の病気でした。
2000年3月、網膜剥離の手術を受けています。
しかし術後の経過が思わしくなかったと伝えられています。
音楽を生業にしている人にとって、視力の問題がどれほど重くのしかかるか。
楽譜を書き、スタジオで作業を進める仕事です。
看病する側であり続けた人が、自分自身の体にも不安を抱えることになりました。
この2つが同時に来たのが、2000年の春でした。
死因は自殺、58歳での最期
2000年5月30日、井上忠夫さんは自宅で亡くなりました。
58歳でした。
死因は自殺と報じられています。
背景として挙げられているのが、病気がちだった奥さんの看病疲れと、3月に受けた網膜剥離の手術後の経過が思わしくなかったことです。
訃報に接した当時のファンの動揺は大きかったようで、先ほど紹介したさくまあきらさんの日記も、まさにこの日の前後に書かれたものでした。
同じ年、第42回日本レコード大賞では日本作曲家協会特別功労賞が贈られています。
日本の歌謡史に残る曲を数多く残した人の、あまりに早い最期でした。
2000年12月には音楽葬が行われた
その年の12月には、音楽葬が執り行われたと伝えられています。
曲を作り、歌い、多くの歌手に楽曲を託してきた人らしい見送り方だったのだろうと思います。
妻とともに眠る平塚市の土屋霊園
井上忠夫さんが亡くなった翌年、さらに悲しい出来事が起きます。
2001年9月15日、東京都内の自宅で洋子さんの遺体が発見されました。
51歳でした。
発見された時点で、亡くなってから数カ月が経っていたと報じられています。
……ここは、読んでいて本当に胸が痛くなる部分です。
そして2002年5月、お二人は神奈川県平塚市の土屋霊園に納骨されました。
ブルー・コメッツの公式サイトには、2002年5月30日に三回忌を迎えたこと、その少し前の5月25日に土屋霊園へ納骨を行ったことが記されています。
長く看病を続けた夫と、その妻は、いま同じ場所で眠っています。
井上忠夫の実家のまとめ
- 実家は東京・有楽町(数寄屋橋)の寿司・おでん料理店「富可川本店」
- 井上忠夫はその店の長男として生まれた
- 生まれは1941年(昭和16年)9月13日、出生地は当時の東京市・有楽町
- 店を築いたのは祖父・井上忠次郎(忠治郎とも表記される)
- 祖父は山形県米沢市から上京し、官吏・俳優・土工など職を転々とした
- 富可川本店は祖父が一代で築いた店とされる
- 祖父は東京音頭の元になった盆踊り大会を企画した旦那衆の一人だったとされる
- 小学校は銀座の泰明小学校で、コーラス部に所属していた
- 日本大学附属豊山高校2年からブラスバンドでクラリネットを始めた
- 日本大学芸術学部では映画学科演出コースから音楽学科作曲部門へ移った
- 1963年にジャズ喫茶での演奏中にスカウトされブルー・コメッツへ加入した
- 1967年のブルー・シャトウは約150万枚を記録し日本レコード大賞を受賞した
- 1972年に脱退して作曲家へ転身し、1981年に井上大輔へ改名した
- 妻・洋子は7歳年下で、20年以上にわたり入退院を繰り返していたとされる
- 2000年5月30日に58歳で死去し、2002年に妻とともに平塚市の土屋霊園へ納骨された

