高倉健の家系図|父は元海軍軍人・母は教員、五代前の先祖が残した旅日記

高倉健の家系図|父は元海軍軍人・母は教員、五代前の先祖が残した旅日記

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『幸福の黄色いハンカチ』『鉄道員(ぽっぽや)』──寡黙な男を演じ続け、私生活をほとんど語らなかった高倉健さん。

だからこそ「あの人はどんな家に生まれたのか」を知りたくなりますよね。

調べてみると、小田家の家系図は父母ときょうだいで終わりませんでした。五代さかのぼったところに、江戸時代に旅日記を残した女性がいるんです。

この記事を読むとわかること
・高倉健の家系図を、本名・父・母・きょうだいまで一枚で整理した全体像
・五代前の先祖・小田宅子が52歳で歩いた5か月の旅と、それを小説にした作家
・妻の江利チエミと養女の小田貴月、家系図が二つに割れた没後10年の経緯

高倉健の家系図|本名は小田剛一、福岡・中間市の小田家に生まれた

まず結論からお伝えします。

高倉健さんは1931年2月16日、福岡県中間市の小田家に、4人きょうだいの次男として生まれました。

父は元海軍軍人、母は教員という家庭です。順に見ていきましょう。

高倉健の家系図を一枚で整理すると

血縁関係を並べると、次のようになります。

続柄 名前 肩書き・備考
本人(次男) 高倉健(本名・小田剛一) 俳優。1931年〜2014年
小田敏郎 元海軍軍人。のちに炭鉱の労務管理者
小田タカノ 教員。1989年7月19日没
非公表 4人きょうだいの長男
森敏子 福岡県中間市在住
非公表
江利チエミ 歌手・女優。1959年結婚、1971年離婚
1962年に妊娠するも出産に至らず
養女 小田貴月 2013年に養子縁組。33歳年下
五代前の先祖 小田宅子 江戸後期の女性。旅日記「東路日記」を残す

実子はおらず、戸籍上の家族として残ったのは養女の小田貴月さんだけ。

この一点が、のちの遺産・遺骨をめぐる話につながっていきます。

本名は小田剛一|晩年は「剛一郎」と名乗っていた

家系図の起点になるのは、芸名ではなく本名です。

高倉健さんの本名は小田剛一(おだ たけいち)さんです。

「高倉健」は東映ニューフェイス時代に付けられた芸名で、小田家の姓ではありません。

興味深いのは晩年で、親族に対しては「剛一郎(ごういちろう)」と名乗っていたと伝えられています。

俳優として使った名前、戸籍上の名前、身内に使った名前。ひとりの人に3つの呼び名があったわけですね。

父・小田敏郎は元海軍軍人|戦艦「比叡」から炭鉱の労務管理者へ

父親の経歴が、この家の性格をよく表しています。

父の小田敏郎(おだ としろう)さんは、大日本帝国海軍の軍人でした。

戦艦「比叡」に乗り組んだ経験があると伝えられています。

その後は郷里に戻り、炭鉱で働く男たちの労務管理者を務めました。筑豊は当時、日本のエネルギーを支えた炭鉱地帯です。

時期 父・小田敏郎の立場
戦前 海軍軍人。戦艦「比叡」に乗り組む
その後 炭鉱の労務管理者(筑豊)

荒くれ者と呼ばれた炭鉱労働者を束ねる仕事ですから、生半可な人物では務まりません。

寡黙で筋を通す男を演じ続けた高倉健さんの原型が、この父にあったと見る人は多いですね。

母・小田タカノは教員|1989年に見送るまで

母親は、父とはまったく違う世界の人でした。

母の小田タカノさんは教員をしていた女性です。1989年7月19日に亡くなりました。

戦前に女性が教壇に立っていたわけですから、当時としてはかなりの高学歴です。

高倉健さんは母について多くを語りませんでしたが、母の死に目に会えなかったことを深く悔いていたと関係者が伝えています。

撮影を優先し、故郷へ帰るのが遅れたためだといわれています。

軍人の父と教員の母。この組み合わせが、腕っぷしと礼節を同時に持った人物像をつくったのでしょう。

きょうだいは4人|兄1人・妹2人にはさまれた次男

きょうだい構成も整理しておきます。

高倉健さんは4人きょうだいの次男です。上に兄が1人、下に妹が2人います。

順番 続柄 名前
1人目 非公表
2人目 本人 小田剛一(高倉健)
3人目 森敏子
4人目 非公表

兄ときょうだいの詳細はほとんど公開されていません。

高倉健さんが徹底して家族を表に出さなかったため、名前が知られているのは妹の森敏子さんくらいです。

子どもの頃は体が弱く、家で本を読んでいるような少年だったと伝えられています。

妹・森敏子は今も中間市に住んでいる

きょうだいのなかで、唯一メディアに登場するのがこの人です。

実妹の森敏子さんは、高倉健さんの生まれ故郷である福岡県中間市に住んでいます。

兄の七回忌法要も、地元の菩提寺で営まれました。

そしてこの森敏子さんこそが、兄の遺骨の分骨を長く求め続けた人物です。

その経緯は記事の後半で詳しく触れます。

実家は福岡県中間市|菩提寺は正覚寺

小田家の土地についても記録が残っています。

高倉健さんの実家は福岡県中間市で、小田家の菩提寺は同市内の正覚寺です。

中間市は筑豊炭田の北端にあたる街で、父が炭鉱の仕事に就いたのもこの土地柄によります。

2017年11月には、この正覚寺に高倉健さんの記念碑が建てられました。

実家は裕福だったと伝えられており、高倉健さんは旧制東筑中学から福岡県立東筑高等学校の商業科へ進み、1949年に明治大学商学部商学科へ入学しています。

戦後まもない時期に東京の私立大学へ進学できたこと自体が、家の経済力を物語っていますね。

高倉健の家系図をさかのぼると|五代前の先祖と、鎌倉に残した「家族」

ここからが、この家系図のいちばん面白いところです。

小田家の系譜は、江戸時代までさかのぼることができます。

五代前の先祖は江戸時代の女性・小田宅子

家系図を五代さかのぼると、一人の女性の名前が出てきます。

高倉健さんの五代前の先祖は、小田宅子(おだ いえこ)という女性です。

筑前国の底井野、つまり現在の福岡県中間市の商家のおかみさんでした。

高倉健さんが生まれた土地と同じ場所です。小田家は少なくとも五代、この地に根を張っていたことになります。

家業は両替商と質屋。宅子さんは長女として生まれ、弟が成人するまで女主人として店を切り盛りしたと伝えられています。

江戸時代の女性が家業の代表を務めたわけですから、相当な人物だったはずですね。

52歳で歩いた5か月の旅|旅日記「東路日記」

この小田宅子さんが後世に名を残したのは、商売ではなく1冊の日記でした。

天保11年(1840年)、52歳の宅子さんは女友達と供の者を連れて、九州から東国への旅に出ます。

その旅程が尋常ではありません。

項目 内容
出発 天保11年(1840年)
当時の年齢 52歳
期間 約5か月(144日)
距離 全行程およそ800里
主な訪問先 宮島、讃岐、大阪、京都、奈良、信州善光寺、日光、江戸
同行者 女友達数名と男性の使用人

鉄道も車もない時代に、50代の女性が仲間と自分の足で日本を縦断したのです。

このとき宅子さんが書きつづった旅日記が「東路日記(あずまじにっき)」として残りました。

そして時代を超えて、この日記に光を当てた作家がいます。

作家の田辺聖子さんが『姥ざかり花の旅笠 小田宅子の「東路日記」』として作品にしました。

子孫である高倉健さんが寡黙な旅の男を演じ続けたことを思うと、五代前の先祖もまた旅の人だったというのは、できすぎた話に思えてきます。

さらにさかのぼると鎌倉・北条氏へつながる

小田家の系譜には、もう一段古い話も伝わっています。

高倉健さんは、北条篤時(ほうじょう あつとき)の子孫であるとされています。

北条篤時は、金沢文庫を創設した北条実時の子です。

金沢文庫は鎌倉時代につくられた日本最古級の武家の文庫で、現在も神奈川県立の施設として残っていますね。

ただし、こちらは江戸時代の小田宅子さんのように一次資料でたどれる話ではありません。

家に伝わる由緒として語られてきたものと受け取っておくのが妥当でしょう。

妻は歌手の江利チエミ|28歳の誕生日に結婚した

家系図に「妻」として入るのは、たった一人です。

高倉健さんの妻は、歌手・女優の江利チエミさんです。1959年2月16日に結婚しました。

この日は高倉健さんの28歳の誕生日でした。

2人が知り合ったのは1956年、映画『恐怖の空中殺人』での共演がきっかけです。

できごと
1956年 映画『恐怖の空中殺人』で共演
1959年2月16日 結婚(高倉の28歳の誕生日)
1962年 妊娠するも出産に至らず
1971年9月3日 離婚
1982年2月13日 江利チエミ死去(45歳)

当時の江利チエミさんは「テネシー・ワルツ」で一世を風靡した大スターです。

人気でいえば、結婚した時点では江利チエミさんのほうが格上でした。

生まれなかった子ども|鎌倉に建てた水子地蔵

高倉健さんに実子はいません。ただし、子どもができなかったわけではないんです。

1962年、江利チエミさんは妊娠しましたが、重度の妊娠中毒症のため出産に至りませんでした。

そしてこの出来事は、家系図の外側にひっそりと形を残しています。

1972年、高倉健さんは神奈川県の鎌倉霊園に自分の生前墓を建てました。

その際に「この世に生を受けなかった我が子」のために水子地蔵を建立しています。

離婚した翌年のことです。

戸籍にも家系図にも載らない子どもを、生涯かけて弔い続けたということですね。

1971年の離婚と、命日ごとの墓参り

結婚生活は12年で終わりました。

1971年9月3日、江利チエミさん側からの申し入れによって離婚が成立しています。

江利チエミさんは1982年2月13日、45歳で亡くなりました。脳卒中と、吐瀉物の誤嚥による窒息が原因とされています。

注目すべきは、離婚後の高倉健さんの行動です。

毎年の命日に墓参りをし、本名を記した線香を贈り続けていたと伝えられています。

「高倉健」ではなく「小田剛一」として弔っていたわけです。

戸籍上は他人に戻っても、本人のなかでは家族のままだったのでしょう。

養女・小田貴月|2013年に戸籍上の家族になった

そして家系図の最後に加わったのが、この人物です。

高倉健さんの養女は小田貴月(おだ たかつき)さんで、33歳年下の女性です。

2人が出会ったのは1996年の香港。当時の貴月さんはフリーの旅行ライターでした。

できごと
1996年 香港で出会う
1997年ごろ 同居を始める
2013年 養子縁組。戸籍上の親子に
2014年11月10日 高倉健死去。全財産を相続

17年近く生活をともにし、食事から撮影の随行までを支えたと本人が著書で明かしています。

そして亡くなる前年の2013年に養子縁組を結び、法律上の相続人になりました。

高倉健さんは2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため83歳で亡くなっています。

家系図が二つに割れた|没後10年でようやく戻った遺骨

ここから、小田家の話はこじれます。

養女の小田貴月さんと、実妹の森敏子さんら親族との間で、遺産と遺骨をめぐる対立が起きました。

養女は法定相続人ですから、遺産の相続そのものに法的な問題はありません。

ただ、実の家族から見れば納得しにくい部分が残ります。

立場 人物
戸籍上の家族・相続人 養女・小田貴月
血縁の家族 実妹・森敏子ら

親族側は故郷への分骨を求めましたが、養女側はこれを一時拒否したと報じられています。

動いたのは、没後10年の2024年でした。

高倉健さんの密葬に立ち会った東宝の島谷能成氏らの仲介により、遺骨の一部が親族へ渡され、ふるさとの福岡県中間市へ戻りました。

10年かかって、遺骨がようやく小田家へ帰ったということです。

なお鎌倉市の光明寺には、2017年3月18日に墓碑が建てられています。

高さは180cm、高倉健さん本人の身長と同じ寸法です。

五代前から同じ土地に続いてきた家系図が、最後の一代で二つに割れた。

寡黙を貫いた人の家族が、いちばん語られる形になったのは皮肉な結末かもしれません。

高倉健の家系図についてのまとめ

  • 高倉健の本名は小田剛一で、晩年は親族に「剛一郎」と名乗っていた
  • 1931年2月16日、福岡県中間市に4人きょうだいの次男として生まれた
  • 父の小田敏郎は大日本帝国海軍の軍人で、戦艦「比叡」に乗り組んだ経験がある
  • 父は戦後、筑豊の炭鉱で働く労働者の労務管理者を務めた
  • 母の小田タカノは教員で、1989年7月19日に亡くなった
  • きょうだいは兄1人・妹2人で、妹の森敏子は現在も中間市に住んでいる
  • 小田家の菩提寺は中間市の正覚寺で、2017年11月に記念碑が建てられた
  • 旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校の商業科を経て、1949年に明治大学商学部へ進んだ
  • 五代前の先祖は、筑前底井野(現・中間市)の商家のおかみさん・小田宅子
  • 小田宅子は天保11年(1840年)、52歳で約5か月・800里の東国の旅に出た
  • その旅日記「東路日記」は、田辺聖子の『姥ざかり花の旅笠』の題材になった
  • さらに古くは、金沢文庫を創設した北条実時の子・北条篤時の子孫とされる
  • 妻は歌手の江利チエミで、1959年2月16日(高倉の28歳の誕生日)に結婚した
  • 1962年に江利チエミが妊娠したが、重度の妊娠中毒症のため出産に至らなかった
  • 1972年、鎌倉霊園の生前墓に「生を受けなかった我が子」のための水子地蔵を建てた
  • 1971年9月3日に離婚したが、毎年の命日に本名を記した線香を贈り続けた
  • 養女は33歳年下の小田貴月で、1996年に香港で出会い2013年に養子縁組した
  • 2014年11月10日、悪性リンパ腫のため83歳で死去し、養女が全財産を相続した
  • 遺骨をめぐって養女と実妹らが対立し、没後10年の2024年にようやく分骨が中間市へ戻った

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