黒柳徹子さんのお母さまとして知られる黒柳朝さんですが、実は「チョッちゃん」という愛称で親しまれた随筆家でもあったんです。
北海道の名門家系に生まれ、声楽を学び、第九の演奏会で運命の出会いをし、戦時中の大空襲・疎開・行商という苦難を乗り越えた波瀾万丈の生涯。
そして71歳でエッセイデビューしてベストセラーを連発し、95歳まで筆を執り続けたその姿は、「何歳からでも遅くない」ということを教えてくれます。
・黒柳朝(チョッちゃん)の生い立ちと家系のエピソード
・戦時中の疎開・行商でたくましく家族を支えた逸話
・71歳で随筆家デビューし95歳まで書き続けた晩年の活躍
黒柳朝の生い立ちと人生:随筆家チョッちゃんの歩み
黒柳朝さんといえば、「チョッちゃん」という愛称でおなじみの随筆家ですよね。でも実は、デビューしたのが71歳という遅咲きのスタートだったってご存知でしたか?
娘の黒柳徹子さんが大スターになった後に自分の物語を綴り、ベストセラーを連発した波瀾万丈の人生。北海道の開業医の家に生まれ、声楽を学び、戦争を生き抜いた朝さんの足跡を追ってみましょう。
北海道滝川生まれ!松山藩家臣の家系に生まれた朝の幼少期
黒柳朝さんは、1910年(明治43年)9月6日に北海道空知郡滝川村(現在の滝川市)で生まれました。
お父さんの門山周通さんは産婦人科医で、北海道で開業していた人物です。
実は、この門山家というのがなかなかの名門家系でして、代々松山藩(現在の山形県酒田市付近)の家臣を務めた家柄なんです。知ったときびっくりしませんでしたか?お医者さん一家であり、さらにその家系を遡ると武家まで続くなんて、なかなか”すごい家系”の生まれですよね。
祖父・門山周智の経歴
朝さんのお祖父さんにあたる門山周智さんも医師として活躍した人物で、東京で医学を修業した後、故郷の山形県松山町で開業医として地域に貢献しました。
さらに町会議員も務めていたというから、地域の有力者としても知られた存在だったようです。
お父さんの門山周通さんは、山形の鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)を経て仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)を卒業し、北海道へ渡って産婦人科を開業します。
ちなみに、この仙台医学専門学校の在学中に魯迅と在学期間が重なっていたとも言われています。医師家系であり、知識人の家系でもあったんですね。
画家・村山槐多との親戚関係
もう一つ驚くのが、大正時代に活躍した夭折の天才画家・村山槐多がはとこにあたるということです。
祖父・門山周智の兄の孫が村山槐多さんとのことで、朝さんの家系には芸術の血も流れていたわけです。随筆家として大成した朝さんの才能は、こうした家系的な背景があってこそ、とも言えるかもしれませんね。
17歳で上京して東洋音楽学校へ入学した声楽の才女
幼いころからキリスト教文化に親しんで育った朝さんは、音楽の才能にも恵まれていたようで、音楽教師の勧めを受けて1927年(17歳のとき)に上京します。
入学したのは東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の声楽科です。
北海道の滝川から単身で上京し、声楽の道を目指すというのは、当時の女性としてはかなり大胆な選択ですよね。でも、そのまっすぐな行動力こそが朝さんの真骨頂で、後の随筆家としての明るいキャラクターの原点とも言えるんじゃないかと思います。
この東洋音楽学校は、娘・黒柳徹子さんも後に進学した学校でもあり、音楽一家・黒柳家の歴史と深く結びついている場所です。声楽科での学びを通じて、朝さんは「音楽が人生の中心にある暮らし」へと飛び込んでいったわけです。
第九の演奏会で出会った夫・黒柳守綱との結婚エピソード
東洋音楽学校の在学中に、朝さんの人生を大きく変える出会いが訪れます。それが、のちの夫・黒柳守綱さんとの出会いです。
ベートーヴェンの『第九交響曲』の演奏会がきっかけでした。朝さんが合唱で出演し、守綱さんはその演奏会の新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の首席ヴァイオリン奏者として出演していたのです。
守綱さんは当時、日本を代表するヴァイオリニストのひとりでした。そんな実力者が、演奏会で出会った音楽学校の学生・朝さんに惹かれたわけですね。なんか、映画みたいな話ですよね。
「家に帰れないだろ?」という大胆な馴れ初め
その出会いの後のエピソードがまたすごくて、守綱さんが自分の住居の1階にある喫茶店に朝さんを連れ込んで夜遅くまで話し込み、「家に帰れないだろ?」と自分の家へ連れていったというのが結婚のきっかけとも言われています。(※これは一部の資料に基づく伝聞であり、正確な経緯については資料によって差異があります)
当時の時代背景を考えると相当大胆な話ですが、それが黒柳家のはじまりだったというわけです。
結婚後は東京の「乃木坂クラブ」というアパートで新婚生活をスタートさせた2人。その後、長女・黒柳徹子さん、長男・明兒さん、次男・黒柳紀明さん、次女・黒柳眞理さんが生まれ、賑やかな家族が出来上がります。
音楽が取り持ったご縁から始まった黒柳家は、まさに芸術と家族愛に満ちた一家でした。
戦時中の苦難:長男を失い夫の出征と大空襲で疎開へ
穏やかな新婚生活を送っていた朝さんでしたが、戦争がその暮らしを一変させます。
1944年に夫・守綱さんが中国戦線へ召集されました。子育て真っ只中での夫の出征は、家族にとって大きな試練でした。
そして、同じ1944年5月には、長男・明兒さんが敗血症のためわずか幼い年齢で亡くなるという悲劇が重なります。夫が戦地にいる中、長男を失うという経験は、どれほど辛かったことか……想像するだけで胸が痛くなります。
さらに1945年3月10日、東京大空襲が直撃します。この空襲をきっかけに、朝さんは子供たちを連れて青森県三戸郡の諏訪ノ平へと疎開することを決意します。
戦争の波はすさまじいもので、夫は戦地に、長男は他界し、自分は子供たちを抱えて疎開先を探す。そんな状況の中でも前を向き続けた朝さんの強さには、読んでいて本当に頭が下がります。
行商で一家を支えた強さ:青森でのたくましい戦後生活
諏訪ノ平への疎開後、朝さんが生計を立てるために選んだのは「行商」という道でした。
八戸への果物や野菜の行商を始め、終戦後は諏訪ノ平から東京へと行き来しながら、子供たちを養っていきます。音楽学校出身のお嬢さん育ちが、荷物を抱えて売り歩くわけですから、相当な覚悟と体力が必要だったはずですよね。
でも、ここで朝さんの信仰が支えになっていたようです。
行商が繁盛してお金が貯まっても、その一部を教会に献金したり、当時苦しい生活をしている人たちのために無償でおにぎりを作って配ったりしていたといいます。そりゃ傷つくことも多かったはずの時代に、それでも人のために動ける人って、なかなかいないですよね。そういう朝さんの人柄が、後の随筆にも滲み出ているんだと思います。
行商という厳しい仕事を通じて一家を支えながら、信仰と愛情を持ち続けた朝さんの姿は、まさに「強くてやさしいお母さん」の象徴です。
夫・守綱さんは、終戦後はシベリアに抑留され、帰還できたのは1949年末のことでした。5年以上の長きにわたって、朝さんは一人でこの家族を守り続けたことになります。帰還後、守綱さんは東京交響楽団のコンサートマスターに就任し、ようやく黒柳家は平和な日常を取り戻します。
71歳で随筆家デビューした「チョッちゃん」の遅咲きの花
戦後を生き抜き、子供たちを育て上げた朝さんは、70代になってから全く新しいキャリアをスタートさせます。
きっかけは、娘・黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」(1981年)が空前のベストセラーになったことでした。
雑誌「主婦と生活」の編集部から声がかかり、朝さんは1982年4月号から10月号にかけて自伝エッセイ「チョッちゃんが行くわよ」を連載します。このとき朝さんは71歳でした。
連載は読者に大好評となり、同年12月に書籍として刊行されるとベストセラーに。「71歳の初エッセイがベストセラー」というのは、なかなかに痛快な話ですよね。
さらに1987年には、この「チョッちゃんが行くわよ」を原作としてNHK連続テレビ小説「チョッちゃん」が制作・放送され、黒柳朝さんの名前は全国に広まりました。
71歳という年齢から随筆家としてデビューし、95歳で亡くなるまでに100冊近い著書を刊行した朝さんは、「何歳から始めても遅くはない」ということを体現した人生の先輩です。
黒柳朝の生い立ちを調べる人向けの関連情報
黒柳朝さんについて気になって調べてみると、「チョッちゃん」という愛称のことや、著書・朝ドラのこと、晩年のアメリカ移住のことなど、いろんな疑問が出てきますよね。ここでは関連情報をまとめてご紹介します。
愛称「チョッちゃん」の由来と人柄に迫る
「チョッちゃん」というのは、黒柳朝さんの愛称です。
名前の「朝(ちょう)」から「チョッちゃん」と呼ばれるようになったもので、明るく元気で行動力旺盛な朝さんのキャラクターにぴったりの愛称ですよね。
キリスト教信仰と献身的な人柄
朝さんの生き方を語るうえで欠かせないのが、キリスト教への信仰です。幼いころからキリスト教文化に親しんで育ち、成人後は日本基督教団鎌倉雪の下教会の教会員となりました。
この信仰は単なる精神的支柱にとどまらず、行動として表れていました。疎開中の行商で稼いだお金の一部を献金に回したり、苦しい時代の人たちに無償でおにぎりを配ったりと、その献身ぶりは周囲からも慕われたといいます。
また、西洋の古美術品の収集も幼いころからの趣味で、これも幼少期からのキリスト教文化への親しみが影響していたと考えられます。趣味と信仰が一生を通じてつながっていたわけですね。
NHK朝ドラ「チョッちゃん」はどんな内容だったのか
1987年4月6日から10月3日にかけてNHKで放送された連続テレビ小説「チョッちゃん」は、朝さんの自伝エッセイ「チョッちゃんが行くわよ」を原作としたドラマです。
全156回で、黒柳朝さんの半生を描いた内容。北海道・滝川から上京し、声楽を学び、音楽家・黒柳守綱と結婚し、戦争・疎開・行商という波瀾万丈の人生が描かれました。NHK連続テレビ小説の第38作にあたります。
なお、番組には実際の黒柳徹子さんも出演し、母の物語をリアルに伝えました。視聴者の間でも話題となり、放送当時大きな反響を呼んだ作品です。
主な著書一覧と随筆家としての活躍
71歳でデビューした朝さんは、その後精力的に著書を刊行し続けました。主な著書を紹介します。
| 刊行年 | タイトル |
|---|---|
| 1982年 | チョッちゃんが行くわよ |
| 1985年 | チョッちゃんだってやるわ |
| 1987年 | チョッちゃんのここまで来た道 |
| 1987年 | チョッちゃんの心はいつもコロンブス |
| 1989年 | チョッちゃんの私は心の花咲かバァバ |
| 1990年 | トットちゃんと私 |
| 1991年 | 花があったからいつも倖せだった |
| 1992年 | 魔女っ子チョッちゃん―旅のまにまに |
| 1993年 | チョッちゃん物語 |
| 2006年 | チョッちゃんは、もうじき100歳 |
まさに「チョッちゃん」づくしのラインナップですよね。タイトルを見るだけで、朝さんのポジティブで快活な人柄が伝わってきます。
最晩年の著書「チョッちゃんは、もうじき100歳」は2006年に刊行されましたが、同年8月16日に95歳で亡くなっています。最後まで筆を執り続けた生涯でした。
夫・守綱の帰還後から晩年のアメリカ移住まで
1949年末にシベリア抑留から帰還した夫・守綱さんは、その後、東京交響楽団のコンサートマスターとして音楽の第一線に復帰します。
ヴァイオリニストとして長年活躍した守綱さんでしたが、1983年3月に死去。朝さんが73歳のときのことでした。
夫の死後、朝さんは人生の新たな章を開きます。なんと一時期カリフォルニアに移住し、在留邦人向けの講演旅行を精力的に行ったのです。
……すごくないですか?73歳を過ぎてから「よしアメリカに行こう」という選択をできる人って、なかなかいないですよね。しかも講演活動まで行うとは。朝さんの行動力とバイタリティは、晩年になっても衰えることがなかったということですね。
北米での活動と並行して、日本基督教団鎌倉雪の下教会でのボランティア活動にも参加し、信仰に根ざした生き方を最後まで貫きました。
故郷の滝川市に600点のアンティークを寄贈した理由
幼いころからキリスト教文化に親しんでいた朝さんは、西洋の古美術品の収集を長年の趣味としていました。
その数、約600点。長い年月をかけて集めたコレクションを、朝さんは故郷の北海道・滝川市に「チョッちゃん・アンティーク・コレクション」として寄贈しています。
滝川市で生まれ、上京して人生を歩んだ朝さんが、最終的に故郷への恩返しという形でそのコレクションを残したわけです。
生まれ故郷を大切に思う気持ちが伝わってくるエピソードですよね。「チョッちゃん・アンティーク・コレクション」は現在も滝川市で保管・展示されており、黒柳朝さんの記念として後世に伝えられています。
2006年に95歳で死去した黒柳朝の最期
黒柳朝さんは2006年8月16日、心不全のため東京都内の病院にて亡くなりました。享年95歳でした。
71歳から随筆家としてデビューし、95歳まで——つまり24年間にわたって書き続けたことになります。その間に刊行した著書は100冊近く。これは本当に驚異的なことですよね。
「チョッちゃんは、もうじき100歳」という最晩年の著書のタイトルからも、ユーモアを忘れない朝さんの人柄が伝わってきます。最後まで「チョッちゃん」らしく生き切った人生だったと言えるでしょう。
71歳でデビューし、95歳でその生涯を閉じた黒柳朝さんは、「何歳からでも新しいことを始められる」という生き方のお手本を私たちに見せてくれた存在です。
黒柳徹子さんは母について「夫の帰りを待ちながら、女手一つで3人の子どもを育てた母の逞しさに、あらためて気づかされた」と語っています。戦争という過酷な時代を乗り越え、愛する家族のために行商をし、信仰を支えに生きた朝さんの物語は、読む人の心に深く残ります。
黒柳朝の生い立ちのまとめ
- 1910年9月6日、北海道空知郡滝川村(現・滝川市)生まれ
- 父・門山周通は産婦人科医、松山藩家臣の名門家系の出身
- 祖父・門山周智は医師であり山形で開業、町会議員も務めた
- 画家・村山槐多がはとこにあたる芸術的な家系
- 17歳で上京し、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科に入学
- 第九の演奏会で新交響楽団の首席ヴァイオリン奏者・黒柳守綱と出会い結婚
- 長女・黒柳徹子、長男・明兒、次男・黒柳紀明、次女・黒柳眞理の4人の子を持つ
- 長男・明兒は1944年に敗血症で幼くして死去
- 1944年に夫が召集、翌1945年の東京大空襲後に青森県・諏訪ノ平へ疎開
- 疎開先で行商をして子どもたちを養う逞しい生活を送る
- 夫・守綱はシベリア抑留から1949年末に帰還し、家族が再会を果たす
- 幼少期からキリスト教文化に親しみ、日本基督教団鎌倉雪の下教会の信者となる
- 行商中も献金や無償のおにぎり配りをするほど信仰に根ざした献身的な生き方をした
- 1983年に夫・守綱が死去
- 夫の死後、カリフォルニアに一時移住し在留邦人向けの講演活動を行う
- 71歳の1982年に自伝エッセイ「チョッちゃんが行くわよ」を連載しデビュー、ベストセラーに
- 1987年にNHK連続テレビ小説「チョッちゃん」としてドラマ化(全156回)
- 95歳で亡くなるまでに100冊近い著書を刊行した遅咲きの随筆家
- 故郷・滝川市に約600点のアンティーク・コレクションを寄贈した
- 2006年8月16日、心不全のため東京都内にて死去、享年95歳

