市川雷蔵の家系図は2度の養子縁組が軸!亀崎・竹内・太田と3つの姓を生きた理由

市川雷蔵の家系図は2度の養子縁組が軸!亀崎・竹内・太田と3つの姓を生きた理由

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『眠狂四郎』『炎上』『大菩薩峠』。37歳で亡くなるまでに、市川雷蔵さんは150本を超える映画に主演しました。

その市川雷蔵さんの家系図を調べると、驚くほど複雑な線が現れます。

生まれたときの名前、少年期の名前、亡くなるまで使った名前。この人は生涯で3つの姓を持ちました。

歌舞伎の名門に生まれた人ではなかったからです。

この記事を読むとわかること
・市川雷蔵の家系図と、亀崎・竹内・太田という3つの姓の理由
・2人の養父(三代目市川九團次・三代目市川壽海)がどんな役者だったか
・市川宗家との関係と、襲名で「市川新蔵」を継げなかった事情

市川雷蔵の家系図|亀崎家・竹内家・太田家をつないだ2度の養子縁組

結論から言うと、市川雷蔵さんの家系図は血縁だけでは描けません。

生後6か月で1度目の養子縁組、19歳で2度目の養子縁組。

そのたびに姓が変わり、最後に落ち着いたのが「太田」でした。

市川雷蔵の家系図を先に整理|3つの姓と2人の養父

まず全体を表で押さえます。

市川雷蔵さんは、亀崎家に生まれ、竹内家の養子になり、最後に太田家の養子になりました。

時期 本名 きっかけ
1931年8月〜 亀崎章雄 亀崎家(実家) 京都・西木屋町で誕生
1932年ごろ〜 竹内嘉男 竹内家 生後6か月で三代目市川九團次の養子に
1951年〜 太田吉哉 太田家 三代目市川壽海の養子に

ここで重要なのは、2人の養父がどちらも歌舞伎の名門の生まれではなかったことです。

市川九團次も市川壽海も、役者の家に生まれた人ではありません。この点が、後の襲名の際に大きく響いてきます。

出生名は亀崎章雄|1931年、京都・西木屋町に生まれる

出発点から見ていきましょう。

市川雷蔵さんは1931年(昭和6年)8月29日、京都府京都市中京区西木屋町神屋町で生まれました。

このときの名前が亀崎章雄さん。実家は京都の商家だったとされています。

つまり歌舞伎とは何の関係もない家に生まれたということです。

後年、日本映画を代表するスターになる人が、梨園の外から来ていた。ここが家系図を追ううえで最初のポイントになります。

実父母の事情|母が実家に戻って産んだ子だった

生まれたときの状況は、決して穏やかではありませんでした。

映画評論家・田山力哉さんの記述によれば、雷蔵さんの実父は母の妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良へ移ってしまいました。

残された母は父の親族からいじめを受け、実家に戻ります。そこで生まれたのが章雄少年でした。

母は父に助けを求めましたが、無視されたとも記されています。両親の関係はすでに壊れていたわけです。

生後わずか6か月で養子に出されたのも、この事情と切り離しては考えられません。

ただ、実父母の名前や、その後どうなったかについては、はっきりした記録が見当たりませんでした。ここは断定を避けておきます。

生後6か月で三代目市川九團次の養子に|本名は竹内嘉男へ

1度目の養子縁組です。

生後6か月のとき、伯父にあたる歌舞伎役者・三代目市川九團次の養子となり、本名は竹内嘉男に変わりました。

「伯父」という記述が示すとおり、まったくの他人ではありません。血縁のある親族の家に入った形です。

ここで初めて、雷蔵さんは歌舞伎の世界と接点を持ちます。

そして1946年(昭和21年)11月、15歳のときに三代目市川莚蔵を名乗って初舞台を踏みました。歌舞伎役者としてのスタートです。

養父・九團次は京都の針工場の生まれ|梨園では傍流だった

この養父がどういう人だったかが、雷蔵さんの少年期を決めています。

三代目市川九團次(1893〜1955年)は、二代目市川左團次の門弟でした。

生家は京都・九条の針工場で、実父はのちに京都市会議員を務めた竹内嘉作さんだったと記されています。

つまり役者の家系ではなく、一般家庭から歌舞伎に入った人でした。

歌舞伎の世界では、生まれが役者の家かどうかが決定的に効いてきます。九團次さんは脇役専門で、主役級の役が回ってくることはありませんでした。

その養子である雷蔵さんも、当然ながら厳しい立場に置かれます。梨園で冷遇されていたと伝える記事もあります。

後年の映画スターぶりからは想像しにくいですが、少年時代は日の当たらない場所にいたということです。

1951年に三代目市川壽海の養子へ|本名は太田吉哉に

転機はここで訪れます。

1951年(昭和26年)4月、三代目市川壽海との養子縁組が成立しました。

働きかけたのは演出家の武智鉄二さんだったとされています。

同年6月、大阪歌舞伎座で八代目市川雷蔵の襲名披露が行われました。19歳での大抜擢です。

そしてこのとき、本名も竹内嘉男から太田吉哉へ変わります。

興味深いのは、この「太田吉哉」という名前を雷蔵さん自身が決めたと伝えられている点です。姓名判断に凝っていたためだといいます。

養父・壽海は仕立職人の息子|本名・太田照造から受け継いだ姓

2人目の養父も、やはり名門の出ではありませんでした。

三代目市川壽海の本名は太田照造さん。1886年(明治19年)に東京・日本橋蠣殻町の仕立職人の家に生まれています。

雷蔵さんの本名「太田吉哉」の太田は、この養父の姓というわけです。

壽海さんは五代目市川小團次の門に入り、市川高丸、市川小満之助、六代目市川寿美蔵と名を変えながら修業を重ねました。二代目市川左團次の一座で長く学んだ時期もあります。

1949年(昭和24年)に三代目市川寿海を襲名。戦後は関西歌舞伎の座頭として関西の舞台を支えました。

そして1960年に日本芸術院会員と重要無形文化財保持者(人間国宝)、1963年に文化功労者と、栄誉を重ねています。

仕立職人の家から人間国宝へ。養父もまた、生まれではなく実力で上がった人でした。

妻は永田雅一の養女・雅子|3人の子どもと現在

雷蔵さん自身が作った家庭にも触れておきます。

1962年、人気絶頂期に大映社長・永田雅一さんの養女である雅子さんと結婚しました。

雅子さんはもともと遠田恭子さんという名前で、姓名判断を信じる雷蔵さんの勧めで改名したと伝えられています。

2人の間には男の子1人と女の子2人、合わせて3人の子どもが生まれました。

子どもたちは芸能界に進んでいません。息子さんは「カフェ・ドゥ・トネール」という喫茶店を銀座で40年以上営み、その後大塚へ移転したと紹介されています。店名はフランス語で「雷」を意味し、父の名にちなんだものです。

雅子さんは「表には出ないように」という夫の言葉を守り続け、雷蔵さんの死から40年後の2009年に『夫・市川雷蔵へ四十年目の恋文』という回想記を出しました。

なお、娘さん2人については情報がほとんど公開されていません。

家系図から見える襲名の事情と『婦系図』との違い

ここからは、なぜ家系図がここまで話題になるのかを掘り下げます。

鍵になるのが、襲名のときに起きた出来事です。

そして最後に、検索でよく混同される『婦系図』についても整理しておきます。

市川宗家と雷蔵|「市川新蔵」を継げなかった理由

ここが、この家系図でいちばん語られる場面です。

壽海の養子になった雷蔵さんには当初、「市川新蔵」という名跡を継がせる案がありました。

ところが、これに強く反対した人物がいます。

二代目市川猿之助(初代猿翁)です。「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対したと記録されています。

市川新蔵は市川宗家に近い由緒ある名跡でした。名門の血を引かない養子に渡すことへの拒否感が、この一言に表れています。

結果として決着したのが「市川雷蔵」でした。八代目として襲名することになったわけです。

生まれで判断される世界にいた人が、その壁にぶつかった瞬間だったと言えます。

のちに映画界へ移ったのも、この経験と無関係ではなかったのかもしれません。

名跡「市川雷蔵」は八代目|屋号は升田屋、定紋は三升に雷

継いだ名跡そのものについても見ておきましょう。

「市川雷蔵」は江戸時代から続く歌舞伎の名跡で、映画スターの雷蔵さんは八代目にあたります。

項目 内容
屋号 初代〜四代目と六代目は柏屋、五代目は櫻屋、七代目は不詳、八代目は升田屋
定紋 三升の中に雷(みますのなかにいかづち)
替紋 棘牡丹(いばらぼたん)

注目すべきは定紋です。「三升」は市川團十郎家(成田屋)を象徴する紋で、その中に雷を配したものが市川雷蔵の定紋になっています。

歴代を見ると、初代から三代目は市川團十郎門下の役者が多く、名跡そのものは市川宗家の流れに属していました。

ちなみに七代目は大正中期に廃業し、日本舞踊藤間流の師範に転じています。

現在も空席のまま|八代目が最後の市川雷蔵

八代目の後はどうなったのでしょうか。

市川雷蔵の名跡は、1969年に八代目が亡くなって以降、現在も継ぐ人がいません。

養父の名跡である「市川壽海」も同様に空席のままです。

十三代目市川團十郎さん(海老蔵時代)は、ブログでこれらの名跡が空いていることに触れ、志のある若者に歌舞伎の世界へ入ってほしいという趣旨のことを書いていました。

一方で、もう1つの養父の名跡である「市川九團次」は復活しています。2015年1月、市川道行さんが四代目市川九團次を襲名しました。

四代目は1972年生まれで本名は鈴木道行さん。現在は十三代目市川團十郎さんの門弟です。

「市川雷蔵・市川壽海・市川九團次の3つがいずれも空席」と紹介する記事も見かけますが、これは2015年より前の情報です。現在空席なのは市川雷蔵と市川壽海の2つになります。

「市川雷蔵 家系図」で映画『婦系図』が出てくる理由

最後に、検索したときの混乱について整理しておきます。

「市川雷蔵 家系図」で調べると、『婦系図』という作品の情報が大量に出てきます。

これは家系図とはまったく別のものです。

『婦系図』は泉鏡花の小説で、読みは「おんなけいず」。「系図」という字が共通しているために、検索結果が混ざってしまうんですね。

作品 公開年 監督 主演
婦系図 1962年 三隅研次 市川雷蔵・万里昌代
婦系図 湯島の白梅 1955年 衣笠貞之助 鶴田浩二・山本富士子

市川雷蔵さんが主演したのは1962年の大映版で、脚本は依田義賢さん、共演は万里昌代さんです。

1955年の『婦系図 湯島の白梅』は鶴田浩二さんと山本富士子さんの主演で、雷蔵さんは出ていません。

雷蔵さんの家系図を知りたい場合、この作品情報は関係ないということになります。

市川雷蔵の家系図についてのまとめ

  • 市川雷蔵は1931年8月29日に京都市中京区西木屋町神屋町で生まれ、出生名は亀崎章雄
  • 実家は京都の商家で、歌舞伎の家系ではなかった
  • 実父は母の妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良へ移り、母は実家に戻って出産したと伝えられる
  • 生後6か月で伯父にあたる三代目市川九團次の養子となり、本名は竹内嘉男に
  • 三代目市川九團次は二代目市川左團次の門弟で、生家は京都九条の針工場だった
  • 1946年11月、15歳で三代目市川莚蔵を名乗り初舞台を踏んだ
  • 1951年4月に三代目市川壽海と養子縁組し、同年6月に八代目市川雷蔵を襲名
  • このとき本名も太田吉哉に変わり、姓名判断に凝っていた本人が自ら決めたとされる
  • 三代目市川壽海の本名は太田照造で、東京・日本橋蠣殻町の仕立職人の家の生まれ
  • 壽海は1960年に人間国宝、1963年に文化功労者となった
  • 襲名時、二代目市川猿之助(初代猿翁)が「市川新蔵」の名跡を渡すことに猛反対した
  • 結果として市川雷蔵の名跡を継ぐことで決着している
  • 定紋は「三升の中に雷」で、三升は市川團十郎家を象徴する紋
  • 1962年に大映社長・永田雅一の養女・雅子と結婚し、3人の子どもをもうけた
  • 息子は喫茶店「カフェ・ドゥ・トネール」を長く経営し、芸能界には進んでいない
  • 1969年7月17日、転移性肝がんのため37歳で死去した
  • 市川雷蔵と市川壽海の名跡は現在も空席だが、市川九團次は2015年に四代目が襲名して復活している
  • 検索で出てくる『婦系図』は泉鏡花原作の作品名で、家系図とは無関係

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