万城目学の実家は祖父母の耳鼻咽喉科の2階!大阪城が遊び場だった少年時代とは

万城目学の実家は祖父母の耳鼻咽喉科の2階!大阪城が遊び場だった少年時代とは

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『鴨川ホルモー』『プリンセス・トヨトミ』、そして直木賞を受けた『八月の御所グラウンド』。

関西の街を舞台にした物語を書き続けている万城目学さんですが、その万城目さんご自身がどんな家で育ったのかは、あまり知られていませんよね。

実は、少年時代の住まいは「祖父母が経営していた病院の2階」だったんです。……ちょっと物語みたいな話じゃないですか?

この記事を読むとわかること
・万城目学さんの実家がある大阪市旧南区(現・中央区)と、祖父母が営んでいた耳鼻咽喉科のこと
・大阪城を眺めながら育った少年時代の暮らしぶりと、週4回の塾通いという受験生活
・母親が相続した東京の雑居ビルと、そこで過ごした2年間の無職時代のいきさつ

万城目学の実家は大阪市中央区の耳鼻咽喉科

まず一番気になるところからいきましょう。

万城目さんの実家は大阪。しかも、ただの一軒家ではなく、祖父母が経営していた医院の建物そのものでした。

実家は大阪市旧南区の耳鼻咽喉科の2階

万城目さんは2024年11月10日の産経ニュースのインタビューで、子どもの頃の住まいについてはっきり語っています。

「小学校のころ、大阪市の旧南区(現中央区)で祖父母が経営していた耳鼻咽喉科の2階に暮らしていました」という一言です。

つまり、1階が診療所で、2階が住まい。いわゆる「医院併用住宅」というかたちですね。

旧南区というのは、1989年に東区と合併して現在の中央区になったエリアで、ざっくり言えば心斎橋から難波にかけての、いわゆる「ミナミ」にあたります。

大阪でもっとも人の出入りが多い一帯で、その真ん中に住まいがあったわけです。

項目 内容
実家の所在地 大阪市の旧南区(現在の中央区)
建物 祖父母が経営していた耳鼻咽喉科。その2階が住まい
暮らしていた時期 小学校のころ(1980年代後半〜平成のはじめ)
近所の様子 神社があり、犬の散歩コースだった

本人が語っているのは町名までで、番地や現在その建物が残っているかどうかまでは公表されていません。

ただ、「大阪市中央区にある祖父母の耳鼻咽喉科の2階」というのが、万城目学さんの実家の実像です。

近所には〝反社〟の人も多かった

同じインタビューで、万城目さんはもう少し踏み込んだ話もしています。

界隈には今でいう〝反社〟の人たちも多く、同級生の親族が抗争事件に関わっていたことをテレビのニュースで知ったこともある、というのです。

昭和の終わりのミナミですから、繁華街と隣り合わせの下町という空気だったのでしょうね。

近くの神社によく犬の散歩に行っていた、という穏やかな話と、この物騒な話が同じ町の記憶として並んでいるところが、なんとも大阪らしいなと思います。

祖父母が営んだ医院と祖父の形見の額帯鏡

実家が耳鼻咽喉科だったということは、祖父が医師だったということでもあります。

これは別のところでも裏づけが取れていて、万城目さんは日本経済新聞の連載エッセーで、医者だった祖父の形見である「額帯鏡(がくたいきょう)」について書いています。

額帯鏡というのは、昔のお医者さんのイラストに必ずと言っていいほど描かれていた、あの額につける丸い鏡のことです。

耳や鼻の奥をのぞくために光を集める道具で、まさに耳鼻咽喉科の象徴のような品ですよね。

産経のインタビューで語られた「祖父母が経営していた耳鼻咽喉科」と、日経のエッセーに出てくる「医者だった祖父」。

ふたつの媒体で別々に語られた話がぴたりと重なるので、祖父が耳鼻咽喉科の医師で、その医院が万城目さんの実家だった、という点はほぼ確実だといえます。

作家になった孫の手元に、祖父の使っていた鏡が残っている。……個人的に、すごくいい話だなと思うんですよね。

遊び場は大阪城、下町で育った少年時代

万城目さんを紹介するときによく使われるのが、「大阪城を眺めながら育った歴史好きの青年」という言い回しです。

これは文藝春秋のインタビュー記事でも使われている表現で、実家のあった旧南区・中央区エリアと大阪城公園はどちらも同じ中央区内。

子どもの足で行ける距離に、あの天守閣がそびえていたわけです。

大阪城が日常の風景だった子どもが、のちに豊臣家の末裔たちを描く『プリンセス・トヨトミ』を書くことになる。

本人が「あの景色があったから書いた」と明言しているわけではないので、そこは断定できません。

ただ、歴史ものを好んで書く作家の原風景として、この立地はかなり効いているんじゃないかなと思います。

週4回の塾通いと1日15分のファミコン

ミナミの医院の2階で、万城目少年はどんな毎日を送っていたのでしょうか。

これも本人の言葉が残っています。

中学受験がブームになった、たぶん最初の世代で、小学校のときから週4回のペースで塾に通っていたそうです。

「いい大学に行くために、小学校のときから塾に行って勉強するっていうサイクルに完全に組み込まれた生活をしていました」と振り返っています。

クリスマスプレゼントでファミコンをもらったものの、遊んでいいのは1日15分。

そのおかげで「15分でゲームをクリアするだけの力も身につけました」と笑っているのが、いかにも万城目さんらしいですよね。

実家は、勉強に対してかなり厳しい方針の家庭だったようです。

実際、万城目さんはこのあと大阪の私立進学校である清風南海中学校・高等学校へ進み、一浪を経て京都大学法学部に入学しています。

阪神淡路大震災を実家で迎えた朝

実家にまつわる話で、もっとも重い記憶がこれだと思います。

自伝的エッセー『べらぼうくん』には、1995年1月17日の阪神・淡路大震災を大阪の実家で体験したときのことが書かれています。

今も昔も眠りは浅いほうで、揺れが来る前に、遠くから地響きのようなものが近づいてくるのを頭のどこかで聞いていた——そんな描写です。

関西は地震がない土地だ、という当時の共通認識が完全にひっくり返った朝でした。

万城目さんは一浪して京都大学に進んでいますから、時期から考えると、震災はちょうど受験期と重なっていたことになります。

また『べらぼうくん』では、震災直後の神戸の様子を自分の目で確かめに行かなかったことを今でも後悔している、とも書いています。

大阪の実家で無事だったからこそ残った悔い、ということなのでしょうね。……これは、読んでいて少し胸に残りました。

母が相続した東京の雑居ビルと無職の2年間

ここからは、大人になってからの「実家」の話です。

万城目さんは京都大学法学部を卒業後、大手の化学繊維メーカーに就職し、静岡の工場に配属されました。

そこを2年ほどで辞めて作家を目指すのですが、その無職期間を支えたのが、実は母親の持ち物件でした。

本人が幻冬舎ルネッサンスのインタビューで、こう語っています。

「祖父が東京にボロボロの雑居ビルを持っていて、母が相続して大家になっていたんです。一番上の階が空いていたので、そこにターゲットを定めまして」

築30年ほどの雑居ビルで、管理人を兼ねて住み込めば家賃はいらない。

おかげで月10万円ほどの生活費で、2年間の無職生活を送ることができたそうです。

祖父の医院で育ち、祖父のビルで作家を目指す。実家というより「祖父の遺したものに二度助けられた」という感じですよね。

「本社に栄転しました」と親に伝えていた

ただ、この引っ越しにはちょっとした前段があります。

万城目さんは両親に対して、「エリートだけが行ける本社の経理課に栄転しまして。通勤が楽なんで、あの部屋使っていいかな?」と説明していたというのです。

もちろん本当は会社を辞めるつもりでした。

住民票まで移して引っ越しを済ませたあとに実家へ戻り、「辞めちゃった」と打ち明けたそうで、本人も「ひどい話ですよ」と認めています。

それでも大きな反発がなかったのは、2年という期限を切り、迷惑はかけないという条件をつけたからだといいます。

息子の無茶を、期限つきで黙って見守った——それが万城目家の距離感だったようです。

直木賞のお祝いも大阪の実家で

作家として成功したあとも、大阪の実家との関係は続いています。

2024年1月、『八月の御所グラウンド』で第170回直木賞を受賞した万城目さんは、その直後の2月10日にX(旧Twitter)へ「大阪の実家でお祝いしてもらいました」と投稿しています。

デビューから約18年、6度目の直木賞候補でようやくつかんだ受賞でした。

その報告を最初に喜んだのが実家だった、というのはなんだかじんわりきますよね。

ちなみに日本経済新聞の別の記事では、古着で手に入れたお気に入りのTシャツを、大阪の実家に帰ったときはパジャマ代わりに着ている、という話も紹介されています。

また、エッセー『べらぼうくん』を読んだ実家のお母さんが「ほんまにええ奥さんに出会えたね」と感想を寄せたというエピソードも残っています。

いまも普通に帰って、普通に着替えて、普通に感想を言い合う。……そういう実家なんだな、と伝わってきます。

万城目学の実家を調べる人向けの関連情報

ここからは、実家と一緒によく調べられている学歴や家族についてまとめます。

実家の話とつながる部分も多いので、あわせて見ていきましょう。

出身中学は清風南海、小学校は非公表

万城目さんの中学・高校は、大阪府高石市にある清風南海中学校・高等学校です。

関西でも指折りの私立進学校で、小学生のころから週4回塾に通っていたという話とぴったり重なります。

一方で、出身小学校については事情が違います。

本人は「小学校とはまた別の中高一貫の私立の進学校に行きました」と語っており、小学校名そのものは公表していません。

ネット上には特定の学校名を挙げている記事もありますが、公式なプロフィールや大手メディアでの裏づけは見当たりませんでした。

出身小学校は非公表、というのが現時点で確認できる範囲です。

学校 内容
小学校 公表されていない(実家のあった大阪市内と推測される)
中学・高校 清風南海中学校・高等学校
大学 京都大学法学部(一浪して入学)

家族構成と結婚した妻のこと

実家の家族としてはっきり名前が出てくるのは、祖父・祖母・父・母です。

祖父は前述のとおり耳鼻咽喉科の医師で、東京に雑居ビルも所有していました。

母親はそのビルを相続して大家になり、息子の無職時代の住まいを結果的に用意することになります。

父親については、職業を含めて公表されている情報が見当たりません。

万城目さん自身は2007年に結婚しています。

2作目の『鹿男あをによし』を出した日に入籍したという話が伝わっていますが、妻の氏名や顔写真、職業などは一切公表されていません。

エッセー『べらぼうくん』には、妻が見つけてきた都内の一戸建てを購入した、という記述があります。

その部分を読んだ実家のお母さんが「ほんまにええ奥さんに出会えたね」と伝えてきた、というわけですね。

子供について公表されていること

お子さんについても、公表されている情報はほとんどありません。

ネット上では「子供の大学は?」といった検索がされていますが、名前・年齢・進学先といった具体的な情報は確認できませんでした。

作品のあとがきやエッセーで家族の話題に触れることはあっても、家族の個人情報そのものは表に出さない——というのが万城目さんのスタンスのようです。

実家のことは町名まで語るのに、いま一緒に暮らしている家族のことは語らない。

この線の引き方は、書き手としてかなり意識的なものだと思います。

京大法学部の同期だった宇治原史規

「万城目学」と一緒によく検索されているのが、お笑いコンビ・ロザンの宇治原史規さんです。

宇治原さんは1995年に京都大学法学部へ現役で入学しており、一浪して同じ年に同じ学部へ入った万城目さんとは同学年・同学部にあたります。

とはいえ、在学中から親しい友人同士だったという話ではなく、万城目さん側が一方的に存在を知っていた、という程度の関係だと語られています。

京大法学部という同じ場所から、作家とクイズ番組の常連が同時に出ている。……こうして並べると、なかなかすごい学年ですよね。

作曲家・万城目正とのつながりは?

もうひとつ、検索でよく並ぶのが作曲家の万城目正(まきのめ ただし)さんです。

『りんごの唄』『悲しき口笛』などで知られる昭和を代表する作曲家ですが、読み方は「まきのめ」で、万城目学さんの「まきめ」とは異なります。

出身も北海道で、大阪の耳鼻咽喉科で育った万城目学さんとは経歴上の接点が見当たりません。

同姓の別人であり、血縁関係を示す情報は確認できませんでした。

珍しい名字なのでつい結びつけたくなりますが、ここは分けて考えるのが正しそうです。

万城目学の実家のまとめ

  • 実家は大阪市の旧南区(現・中央区)にあった
  • 祖父母が経営していた耳鼻咽喉科の2階が住まいだった
  • 祖父は医師で、形見の額帯鏡が万城目さんの手元に残っている
  • 近所には神社があり、犬の散歩コースになっていた
  • 界隈には今でいう〝反社〟の人も多い環境だったと本人が語っている
  • 大阪城を眺めながら育った歴史好きの少年だった
  • 中学受験ブームの最初の世代で、小学生のころから週4回塾に通っていた
  • ファミコンは1日15分という約束だった
  • 中学・高校は清風南海、大学は一浪して京都大学法学部
  • 阪神・淡路大震災は大阪の実家で体験している
  • 祖父が東京に所有していた雑居ビルを母が相続し、大家になっていた
  • そのビルの最上階に住み込み、月10万円ほどで2年間の無職生活を送った
  • 退職の事実は、住民票を移したあとに実家で打ち明けたとされる
  • 2024年の直木賞受賞後、大阪の実家で祝ってもらったと本人が投稿している
  • 妻や子供の氏名などは公表されておらず、家族の情報は表に出していない

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