細川力蔵の家系図は妻が子爵令嬢!長男は42歳で早世し三代目で雅叙園を手放した

細川力蔵の家系図は妻が子爵令嬢!長男は42歳で早世し三代目で雅叙園を手放した

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目黒雅叙園を一代で築いた細川力蔵さん。

その家系図を調べようとすると、なぜか熊本藩主・細川家の系図ばかりが出てきて、肝心の力蔵さんの家族にたどり着けないんですよね。

実は力蔵さんは石川県の農家に生まれた六男で、大名家とは何の関係もありません。

それでいて後妻に迎えたのは子爵家のお嬢さんで、しかも皇后さまに仕えた女官。この落差、知ったときは正直びっくりしました。

この記事を読むとわかること
・細川力蔵の家系図に登場する三代の顔ぶれと続柄
・後妻・敏子が「白百合の局」と呼ばれた理由と実家の家格
・長男の早世と相続争いを経て、雅叙園が一族の手を離れるまでの流れ

細川力蔵の家系図でたどる一族の顔ぶれ

まずは家系図に名前が出てくる人たちを、続柄ごとに整理していきます。

三代のあいだに何が起きたのかが見えてくると、雅叙園という建物の見え方まで少し変わってきますよ。

家系図の全体像は三代でたどれる

細川力蔵さんの家系図は、公家や武家のように何十代もさかのぼれるものではありません。

石川県の農家に生まれた力蔵さんを起点として、たどれるのはおおむね三代分です。

公開されている資料から確認できる顔ぶれを、いったん表にまとめます。

続柄 名前 分かっていること
本人 細川力蔵(1889〜1945) 石川県下甘田村米浜(現・志賀町)の農家の六男。目黒雅叙園の創業者
後妻 細川敏子(1899〜1991) 東坊城徳長子爵の二女。貞明皇后付の女官(権掌侍)を長く務めた
長男 細川力(1923年生) 42歳で早世したと伝えられる
二代目 二代目細川力蔵 創業者の名を襲名。未亡人・敏子との間で相続争いになった
後の世代 細川雅義 2002年当時、目黒雅叙園を運営した雅秀エンタープライズの社長

こうして並べてみると、家系図としてはかなりコンパクトです。

ただ、その短い三代のあいだに、身分違いの結婚も、遺産争いも、巨額の破綻も全部詰まっているんですよね。

細川力蔵さんの家系図は「長く続いた家柄」ではなく「一代で駆け上がり、三代で手放した家」の記録として読むのが実態に近いと言えます。

出発点は石川県志賀町の農家の六男

家系図の一番上に置かれる細川力蔵さんは、1889年に石川県羽咋郡下甘田村米浜、現在の志賀町にあたる土地で生まれました。

生家は農家で、力蔵さんはその六男です。

ここ、家系図を読むうえでけっこう大事なポイントだと思っています。

当時の農家で六男という立場は、家督も田畑も回ってこないのが普通でした。

実際、力蔵さんは10歳で小学校を終えると、15歳で東京へ出ています。

上京してすぐの仕事は、神田の風呂屋での住み込み奉公でした。

そこから23歳で独立し、芝区芝一丁目で銭湯と瓦斯コークスの販売を始めます。

六男という順番と、10代半ばでの上京、そして風呂屋という職種。この三つが並ぶと、家を継げない立場の子が自分で食い扶持を作りにいった流れが自然に見えてきます。

もちろん本人が理由を語った記録が残っているわけではないので、ここは時系列から読み取れる範囲の話です。

雅叙園の原点は銭湯だった

おもしろいのは、後に「昭和の竜宮城」と呼ばれる建物を作る人のスタート地点が、風呂屋だったという点です。

住み込みで働き、独立して自分の銭湯を持ち、そこから不動産へ移っていく。

華やかな装飾で知られる雅叙園の原点が、こういう地味で泥くさい商売だったというのは、なんだかじんわりきますよね。

後妻・敏子は東坊城徳長子爵の二女

家系図の中でいちばん家格が高いのは、本人ではなく妻のほうです。

力蔵さんが後妻に迎えた敏子さん(1899〜1991)は、東坊城徳長子爵の二女にあたります。

東坊城家は公家の流れをくむ家で、徳長は子爵を叙爵したのち、宮中で御製取調掛・掌典・明治天皇御製臨時編纂部員・御歌所参候・御歌会始奉行といった役職を歴任した人物です。

要するに、天皇の和歌にまつわる仕事を任され続けた家柄ということになります。

なお敏子さんは、この東坊城家の庶子として記録されています。

そして「後妻」という書かれ方をしている以上、力蔵さんには先に別の妻がいたことになりますが、その方についてまとまった記録は見当たりませんでした。

石川の農家の六男と、公家出身の子爵家のお嬢さん。この組み合わせが細川家の家系図をいちばん特徴づけている部分です。

白百合の局と呼ばれた妻の宮中でのキャリア

敏子さんは、結婚前から名前の知られた人でした。

大正期に貞明皇后付きの女官となり、権掌侍として長年宮中に仕えています

貞明皇后は大正天皇の皇后で、1884年に生まれ1951年に亡くなった方です。

その皇后さまのそばに長く置かれたということ自体が、敏子さんの評価の高さを物語っています。

宮中では、その美しさから「禁廷に咲く白百合一輪」と評されました。

そこから通称が生まれ、白百合の局と呼ばれるようになります。

さらに、長田幹彦の小説『小説天皇』では、ヒロインのモデルになったとされています。

実在の女官が小説のヒロインになる、というのはなかなかない話ですよね。

その人が宮中を離れ、農家出身の実業家のもとへ嫁いだ。

……この一行だけで一本の物語が書けそうだなと、個人的には思っています。

長男・力は42歳で早世している

家系図の二代目にあたるのが、長男の細川力さんです。

1923年の生まれとされていますが、42歳で早世したと伝えられています

単純に計算すると、亡くなったのは1960年代の半ばごろということになります。

創業者の力蔵さんが1945年に亡くなっていますから、跡を継ぐ立場の長男が、その20年ほど後に世を去った形です。

事業を継いだ家にとって、これはかなり重い出来事だったはずです。

創業者が消え、その次の世代も早くに消える。

細川家の家系図が三代までしかたどれないのは、この長男の早世が大きく効いていると考えられます。

正直、読んでいて少ししんどくなる部分でもありました。

二代目力蔵と未亡人が争った遺産相続

力蔵さんが亡くなったのは、太平洋戦争が終わった1945年です。

そして戦後まもなく、細川家では相続争いが起きています。

対立したのは、創業者の名を襲名した二代目細川力蔵と、未亡人である敏子さんでした。

身内の争いという意味では、どこの家にもあり得る話ではあります。

ただ、争っている対象が目黒雅叙園という巨大な資産だったせいで、話は家の外まで広がっていきました。

相続争いに名前が出るライオン野口と松尾國三

この相続争いには、ライオン野口こと野口進が関与していたと記録されています。

そしてもう一人、後に興行界で名を知られる松尾國三が、この争いを経て細川家から独立します。

松尾は、力蔵さんが1938年に開いた高級中華料理店「中華殿」を、1948年にホテルへ改装しました。

これが雅叙園観光ホテルです。

つまり細川家の相続争いは、目黒雅叙園と雅叙園観光ホテルという二つの「雅叙園」が生まれる分岐点になったわけです。

家の中の揉めごとが、そのまま建物の系図を枝分かれさせてしまったんですね。

三代目・細川雅義の代で起きた883億円の破綻

家系図をさらに下へたどると、細川雅義という名前が出てきます。

2002年8月、目黒雅叙園を運営していた雅秀エンタープライズが、負債883億円を抱えて破綻しました。

このときの社長を務めていたのが雅義さんです。

公開資料では雅義さんと力蔵さんの続柄がはっきり書かれているわけではありません。

ただ、同じ細川姓で、創業家がそのまま同族経営を続けていた会社のトップに就いている以上、家系図の下の世代にあたる人物とみるのが自然でしょう。

創業者が一代で築いた雅叙園は、883億円という負債とともに、この代で創業家の手を離れました。

細川力蔵の家系図を調べる人向けの関連情報

ここからは、家系図とセットで調べられることが多い周辺の話をまとめます。

熊本の細川家との関係や、雅叙園が今どうなっているのかまで押さえておくと、一族の話がぐっと立体的になりますよ。

石川の農家から目黒雅叙園までの経歴

家系図を読むうえで、力蔵さん本人の歩みは外せません。

年表にすると、上京から創業までの速さがよく分かります。

できごと
1889年 石川県下甘田村米浜(現・志賀町)の農家の六男として誕生
10歳ごろ 小学校を終える
15歳ごろ 上京し、神田の風呂屋に住み込みで働き始める
23歳ごろ 独立。芝区芝一丁目で銭湯と瓦斯コークスの販売を開始
1920年 芝浦商事株式会社を設立し不動産業へ
1928年 芝浦の自宅を改築し「芝浦雅叙園」を開業
1931年 目黒雅叙園を開業
1938年 高級中華料理店「中華殿」を開く
1945年 死去

住み込みの奉公人だった少年が、上京から16年ほどで自分の会社を持っている計算になります。

しかも目黒雅叙園は、日本初の総合結婚式場として構想された施設でした。

日本画の巨匠をはじめ多くの芸術家に依頼して、壁画・天井画・彫刻で館内をくまなく飾ったことでも知られています。

中野貫一の背中を流したことが転機になった

家系図だけを見ても分からないのが、「農家の六男がどうやって資本を作ったのか」という部分です。

ここには、越後の石油王として知られた中野貫一との縁が関わってきます。

伝えられているところでは、力蔵さんは芝浦の見晴館という宿で、中野貫一の背中を流した番頭でした。

そこから中野家との縁ができ、長男の忠太郎と知り合います。

大正10年ごろ、芝浦の埋立地の払い下げ情報を忠太郎に伝えたことで、力蔵さんは大金とその土地の管理を任されることになりました。

二万坪ともいわれる借地権を得た、という記述も残っています。

そして「その金で雅叙園が出来た」と語り継がれているわけです。

つまり細川家の家系図には残らない「中野家とのつながり」こそが、一族の資産の出発点だったことになります。

風呂屋で人の背中を流していた経験が、そのまま人脈になった。

できすぎた話にも聞こえますが、住み込み奉公から身を起こした人の逸話としては、妙に筋が通っているんですよね。

相続税の物納で分かれた土地の所有権

力蔵さんの死は、家族関係だけでなく土地の権利関係にも影響を残しました。

相続にあたって相続税を物納したため、ホテル用地の所有権が複雑になったと記録されています。

結果として、3分の2が国有地、残る3分の1が目黒雅叙園という状態になったとされます。

創業者一人の死で、土地の3分の2が国のものになる。

資産の規模がどれほどだったかが、この一点だけでも伝わってきますよね。

さらに後年には、土地の一部の権利を持つ細川ホールディングスが登場し、借地権をめぐって裁判を起こしています。

相続の後始末が、何十年も先まで尾を引いた形です。

熊本の細川家との血縁関係はあるのか

「細川力蔵 家系図」で検索すると、肥後細川家の系図や細川護熙さんの家系図ばかりが並びます。

ここで混乱する方が多いと思うのですが、結論から言うと別の家です。

細川力蔵さんは石川県の農家の六男であり、熊本藩主だった細川家の血筋ではありません。

細川という姓は各地にあるごくありふれた姓で、大名家の細川氏と直接つながるわけではないんですね。

力蔵さんの出身地についても、石川県立図書館の郷土人物データベースに項目が立てられており、石川県ゆかりの人物として扱われています。

熊本ではなく石川。ここを押さえておくと、検索結果に惑わされずに済みますよ。

一族の手を離れた雅叙園のその後

創業家が去ったあとも、雅叙園という場所そのものは残りました。

2008年のリーマン・ショック以後の動きとしては、2014年に森トラストが米投資ファンドのローンスターから約1300億円で買収しています。

運営はその後、ワタベウェディングの完全子会社である株式会社目黒雅叙園が担いました。

そしてホテル雅叙園東京としての運営は、2025年9月30日をもって終了しています。

今後は2027年に、ヒルトンの「雅叙園東京 LXRホテルズ&リゾーツ」としてリブランド開業する予定とされています。

ちなみに目黒雅叙園は、これまでに22万組以上の夫婦の門出を見守ってきた場所でもあります。

一族の家系図は三代で途切れても、建物のほうは名前を変えながら生き延びている。

……なんだか不思議な残り方をしているなと思います。

家系図をめぐる世間の声

細川力蔵さんの家系図は、じつは調べる人が少なくないテーマです。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、「目黒雅叙園の創業者・細川力蔵について調べている」という調査事例が登録されています。

船橋市議会議員のブログをきっかけに図書館へ照会が入った、という経緯まで記録に残っているんですね。

ただ、その回答でも判明したことは限られていました。

別の資料『先駆者の旗』では「由松」という名前で記載があり、由松が力蔵と同一人物かどうかは確認できなかったと明記されています。

図書館が調べても人物像が固まりきらない。それくらい、記録が散らばっている人物ということです。

一方で、木材業界誌の随筆や個人ブログでは、力蔵さんの逸話が今も繰り返し語られています。

建物の派手さに比べて、作った人の家族の話がここまで知られていないのは、ちょっともったいない気もしますよね。

細川力蔵の家系図のまとめ

  • 細川力蔵の家系図は、本人を起点におおむね三代分がたどれる
  • 力蔵は1889年、石川県下甘田村米浜(現・志賀町)の農家の六男として生まれた
  • 10歳で小学校を終え、15歳で上京して神田の風呂屋に住み込みで働いた
  • 23歳で独立し、芝区芝一丁目で銭湯と瓦斯コークスの販売を始めた
  • 1920年に芝浦商事株式会社を設立して不動産業へ進出した
  • 1928年に芝浦雅叙園、1931年に目黒雅叙園を開業した
  • 後妻の敏子は東坊城徳長子爵の二女で、1899年生まれ1991年没
  • 敏子は貞明皇后付の女官・権掌侍を長く務め、白百合の局と呼ばれた
  • 敏子は長田幹彦の『小説天皇』のヒロインのモデルとされる
  • 長男の細川力は1923年生まれで、42歳で早世したと伝えられる
  • 力蔵の死後、二代目細川力蔵と未亡人・敏子の間で相続争いが起きた
  • 相続争いにはライオン野口こと野口進が関与したとされる
  • 松尾國三はこの争いを経て独立し、中華殿を改装して雅叙園観光ホテルとした
  • 相続税の物納により、ホテル用地は3分の2が国有地になったとされる
  • 2002年、細川雅義が社長を務めた雅秀エンタープライズが負債883億円で破綻した
  • 熊本藩主の細川家とは血縁関係がなく、同姓なだけである

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